高知県中村市立 蕨岡中学校 昭和38年度 同窓生
高知からバスを仕立てて来ちょったけん…東京からも大阪からも集まったちや
 
 50年ぶりの同窓会・蕨岡舞の森会「記念すべき第1回同窓会」
高知県中村市立蕨岡中学校同窓会が京都方面で開催されました。私は中学校の卒業は大阪の中学校だったのですが「小学校も中学校もメンバー変わらず」との幼な友達に背中を押されて出席することにしました。
4月22日から2泊3日の予定です。現地集合組は京都にあるホテルに直行し四万十市からのバスの到着を待ちました。
午後4時にバスが到着の予定で、現地集合組は既にロビーにいるとは思いますが、どなたが参加されるか知らされておらず、恐る恐るホテルのドアを開けました。  フロントに四万十市のバスと合流するために来たことを告げようと歩み寄ると「みっちゃん!」と呼ぶ声が聞こえました。ソファには既に数人のハチキン娘たちがバスの到着を待っていたのです。
「私の事わかる〜?」「わかるよっ!みっちゃんじゃろ?!」その後は、50数年前にタイムスリップして小学校当時の思い出話に花が咲きました。現地組の女性ばかりでお国訛り全開で話をしているとホテルの係員が出てきて「奥の方に広い待合場所がありますのでそちらをご利用下さい」言葉はとても丁寧で笑顔でしたがフロント付近でやかましかったのでしょう。そやそや。何せ50数年ぶりなんですからトーンも上がるよね。(笑)
正月明けに届いた1枚の葉書には、4月22日京都市のホテル平安の森に16時に到着予定であること(23日のスケジュールは22日の夜に発表)、4月23日は亀岡市湯の花温泉「保津川亭・松園荘」に泊まること(24日のスケジュールは23日の夜に発表)のみが書いてありました。
参加費も当日支払で良いとのことで「出席します」と回答後は、待ち遠しくなり郷愁が日に日に大きくなっていきました。最初で最後の同窓会かも知れない、最後の日程まで行動を共にしよう・・・そう決めました。

去年の11月に亡くなった恩師・柳川 通先生の形見で四万十市に住む息子さんから送っていただいた卒業写真の拡大版を手にして不安を掻き消そうとしている自分がいます。写真を見ながら賑やかに名前当てクイズのような時間が過ぎて行きました。この日ばかりは64歳のハチキン姫ではなく12歳の「みっちゃん」に戻っているみたいです。幼いころ、「♪♪みっちゃん、みちみち、うんこして〜紙がないので・・・・♪♪」と冷やかして歌った腕白坊主たちを、コテンパーにやっつけて泣かして「二度と歌うな!」とこらしめた事がありました。女の子が男の子を泣かしたという事で職員室に呼ばれて恩師に叱られましたが正当防衛を主張し苦笑された事がありました。さしずめ現代ならばイジメに遭った、かよわい少女と言うべき物語なのです。やがて皇室に正田美智子様が嫁入りすることが決まってから「美智子」の名前は格上げされ、イジメ歌は誰も歌えなくなりました。
ホテルの外観を写真に収めようとシャッターを押していると、四万十市からのバスが到着しました。高知ナンバーをしっかりと確認しましたので間違いありません。バスから降りた瞬間を見逃すまいとシャッターを押しましたが、どうも同級生に見えないのです。だいぶ年配の人達が降車してくるのです。慌ててホテルの中に戻り「バスが到着したよ!誰か顔と名前のわかる人出迎えに出て〜!」バスから降りて来る人たちは22名と聞いていましたが、バスの中は10人ほどしか確認できません。後で聞くところによると「ドタキャン10名」がでて、現地からは12名の参加者になったそうです。最初は大型バスでトイレ付の予定でしたが人数減少に伴い中型バスに変更せざるを得なかった様子でした
。幹事さんのご苦労が目に浮かびます。

日焼けした逞しい顔は、白髪頭や、かなり薄くなった頭などで、誰が誰なのか全くわかりません。「ごくろうさま」と声をかけながら、遠路はるばる京都に到着したことを労い、挨拶を交わしました。お国訛りが懐かしく自分もまた中村弁になっていることに驚きを感じます。

