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下り酒を積んだ樽前船 ~鴻池ゆかりの地・伝法を歩く
 
残暑厳しき中ではありますが1週間に1コースを目標としていますので暑さに負けず「大阪さん歩」に出かけることにしました。今回は私の住む此花区です。此花、此花と言っても、いささか広ろうござんす・・舞洲・梅香方面は次回に行くとして自宅から目と鼻の先の「伝法」の歴史をたどることにしました。
自分の住んでいる街でさえ「へぇ~そうだったのか!」と驚きの発見があるからおもしろい。
阪神電車千鳥橋からスタートです。駅から商店街のアーケードの中を歩きます。昔は大繁盛だった商店街も、訪れる度に衰退している様な気がしてなりません。それもそのはず此花区には大手スーパーが乱立しているのです。パチンコの開店を待つ、なが~い列が異様な風景でした。
▲四貫島本通り商店街
千鳥橋駅をでて右へ、目前の北港通りを右へ進んで四貫島本通り商店街へ入ります。アーケードの終了点を右に折れると森巣筋商店街と名前が変わります。
しかし店はほとんどありません。突き当りの階段を上り切ると「森巣橋」に到着です。
 ▲森巣橋 
1863年に備前藩によって架けられた 森巣橋は、鴉宮の元の名である傳母頭(もりす) 神社の名を保存する為に名付けられました。豊臣秀吉が八咫烏にちなんで傳母頭神社を鴉宮と改めた際、木々が茂って鴉の巣のような形をしていた所を選定し遷宮したと伝えられています。現在は開発が進み正連寺川の流れは公園と化し橋の下に川の流れはありません。
▲鴉の宮
森巣橋を渡ると 鴉宮(からすのみや)があります。1215年、村と港の繁栄を祈念し、傳母頭(もりす)神社として鎮座しました。1592年に豊臣秀吉が出兵した際、安全を祈願するや、八咫烏(やたがらす)が軍船の前後を飛んで船を守ったと言われています。これに感激した秀吉が、帰国後、神社名を鴉宮と改め、現在地に遷宮したと伝えられています。鴉宮本殿、拝殿、中門及び透塀は、 国登録有形文化財(建造物)に指定されています。
鴉宮の横に「氷」の旗が風になびいており、店主が水打ちをしていました。「おじさん!まだ、かき氷しているの?」と聞くと、すまなさそうに「おしまい」を告げられました。やっぱりね。もう秋だもんね・・今年は一度もかき氷たべてないわ・・・ザンネン!鴉宮の境内をお詣りして出て来たらさっきのおじさんが待ち構えていて「蜜の種類がミゾレだけしかないけど、それで良かったら出来ますよ!」「あらまぁ嬉しい!伝法を回って帰りに必ず立ち寄ります」この店の氷は氷屋の氷を使っていて、きめ細かくてとても美味しいのです。
 かき氷の約束ができたところでウオークを再開し直進すると信号が見えてきました。信号の手前の筋を左入ると、すぐに鴻池組旧本店・旧本宅があります。
▲鴻池本店
鴻池組創業者の鴻池忠治郎は1871年に伝法にて建設業と運輸業を開始しました1898年には淀川改良工事に従事し、後の鴻池組発展の基礎を築きました。鴻池組旧本店の建物は1910年に建 てられたモダンな木造洋館で、明治から大正にかけて流行したアールヌーボー様式を取り入れており、1982年に日本建築学会から全国主要建築物に選定されました。旧本宅は1909年に建てられた町屋風の建物です。 
▲澪標住吉神社
 鴻池組旧本店のほぼ真向かいに澪標住吉神社があります。804年、遣唐使の航路安全を祈願する祭壇が造られ、一行の帰りを迎える目的で澪標を立てたのが始まりです。河港 の伝法口の賑わいと共に、土地の守護神・海上交通 安全の神として社殿境内 に整えられたと伝えられています。大阪市の市章はこの澪標です。
▲日本鋳鋼所跡住友金属工業の前身である日本鋳鋼所の碑
車道を進むと阪神電車のガードがあり、その手前を右に曲がると伝法小学校があります。校門の内側には日本鋳鋼所跡住友金属工業の前身である日本鋳鋼所の碑が建っていました。しかし校門は閉鎖しており「関係者以外立ち入り禁止」の看板があり仕方がないのでカメラだけ侵入させて写真を撮ることができました。日清戦争後に国内重工業が発展し、鉄鋼需 要が高まる中、1899年に鴻池組によって建設された我が国初の本格的な製鉄所で、翌年4月に初湯されました。
▲旧大阪道(尼崎へ続いていました)
43号線を渡り「いしみ歯科」の辻を直進すると慶善寺、安楽寺とお寺が続きます。こんもりとした木立の中に西念寺がありました。この道筋は「大坂道」と道標に刻まれていました。 
 ▲西念寺 
伝法山・西念寺は、645年に天竺南山道宥律師の教伝により、法道仙人が仏法伝導道場を建立したのが始まりと伝えられ、806年に空海が中興しました。鎌倉末の1328年以後、四宗兼学の寺となり、摂・河・泉三国の四大本山として栄えました。日本三大船祭の一つであった「流潅頂・川施餓鬼」と11月14日「お十夜とのっぺ焚き」の伝統行事を残しています。  
▲庚申堂 海抜0m地帯と淀川を仕切る大堤防 ▲堤防の上からは六甲山が目前に
伝法5丁目7と、伝法5丁目8の看板の間の細い道を進むと左側に庚申さんがありました。
1658年に国家安泰、五穀 豊穣を祈願して建立された愛宕神社の中に庚申堂はありました。愛宕神社は1909年に澪標住吉神社に合祀されることになりましたが、地元の強い要望もあって庚申堂だけが残りました。申を施した彫刻の飾りがあるところから申神社とも呼ばれ、今も人々の信仰を集めています。 
庚申さんを出て直進し堤防に通じる階段を上がると心地よい風が吹いています。直射日光は残暑厳しいですが吹く風は秋を運んでくれています。帽子を持ち上げ頭髪に風を送り頭を冷やします。氷の入ったお茶を飲み熱中症対策も忘れません。伝法水門が見えてきました。
▲淀川スーパー堤防上を歩く
伝法水門は昔の伝法川の河口です。1873年に、度重なる洪水や高潮などの水害を防ぐために行われた淀川 改良工事に伴って伝法閘門が完成しましたが、この地域の工業化が進んだことで地下水が多く使われ、地盤沈下が激しくなりました。そのため閘門としての機能が失われ1964年に閘門に代わる伝法水門が設けられました。

