Yamatabi-CLUB000
「東日本大震災被災地早期復興」祈願  「東日本震災物故者」追悼  「大歩協理事 故三浦泰平氏」追悼
 
今回は東北地方太平洋沖地震で亡くなられた多くの方達と仲間の三浦の泰ちゃんのご冥福を祈る鎮魂ウオークです。2009年3月28日から一泊二日の旅程で歩いた事もあるし、故人となった三浦の泰ちゃんと、2008年の秋に歩いた懐かしい高野街道「町石道」をみたび歩くことにしました。
難波発7時12分 車両は閑散としています 河内長野駅で忠太郎さんと合流 泰ちゃんの思い出話に花が咲く
極楽橋線は駅標識もおしゃれ 九度山から慈尊院までの間は梅の花を楽しむことができました
難波発7時12分、河内長野駅で忠太郎さんと合流し、九度山駅には8時17分到着です。九度山は柿の生産が日本一の場所でもあり、弘法大師ゆかりの地でもありますが、小さな駅はひっそりとしたたたずまいで、何度訪れても、ちっとも変わっていませんでした。
どこか故郷に似た懐かしさもありますが、いつも柿の収穫時期を外して訪れているような気がします。
九度山駅で下車したのは私達のほかに「同行二人」の袈裟を着た父親と小学6年生の少年、50歳過ぎの男女の3組のみでした。
慈尊院到着…ここから参詣が始まります 百八十番の町石…一番の町石までを辿ります
なぜ九度山っていうのでしょうか?それは弘法大師のご生母様が、弘法大師に会いたいがために高野山まで行こうとしたのですが、高野山は女人禁制。それで、この地にとどまられ亡くなられたそうです。弘法大師は9度、この地を訪れたことから「九度山」と名付けられたと駅構内に書いてありました。
8時25分九度山駅をスタート、30qの長丁場を歩くのも久しぶりですが地道なので足にやさしく、アップダウンも多いことから「歩けなくなったら野宿もあり」と宣言し、弘法大師が歩いた道をスタートすることとなりました。天気は晴れ、まずは町石道「180番」の町石を女人高野と言われる慈尊院の階段で確認しました。
慈尊院は安産祈願で有名なため、いたるところに、手作りのおっぱい絵馬が掲げられていました。「大きなおっぱい、小さなオッパイ」色々です。きっと母乳が沢山でますようにとお祈りを捧げたのでしょう。
それにしても大小さまざまには笑みがこぼれます。次に訪れる丹生神社の境内を掃除をしておられた神官さんが気軽に声をかけて下さいました。
ここから高野山の最高峰「楊柳山1008.5m」が望めること、右肩に奥の院が遥拝できることなど高野山を指差しながら教えてくださり、また大門までの道のりは容易くないこと、展望台では必ず休憩を取ること、着衣は歩く毎に脱ぐこと、などご親切に色々教えて下さいました。「気を付けていってらっしゃい」と言うその声に癒しをいただき、気合いも充分で出発することとなりました。
一番高いところが高野三山の楊柳山1008.5mです 楊柳山の右肩が奥の院…遥か彼方を目指します
1町石の間が109メートル、スタートの「180番」から「179番」、「178番」と減っていくため疲労度が町石で救われるということになります。
慈尊院の180番町石を出発し、柿畑への急坂を登り、果樹園の中の道を歩いていきます。
きれいに剪定された果樹園を抜けると樹林帯が続きます。神官さんお勧めの展望台に9時25分に立ち寄り衣類調整をしていると同じ電車で降りた2組の方達とも合流することとなりました。
眼下に流れる紀ノ川は水量も少なく紀伊の町並みもくっきりと美しく見渡すことができます。展望台を出て、雨引山分岐(町石154番)を過ぎ六本杉と順調に登り続けます。久々に歩く、忠太郎を気遣ってジョンが「大丈夫かっ?」と度々声をかけるのですが「今度、大丈夫かっ?って聞いたら引き返すぞっ!」と心配ご無用論をぶっ放され大笑い
町石道の始まりです 果樹園道路を渡り 遠く高見山が見えます 最初の東屋展望台です
しばらく付かず離れずの状態で様子を見ながら歩きます。
歩くほどに足運びがリズミカルになり、心もとなかった歩き方も大丈夫のようです。これなら奥の院まで行けるでしょう。
久しぶりの再会で地震で亡くなった方達の無念や三浦の泰ちゃんと果たせなかった2度目の町石道ウオークが鎮魂ウオークになってしまったことなどを話ながら、弘法大師が建立したという二ツ鳥居が見えてきました。時間は11時丁度、ここで休憩です。
二つ鳥居で休憩のあと、次のポイントである神田の地蔵堂を目指して10分ほど下った、115番町石あたりで慈尊院に向かって登ってこられる美しい容姿の尼僧様が近づいて来られました。
私もジョンも頭を深く下げ通過を待っていたため拝顔することは出来ませんでした。あまりの幻想的な場面でしたので、小さくなる後ろ姿をソッとカメラに納めるのがやっとでした。
忠太郎とポチははっきりと顔を見たといいます。年の頃なら20歳後半、色白小顔の美人だったと言います。
「まるで菩薩様を見ているかのようだった」と菩薩様に会ったことなどない忠太郎が申しておりました。
神田の地蔵堂下のトイレ 親子の二人連れ 路傍のたんぽぽ
私達の前後を歩く親子連れも快調なペースで歩いてきました。ここから20分ほど進むと、神田の地蔵堂。ここにはりっぱなトイレがあり、利用することにしました。世界遺産に登録されただけのことはあって、清潔なトイレで、訪れる者をやさしく迎えてくれ有り難いです。
こんな山の中にも集落があり騒音や雑踏とは無縁の生活をされている様子に羨ましくもありました。 トイレを済ませ、しばらくゴルフ場に沿って歩き続けました。笠木峠をすぎたあたりから しばらく平坦な山道を歩いていると、前を歩く忠太郎とポチの声がして、「前から自転車〜!」
何を言い出したのかと思いましたが、本当に自転車が2台通り過ぎていきました。
何を考えて彼らは此処を走っているのでしょうか、この道は自転車を走らせるためにつけた道ではないのです。
ここは2004年7月7日に登録された世界遺産・紀伊山地の霊場と参詣道の一つ「高野山町石道」文化遺産なのです。
このまま走っていくと前を歩いておられる尼僧様を追い越すことになるのですが、どんな思いで追い越していくのでしょうか。