フロントで部屋の鍵をもらい部屋割りをすることにしました。宴会のみに参加をする人、1泊のみの参加の人とさまざまでしたがスムーズに部屋に落ち着き、顔合わせが済むと、小雨の降る中「平安神宮まで散歩に行こう」という事になりました。長旅の疲れもない様子です。ホテルから歩いて10分ほどのところに平安神宮がありました。男性諸君はアルコール漬けの様子で部屋で飲み続ける者、風呂に行く者と宴会の時間までを自由に過ごした様子でした。
「平安神宮のご創建由緒」
平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがありました。幕末の戦乱で市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えました。その状況下で京都を救ったのは、京都復興への市民の「情熱」と全国の人々の京都に対する「思い入れ」でした。数々の復興事業を展開し、教育、文化、産業、生活などすべての面において新しい京都が模索され、同時に古き良き京都の維持継承に力が注がれたのです。これらの熱意と一連の町おこし事業が見事に結実して、平安神宮が創建されました。
千年以上も栄え続けた雅やかな京都を後世に伝えるために、京都復興にかけた多くの人々の遺志を後世に伝えるために、四海平安の祈りを込めて創建されたのです。その後、皇紀2600年にあたる昭和15年には、市民の懇意によって平安京有終の天皇、第121代孝明天皇のご神霊が合わせ祀られ、「日本文化のふるさと京都」のおや神様として広く崇敬を集めることとなりました。

平安神宮への参拝から戻ると、卒業生名簿から本日出席の男子7人、女子18人合計25名の参加者にチェックを入れ、アルバムと照らし合わしましたが、面影の残っている人もいれば想像もつかない変貌の人もいます。(私はどうなんやろうか?何せみなさんは18歳まで地元で親交を深め、私はと言うと12歳で地元を離れてしまっています)しかしすぐに「フクタニのミチコ」「郵便屋の娘ミチコ」「西村地区のミチコ」と連呼していると記憶が戻ったらしく、すぐに仲間に入れてもらうことができました。小学校時代の登校時は姉に付いて行きますが下校時は下校時間が違うため同じ地域に帰る生徒同士で(今の集団下校かな)道草をしながら帰ったものでした。バッタが飛び出すとバッタを追いかけ、木の実を見つければ木によじ登り満腹になるまで木から降りてくる気配はありません。ヤマモモ、グミ、桑の実、椎の実、山栗など四季折々の自然のおやつに不自由はしませんでした。時々、庭先の枇杷の実を「おんちゃん〜!もらうで〜!」ともぎ取ることもありました。勿論おんちゃんは農作業に出かけて留守〜!そんな懐かしい話が延々と続きました。
   
やがて宴会がはじまりました。土佐人は誰もかれも酒豪揃いで、おまけにテレビで紹介されるほどの「中村流」と言われる流派で、主催者の挨拶無し、乾杯の発声なしの肩の凝らない豪快な宴会が始まりました。それでも宴会の中ほどでは5人の世話人の方達を代表して今回の同窓会を開催するにあたっての経過報告があったり、自己紹介をしようという事になり名簿とアルバムを広げ顔の確認をすることになりました。翌朝の行程については参加者に希望を聞く形を取ってくれましたが「幹事にお任せ〜」と言うことになり、既に予定している「比叡山・金閣寺・嵐山散策」コースに決定しました。舞台の上ではカラオケを楽しむ人もいましたが宴席での思い出話に夢中で誰も聴いてない様でした。(きのどく〜!)
 