1599年に伊丹の酒造家・鴻池新右衛門が陸路を馬で運んだのが、清酒の江戸送りの最初と言われています。大坂や伝法も酒造地でしたが、江戸初期には特に伊丹や池田が酒の銘醸 地として知られ、上方から江戸へ送られた酒は、江戸近辺の地廻 り物に比べて品質が良く、「下り酒」と呼ばれ、江戸の人々が愛飲しました。伊丹・池田からは馬と天道舟を用いて伝法に運ばれ、 樽廻船に積み換えられました。江戸中期以降には灘や西宮が酒造地として台頭し、次第に「下り酒」を代表するようになりました。
▲淀川堤防壁画
  樽廻船 江戸時代に入ると、一大消費市場となった江戸と物資供給地で ある大坂間を結ぶ海運業が発達しました。1619年に堺 商人が紀伊国富田浦の廻船を借り受け、木綿や油とともに酒を混載して江戸へ送りました。これが菱垣廻船の起源と言われています 。伝法では 、644年~1648年に酒荷を主として雑貨を混載する伝法廻船が大坂廻船問屋によって仕立てられ、その後、1658年に北伝法の佃屋与兵衛が伝法最初の廻船問屋を開業しました。 1661年には大坂・伝法の両所に酒荷専門の廻船問屋が現れ、伝法では特に200~400石積みの「小早」と別称された廻船・伝法船を独自に仕立てました。これが樽廻船の起源と言われています。樽廻船は、四斗樽の酒樽のみを積み込んだために荷役作業時間の短縮が図られるとともに、他の荷物との混載による荷損が少なく、スピードと安全面で菱垣廻船を圧倒し、次第に荷物を奪ってゆきました。 廻船は、1673年~1681年には400~500石積み、その後1000石積み、幕末には1800石積みへと大型化して行きました。
▲伝法港
伝法水門から堤防を離れ北港通に向けて歩いて行くと小さな港の隅に伝法川跡の碑がありました。 中世末期に河港として伝法口が開かれ、伝法は江戸時代に入ると大坂の水運の玄関口となりましたが、安治川の開削によって港としての機能は衰退しました。また、新淀川開削によって河川としての役割もなくなり、長さ890m、 川幅60mあった伝法川 は1953年には完全に埋め立てられてしまいま した。 
▲鴉の宮神社御旅所 ▲伝法川跡碑
ぐるりと引き返すように歩いて行くと「御旅所」があり酉島宮と書かれていました。鴉宮を出発した一行は御旅所で休憩したと思われます。信号を渡り施餓鬼で有名な正蓮寺へ向かいました。 
▲正連寺
正蓮寺は1625年、正蓮日寶が小庵を建立したのが始まりと伝えられています。かつては七堂伽藍が備わり、大阪25カ寺に数えられていましたが、火災 や地震のために滅失し、現本堂は1874年に建てられたものです。 毎年8月26日に行われる川施餓鬼は1721年に始まり、日本三大施餓鬼の一つとして江戸時代から有名で、大阪市無形民俗文化財に指定されています。古くは天神祭を凌ぎ、「暑い暑いは天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と語られる程、有名であったそうです。
▲森巣橋北詰近くの お好み焼きの店「一竹」さん 
「今日のコースはこれにておしまい!かき氷の店に戻ろうか」あのおじさんは まさか私達が本当に舞い戻って来るとは思ってなかったと思います。のれんをくぐると案の定、驚いた様子でした。(戻って来るとは律儀じゃのぉ)お好み焼きと、かき氷で反省会をしてそれぞれの自宅へと解散しました。
  
 
 文:美智子姫