ずっと下り坂が続き、あの有名な「焼き餅」の店矢立茶屋にさしかかりました。矢立の町石が「60番」ですから3分の2が過ぎた計算になります。事前に茶屋に電話をして19日がお休みでないことを確認しています。ここは花坂の焼き餅として旅人に喜ばれているそうです。
茶屋到着が12時45分、念願の焼き餅を買い、湧き水で沸かしたと言うお茶をご馳走になり、ジョンが何としたことか茶店の中で弁当を食べても良いかと自ら聞き始めました。いままでにない行動です。それほどに足が棒になりつつあったということでしょうか
他の客も来ることから、丁重に断られ外の広場でお弁当を広げることにしました。日だまりでポカポカと温かく、つい「ここで終りたい」と一瞬脳裏をよぎりましたが、いやいや今日は鎮魂のためのウオークだからと、午後1時15分矢立茶屋を出発することにしました。
矢立の60番町石の前で
もうすぐ矢立峠 矢立茶屋 花坂のやきもち 矢立のお地蔵さま
昼食休憩の後の急な登り坂は結構つらく、荷物は軽くなったが腹が重く、黙々とやっとの思いで歩き続けていると、突然忠太郎のエンジンがかかった様子です。早い早い、忠太郎の早いペースにやっとの思いで我々がついて行く形となりました。