 
宴会も終わり幹事部屋にて二次会をすることとなりました。まぁお国訛りも絶好調で時々理解できない言葉も出てくるためメモをとることにしました。
(方言集にまとめています)
ほどよい時間にお風呂に行こうと酔っぱらい軍団から逃れ、旅の疲れを癒して布団に入りましたが、「よいよ、寝るのがもったいないねぇ。朝まで、どめこうよ〜」と、さながら修学旅行気分で話を続けていましたが、いつの間にか深い眠りに入っていたのです。
 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★
2日目の朝は午前7時からの和洋食バイキングで、既にレストランの周りには、いまかいまかと開店を待ちわびている人もいました。しっかりと朝食を食べて身支度も整えて午前8時30分にはホテルを出発し比叡山延暦寺に向かいました。山頂付近はまだサクラが見ごろで車窓からではありましたが花見もすることができました。琵琶湖も眺めることができました。比叡山延暦寺では拝観料を支払い 根本中堂を拝観し法話を聞くことが出来ました。
 「比叡山の教え」
1200年前伝教大師最澄は、日本の国の安泰と国民の幸せを祈って二ワン人に合った仏教を比叡山に開きました。その教えの根本をなすものは「個々が思いやりの心をもって一隅を照らす人になる」すなわち一人ひとりが空いての立場に立って自分の出来ることを精一杯行う事が、周りが良くなっていくことに繋がると言う事です。後世、このような教えに基づいて、様ざまな高僧が集い、特に鎌倉時代には、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮などと言った祖師方が比叡山で修業をされました。(諸堂めぐり資料より)
御坊様の話によると根本中堂の総ケヤキづくりの柱は国宝で参拝者の手の脂で柱を触れてお参りをするために眩しく輝いていることや花天井の説明もしていただきました。各地のお大名達が「枯れないお花」をお供えする意味で、それぞれのお抱え絵師に描かせ寄進したもので200枚あるそうです。中にはお花以外の「かぼちゃ」や「たけのこ」「椎茸」「トウモロコシ」も描かれているそうですが真上を見てばかりだとめまいがしそうで わずかしか確認することができませんでした。比叡山を語るときに「論・湿・寒・貧」という言葉があり「論は勉強して下さい」「湿は比叡山は霧が濃いですよ」「寒は比叡山は麓との温度差が5℃ある」「貧は貧しいという意味ではなく清らかな生活をすると言う意味」だそうです。
延暦寺の根本中堂の特徴は次の3つ。
@暗いお堂。これは祈願の道場、つまりお祈りに集中することができるように日の光りがあまり入らないようにしているのだそうです。
A仏様の高さが我々と同じ高さ。通常は仏様の方が、我々よりも高い位置に置かれていますが、ここでは我々とほぼ同じ高さに置かれています。これは天台宗の平等の思想=人間は本来は皆、仏であるとの思想によるものだそうです。
B仏様と我々との間に3メートルほどの溝(谷)がある。この谷は煩悩の谷(海)を表しており、人間はみな平等の思想はあるものの、仏に近付くには修業が必要であるとの意と思われます。

「薬指の由来」
根本中堂には薬師如来がまつられていますが、その右掌は我々の方を向いており、一方左手は薬壺を持っており、薬指だけ少し曲げています。右手は我々の悩み、痛みなどを受け止めてくれるために我々の方を向いています。そして左手の薬指で「薬」を我々に塗ってくれる指です。「薬」とは文字どおりの意味もありますが、もっと広く今生きている人々の願いも聞き入れてくれることも意味しているそうです。

「不滅の法灯」
つぎは「油断」の語源。伝教大師最澄が創建して以来、1,200年燃えつけている“不滅の法灯があります。この火の源は菜種油です。この菜種油を絶やさないよういつも注意する、油を断つな、油断をするな、というところから「油断」という言葉が生まれたそうです。入り口の敷石には石職人たちが「山」と言う文字を刻んでいるので探してみてくださいと言われ、探してみました。なるほど言われてみればその通りで、さまざまな形で「山」と言う文字が刻まれていました。昔は「山」と書いてあるだけで比叡山に届いたともいわれました。まぁ郵便番号のハシリでしょうか。
比叡山を後にして次は金閣寺の見学です。金閣寺は正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。 元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。ここは平日だと言うのに、観光客が、なかでも特に外人が多く、英語、中国語、韓国語が飛び交っていました。歩くのも、写真を撮るのも至難の業でした。金閣寺の次は昼食を兼ねて嵐山散策となりました。
ここも人でごった返し、お土産を求めて買い物をする人もいましたが私は2時間の自由時間のほとんどを桂川にかかる渡月橋を眺めて過ごしました(はよぅ〜湯の花温泉に行き風呂に入りたい〜!) 
  おみくじで大吉を引き当てた多恵ちゃんの笑顔 
 鏡湖池と金閣
 嵐山渡月橋
嵐山に遊ぶ
湯の花温泉への途中にある酒造会社の酒蔵見物をして日本酒の試飲を済ませ、午後4時湯の花温泉「保津川亭・松園荘」に到着です。ここは豪華な造りとなっており「京都の奥座敷」と言った感じです。1泊目のホテルとは違い格式のある豪華な部屋つくりとなっていました。あちこちの観光で汗をかいており「まずは温泉に入ろう」という事で露天風呂ありミストサウナありの これまた豪華な温泉を堪能することができました。
 
