015-016-KITAHORIE
 
今回は地下鉄 西長堀駅をスタート&ゴールに歩いてみました。まずは中央図書館からです.
 地下鉄・西長堀駅 7A出入口  中央図書館  木村蒹葭堂邸跡
  中央図書館
昭和36年(1961)に大阪市制70周年記念事業として旧・大阪市立中央図書館が建てられ、平成8年(1996)に現在の建物に建て替えられました。蔵書数344万冊、年間700万人の来館者がある全国有数の公立図書館です。
 木村蒹葭堂邸跡
木村蒹葭堂(1736~1802)は文人、画家、本草学者、蔵書家、コレクターで、北堀江瓶橋北詰の造酒屋の長子として生まれ、通称は坪井屋(壺井屋)吉衛門といいます。書斎庭に井戸を掘ったときに葦(蒹葭)が出て、それを愛でて号としました。幼少の頃から好学多芸で、文学、絵画、本草学、篆刻、物産など万物に精通し、蘭語も得意で、蘭学者番付に名が載るほどでした。交友も広く、「蒹葭堂日記」には延べ9万人もの来訪者が著されています。寛政2年(1790)、55歳のときに酒造統制違反で町年寄役を罷免され、伊勢に転居しますが、これは寛政の改革で大坂商人の勢力を弾圧しようという幕府の意図があったともいわれています。しかし2年後に帰坂し、船場呉服町で文具商を営むと稼業は栄え、以前にも増して隆盛となりました。享和2年(1802)に没して、天王寺区の大応寺が墓所です。膨大な蔵書は幕命で昌平坂学問所に納められ、現在は内閣文庫に引き継がれています。
木村蒹葭堂レリーフ 大阪市立西高等学校
 
土佐稲荷神社 
 当地は長堀川沿いで、かつては土佐藩蔵屋敷があり、米穀、材木、鰹節、和紙、砂糖など土佐の特産物が扱われていました。古くから屋敷内に稲荷社はありましたが、享保2年(1717)に藩主・山内豊隆が社殿を造営しました。廃藩置県後の明治6年(1873)には、元・土佐藩士で新政府高官となっていた後藤象二郎の斡旋で、坂本龍馬の海援隊の経理を担当していた岩崎彌太郎(1835~1885)が「三菱商会」を設立。土佐藩の負債を肩代わりする条件で、船3隻を入手して海運業を始めました。これが三井、住友と並ぶ日本三大財閥のひとつ、三菱財閥の起こりで、要するに土佐稲荷神社は三菱創業の地ということになります。このとき彌太郎は、土佐藩主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて社章(スリーダイヤ)を作り、土佐稲荷神社の神紋の中にもスリーダイヤは入っています。神社には岩崎彌太郎邸宅跡の碑があり、神社を囲む玉垣なども三菱系列の会社が寄進しています。また当地は江戸時代より桜の名所として有名で、宝井其角の「明星や桜定めぬ山かつら」の句碑があります。桜の木々は大阪大空襲で全焼しましたが(灯籠などが焼けこげているのもその名残です)、戦後、若木が植えられ、現在は復活しています。第12代横綱・陣幕久五郎が寄進した狛狐が現存しています。
周囲の玉垣には三菱の関連企業が名を連ねています
西長堀アパート(団地)
 西長堀アパート(団地) 昭和32年(1957)に日本住宅 公団が建設しました。東京都に 造成された晴海団地高層アパー トと並び、日本住宅公団による 高層住宅の第一号で、11階建て のマンモス団地です。関西にお ける公団高層住宅の先駆けで、 当初の入居者には著名人が多 く、作家の司馬遼太郎、作詞家 の石浜恒夫らが入居していまし た。司馬遼太郎は産経新聞夕刊 連載の『竜馬がゆく』(1962~ 1966)をここで執筆しました。
▲鰹座(かつおざ)の跡