「袈裟掛石」に通りかかりました。ここは弘法大師が袈裟を掛けて休憩したところです。きっと急な坂道を私達と同じ思いで登ってこられたに違いありません。袈裟掛け岩の横にある穴を通り抜けると長生きをすると書いてあったので挑戦しましたが、胴体はおろか、頭さえ突っ込むことは出来ませんでした。しばらく行くと「押上石」に到着です。
押上石は弘法大師の母上が女人結界を突破しようとしたところ、雷雨に遭い、弘法大師がこの大きな石を押し上げて母上を守ったといういわれがあります。
弘法大師が袈裟を掛けて休憩したという…袈裟掛け石 弘法大師がこの大きな石を押し上げて母上を守った…押し上げ石
町石「12番」を過ぎたあたりから、きつく苦しい道が続きます。そう言えば三浦の泰ちゃんもここから喘ぎながら 「まだか?〜ゴールはまだか?」 と叫んでいた事を思い出しました。その途端、私のリュックが心なしか重くなった気がしました。何としたことか、急に足が重くなり泰ちゃんと同じ喘ぎをしはじめたのです。「こりゃ姫に泰ちゃんが乗り移ったぞ」
そんな冗談を言われながらゴールの大門到着は午後3時到着です。予定より1時間も早く到着です!
大門から一番町石までは高野山の宿坊の多い通りを歩きます
ゴールの大門は「町石6」、残りの「5番から1番」は宿坊通りにありますので奥の院に行く途中に確認をしながら、今まで車でしか通過しなかったと言う忠太郎は、見るもの全て新鮮の様子で、クールダウンも兼ねて、ゆっくりと奥の院までを散策しました。
早い時間に到着したからこその余裕です。奥の院到着が3時45分、四国八十八ヶ所のお遍路さんは高野山の奥の院に詣でて満願とされるため
「同行二人」と書かれた白装束の人達も朱印を頂くために長蛇の列で待っている姿が見受けられました。白くて大きな塔の様な碑が目に入り近づいてみると「散る櫻 残る櫻も 散る櫻」と書かれていて戦没者の慰霊塔の様でした。
奥の院では「東日本大震災被災地早期復興」の祈願と「追悼 東日本震災物故者」の垂れ幕がかかっており物故者の鎮魂と被災地の早期復興をお祈りする読経が響いており、私達もここを訪れた意義を噛みしめ、心からの哀悼の意を表して奥の院を後にすることにしました。
奥の院を出たのが午後4時、目の前に高野山駅行きのバスが、まさに出発するぞと言わんばかりにエンジンをふかしており飛び乗ることができました。高野山駅4時27分発のケーブルカーに乗り「ここは日本だよね?」と疑うほどにケーブルカーの中は外国人ばかり目立ちました。高野特急「りんかい」が待っていたのですが特急運賃代を節約して「なんば」で飲もうと言うことになり橋本駅で待つ急行に乗り「なんば」に到着したのが午後7時10分。
勿論、河内長野駅で途中下車するはずの忠太郎は「なんば駅」まで拉致し、みんなで献酒〜!

(教訓)
矢立茶屋からしばらくは、急登となります。茶屋横のベンチでお弁当を広げて食べると、午後からの第一歩が大変苦しい道のりになります。ここは茶屋で「焼き餅」を買ったら(店内でお茶の接待もあるが我慢)、12時を過ぎていようが、1時になっていようが関係なく、空腹のままサッサと急登を登り切り、袈裟掛石あたりか、もう少し歩けば東屋があるので、そこまで頑張り、遅めの昼食休憩を取る方が断然楽です。「焼き餅に惑わされるべからず」です。これは3度、町石道を歩いた、我々の貴重な体験結果です。

(参加者の感想)
●ひ め
今回で3度目、いつ歩いても30qという距離の長さと、アップダウンに喘ぎながら高野山到着と言う達成感のあるコースだと思っています。行き交う人達は登山者であったり、袈裟を身につけた信者であったり、修行中の尼さんであったりと、さすが町石道だと思わずにはいられません。途中、弘法大師が袈裟を掛けて休憩した「袈裟掛石」や、母上を雷から守った「押上石」など心が癒される、まさに鎮魂ウオークにふさわしいコースでした。
●忠太郎
姫から東北地震の鎮魂登山しないかと誘われOKはしましたが30qと言う長丁場に体力の自信がなく、連日、自転車とウオーキングでトレーニングしたものの不安を抱えての参加でした。何年ぶりかに歩いてみて昔、歩いた「力」がまだ残っており、みんなのペースを乱すことなく完歩することができました。
歩き始めるとジョンが「おい大丈夫か?」と何度も聞くので「今度、大丈夫かって聞いたら、引き返すぞ!」と脅しをかけ快適に歩くことができました。仲間の鎮魂、東北地震で犠牲となった人達の鎮魂ができてよかったです。
●ポチ
何年ぶりかの忠太郎兄貴と一緒に歩けて、昔のよき時代のウオーキング協会の話題で盛り上がりました。
若くしてあの世に逝ってしまった三浦さんの果たせなかった夢を実現できてよかったです。途中で美しい尼さんと出会いましたが、続いて、三浦さんも三度笠姿で後を歩いて来た様な、妙な錯覚をしました。町石道は背筋がピーンと張る神聖な道だと思いました。
●ジョン
東北地方の震災の慰霊と復興、泰平さんの追悼を祈願するための高野山登山。終わってみてホッとしているような、こんなことでホッとしてはいけないような、複雑な気持ちが少々。
自然の中で遊んでいるが、本当の自然の怖さを未だ体験していない。東北地方の震災を教訓に改めて学んでいかなければと思っています。
少し日にちをおいて、高野山から熊野本宮大社を詣でる熊野古道・小辺地を訪ねてみようと思っています。

0美智子姫:記