 2泊目の宴会もまた「中村流」でスタートし、ぜひ次回に繋げたいということで松山在住のサジ君が「道後温泉でぜひ第2回目を」と幹事を引き受けてくれることになりました。すると「第3回目はぜひ熱海で、幹事はお任せあ〜れ!」と茅ヶ崎在住のセッちゃんが幹事を引き受けてくれることになりました。
食事を運ぶ仲居さんが「みなさん、同窓会ですか?あの方は先生ですか?」と少しお頭が薄くなった男性に目をやり質問をしました。
「そうよ、あの人は私達の校長先生、その隣が教頭先生、あの隅におるのが用務員だったおじさん」と説明をしました。宴会場は大きな笑いの渦で楽しく時間が過ぎて行きました。今夜は舞台上も盛り上げてもらいたいと突如ひらめき、仲居さんに頼み、マジックと紙を借りカラオケの機械に「部落対抗カラオケ合戦」と大きく書き、まんべんなくカラオケが楽しめるように工夫しました。スタートは言いだしっぺの私で曲目は勿論「南国土佐を後にして」をリクエストしました。
盛り上がったなあ…楽しかったなあ…みんな年をとったなあ…
♪♪南国土佐を あとにして
   都へ来てから 幾年(いくとせ)ぞ
   思い出します 故郷の友が・・・・・
ここまで歌って不覚にも こみ上げる熱いものを感じて歌えなくなってしまったんです。今回この会を成功させてくれた5人の幹事さんに感謝への気持ちや懐かしい故郷の光景を思い浮かべると涙がこみ上げてきました。歌えなくなった私を見て、すかさず大阪組の応援団「ミサオちゃん&スミエちゃん」が舞台に走りあがって続きを歌ってくれました。
♪♪門出に歌った よさこい節を
   土佐の高知の 播磨屋橋(はりまやばし)で
   坊さん簪(かんざし) 買うを見た

♪♪月の浜辺で 焚火(たきび)を囲み
   しばしの娯楽の 一時(ひととき)を
   わたしも自慢の 声張り上げて
   歌うよ土佐の よさこい節を
   みませ見せましょ 浦戸をあけて 月の名所は 桂浜

伴奏の間に「最後は、みっちゃんが歌うとうたや〜」とミサオちゃんに引導を渡され、やっと帳尻を合わすことが出来ました。

♪♪国の父さん 室戸の沖で
   鯨釣ったと いう便り
   わたしも負けずに 励んだ後で
   歌うよ土佐の よさこい節を
   いうたちいかんちや おらんくの池にゃ
   潮吹く魚が 泳ぎよる よさこい よさこい 
 ▲蕨岡・舞の森会 2012年京都の旅の幹事さんたち
この歌を皮切りに、東京組、松山組、四万十組と時間の許す限り、賑やかで楽しい宴会となりました。「たしか我が村には蕨岡音頭なるものがあったはず」と思い出してみなさんに歌詞を教えてもらい大きな紙に書きだしました。お開き時に全員舞台に上がり合唱しました。歌がはじまると踊る人も出て、それはそれは大変盛り上がり、この歌を「蕨岡舞の森会・テーマソング」にしようと提案しました。
(故郷に、こんな良い歌があるがじゃけん歌い継いで行こう!)
♪♪蕨岡音頭

ハァ 嫁にこしゃんせ ソレ わしらが村へよ

米で知られた 米で知られた ソレ蕨岡 ソレ蕨岡

さぁさ みんなで さぁさ みんなで

踊りゃんせ ソレ 踊りゃんせ〜

※(2番以降は四万十組が後日調査し次回には完成して発表)

←よいよ盛り上がるぜよ 「蕨岡音頭」
湯の花温泉 松園荘 保津川亭で大宴会…どうすれば下の写真の少年少女がこんなになるがや…
平成24年 11月逝去されました 柳川 通先生の形見の写真です。応接間に飾られていたものです。
宴会を終え、部屋に戻り、最後の夜を名残り惜しむかの様に男子部屋にて二次会をすることになりました。日本酒10本、梅酒ワイン1本、缶ビール10本が運び込まれ、今回の同窓会を迎えるまでの苦労話、次回への希望、母校の丘への桜の植樹など酔っぱらっているものの話は真面目で前向きな熱い話し合いが続きました。空気がきまずくなると「校長先生」がうまく緩和剤を振りいてくれ午後11時、おひらきタイムとしました。

部屋に戻り、さて寝ようかと言いつつも「寝るのがもったいないねぇ、朝まで どめこうか・・」と話していたら突然、部屋の電話が鳴りました。校長先生からです。「今からお前らの部屋に行くけん入り口をあけてくれ〜」との事です。お互い間違いが起きる心配は卒業している?(笑)ので、安心ではありますが「もうみんな寝たがよ〜」と答えて、まだ話中にも関わらずヒトミちゃんがガ〜チャンと受話器を降ろしてしまいました。電話を切った後「絶対に部屋に来るけん電気を消して寝たふりをしよう」と言っていると、案の定ドアのノックの音が大きく響きました。
「来た、来た〜ドアを開けたらいかんぜ。声だしてもいかんぜ」と息を殺してじっとしていると、やがてドアの外が静かになり諦めて帰った様子です。しばらくすると隣の部屋のセッちゃんの声で「開けたちや〜!」という声がするではありませんか。セッちゃんなら大丈夫とドアを開けると何と後ろにピッタリと「校長先生」がくっついているではありませんか。これには全員が大爆笑で憎めず可愛らしい「校長先生」を部屋に招き入れ「オオカミと七匹の子山羊の話に似ちょるねぇ」と言いながら荷物置きにしている部屋を急きょミニ宴会場と模様替えをしセッちゃん、校長先生、寝ていたヒトミちゃんも起きて来て3人で酒盛りを始めました。酔いが回るにつけ声は大きくなり私達は電気も消した部屋で会話を盗み聞きしながら腹が攀じきれるほどに笑いころげました。「お前らの笑い声がやかましい!」と「校長先生」に叱られるほど笑い泣きをしました。これほどに笑ったのはみんな久しぶりです。(日付変更線あたりに退散したみたいですムニャムニャ〜) 
★★★★★★★★★★★★★★★★★★
午前6時、眠りは浅かったはずでしたがスッキリと爽やかに目覚めました。まだみんな夢の中です。そっと抜け出して朝風呂に行き湯の花温泉の単純弱放射能泉(天然ラジウム温泉). をたっぷりと味わいました。午前7時からの朝食を食べ終わりましたが3席まだ起きてこれない人達がいる様子で部屋に電話をしても出ない様子なので私が部屋に呼びにいきました。「バスがでますよ!」の声に飛び起きました。残っていたのはやはり「校長先生」以下2名。サジ君が「みっちゃん、朝の散歩に行こう」と誘ってくれましたのでひょっとしたらイタドリがあるかも知れないと、期待し山の方向へと散歩をすることにしました。イタドリありましたよ〜!ホテルに戻ると季節限定イタドリ姫のためにハチキン娘たちも採ってきてくれていました。「中村に持って帰らなくていいの?」と聞くと「中村には腐るほどあるけん」とのこと。有難くいただいて帰ります。
午前9時・・・とうとうお別れの時間がやってきました。四万十組は貸切バスで、大阪・東京組はホテルの送迎バスで同時発車することになりました。しかし四万十組は、まだバスには乗らず私達の送迎バスの見送りに出てくれました。別れはいつもつらいものです。
送迎バスの運転手さんが「こんなに沢山の人に見送られたのは初めてです」と驚くほどに賑やかなお見送りとなりました。JR亀岡駅に到着し、少しでも長く一緒にいたいと思う心から大阪組も新幹線で新大阪に帰ることになりました。別れを惜しんで京都駅でお茶タイム。次回も絶対に再会しようと約束てしお別れとなりました。貸切バスは途中で三田市にあるキリンビールで休憩を取り試飲を楽しんでから帰る予定だそうです。(まだ飲むがかよ〜?)
四万十組のタエちゃんからのメールでは、午後2時51分現在三木インターを出て土佐路へむかっている
との連絡がはいっていました。
家族のみなさんの理解を得て送り出してもらい、2泊3日の楽しい同窓会はこうして幕をおろしました。
 「また会おうね!来年は道後温泉でね!それまで元気でおろうね!」
 
武村壮一郎くん  吉岡正博くん 山本純子さん  豊永富恵さん 豊崎節子さん  尾崎富貴さん 
 
山本幸男くん   谷内 操さん  杉本哲士くん 中岡 忍くん   川村たかみさん 森岡澄恵さん 
 
 松田多恵さん  豊永義雄くん 渡辺祥子さん   高崎みはるさん 吉崎八代生さん  下山ひとみさん 
 
 尾崎石男くん 横田実保さん  山崎鈴子さん   山崎すみさん  早川香代さん 松田佳代さん 
●2日間一緒に行動をして出てきた言葉で、
意味が理解できなかった方言集です。
第二回目幹事を引き受けました山本幸男です。
平成25年の10月頃、愛媛県の道後温泉で開催したいと思います。
25年の春頃にはご案内を差し上げるようにしたいと考えております。ご参加のほどよろしくお願い申し上げます。

 【編集後記】
今回はすごく楽しくとても良い思い出になりました。
いつも故郷高知を懐かしんでおり、春先にはイタドリを求めて近郊の町を駆け巡っております。またニックネームはハシキン姫、メールアドレスはmichiko@hime8kin.net
ホームページのURLにもhime8kin.netを使っています。
年をとってからもこんな良い思い出作りができたことに感謝、この企画を実行してくださった幹事の皆様やご参加いただいた皆様にあつく御礼申し上げます。
プリントアウトをしたものを送付いたしましたが、インターネットの環境をお持ちの方は
http://hime8kin.netを入力していただくか、ハチキン姫で検索していただくと鮮明な画像でご覧いただけます。また「みんなの広場」にご感想をいただければ幸いです。
では来年、ぼっちゃんの里・道後温泉でおめにかかりましょう。
福谷美智子
 カッコ内は標準語、例題も書きました。

 ぼっちり(丁度)→この服は体にぼっちりやいか

 ひやい(寒い)→今日は、よいよ ひやいちや

 てがうな(詮索するな)→あいつの言うことをてがうなよ

 べったり(沢山)→べったり汗をかいたねゃ

 しょうしな(恥ずかしい)→そんなに見つめられたら しょうしなちや

 のさな(物事が雑)→お前のすることはのさなけんねぇ

 むしくるな(ぐちゃぐちゃにするな)→人の話を、むしくるな

 どめく(おしゃべりする)→人が話しちょる時は、どめくなよ

 やしべた(小馬鹿にする)→儂の事をやしべたらいかんちや

 だらしい(疲れた)→今日はバスに乗ってばっかりでだらしいけんねぇ

 しわい(しつこい)→お前の話はしわいけんいかんちや

 へんしも(急いで)→酒をへんしも持ってきてもろうてくれや

 びったれ(弱虫)→嫁が怖いかのぉ、よいよ、びったれよのぉ

 はりまわすぞ(ぶっ飛ばすぞ)→儂をやしべたら、はりまわすぞ 
0 美智子姫:記0000