鰹座橋は元和8年(1622)の長堀川開削から明暦元年(1655)までの間に架設されたと考えられています。右岸に鰹節を売買する鰹座があったことが橋名の由来で、また土佐殿橋とも呼ばれました。江戸時代は鰹座橋と玉造橋の間、西長堀川の両岸一帯に土佐藩大坂蔵屋敷があり、土佐廻船によって鰹節を始めとする海産物、材木など、土佐の産品が大量に陸揚げされて盛況を極めました。廃藩置県の後は岩崎彌太郎の所有地となり、ここに三菱本社が建てられますが、明治7年(1874)に本社は東京に移されて大阪支店となり、その後、大阪支店も明治33年(1900)に中之島に移転していきました。
▲細野ビルディング
「細野組」の営業部として昭和11年(1936)に建築されたものです。細野組は明治5年(1872)生まれの細野濱吉氏(瀬戸内海の家島出身)が創業した建設会社で、御堂筋の道路工事、大阪築港、芦屋六麓荘の総合開発、芦屋学園の創立などを手がけました。現在のビルオーナーは細野房雄氏で、一時は、老朽化のためにビルを壊して新しいビルを建てようと考えたこともありましたが、改めてビルの魅力に気づき、たった一人で、1つ1つ手作業で修復しました。現在は、オーナーの人柄と味のあるレトロビルに魅せられて、学生からアーティストまで様々な人が集い、アートイベントなどが行われています。また「大阪楽座事業」の歴史的建造物にも指定されています。
▲西区役所 ▲小学校・国民学校顕彰碑
▲大阪のタクシー発祥の地
▲大阪木材市売市場発祥の地跡 ▲白髪橋
大阪木材市売市場発祥の地跡は元和末年(1622)の頃土佐藩の申請によって材木市が立売堀川で始まり, やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると西長堀川でも材木市が許可される事になった。土佐ばかりでなく, 日向, 紀州, 阿波, 尾張など全国各地の材木が集まりしだいに川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり, 西長堀橋南詰から富田屋橋, 問屋橋, 白髪橋にかけての浜側は, 江戸時代から昭和にいたるまで, 年中材木市が開かれてた。
戦後, 長堀川は水質の汚染が進み舟運の利用も減少したため昭和36年から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が埋め立てられ, また昭和四十二年から同四十六年にかけて四ツ橋から 木津川間の西長堀川も埋め立てられた。今でも北堀江の東側には, 材木商の看板があちこちに残っている。 
白髪橋は鰹座橋と同じく、元和8年(1622)から明暦元年(1655)までの間に架設された橋梁と考えられています。北詰は現在の新町3丁目、南詰は現在の北堀江3丁目にあたり、どちらも当時は白髪町でした。橋名の由来は、新羅船がここに着岸して、後世、それが訛って白髪町・白髪橋となった説(『摂津名所図会大成』)や、土佐藩が自国の白髪山から木材を伐出して、当地に材木市場を設けたのが由来とする説(『西区史』)などがあります。江戸時代には阿弥陀池の和光寺と、寺の東側に繁昌した16軒の水茶屋への参詣遊山の人で賑わったといいます。
▲白髪橋交差点を南へくだり次の信号を東へ入ると阿弥陀池の和光寺です
阿弥陀池・和光寺
 阿弥陀池は古代からあって、霊水が湧く有難い池で、廃仏派の物部氏によって池に投げ捨てられた阿弥陀如来が、推古天皇6年 (600)に信濃の住人・本田善光に拾われて善光寺まで運ばれたという言い伝えがあります。元禄11年(1698)、堀江川が開削され、 堀江新地の区画整理が始まると、翌年、長野・善光寺から智善上人を迎えて、阿弥陀池のほとりに和光寺を建て、善光寺本堂に安置 されていた阿弥陀仏を本尊としてお祀りしました。境内及び周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席、軽業の見世物などが並び、2月の涅 槃会や、4月の仏生会の植木市は、こと賑やかであったといいます。
阿弥陀池のほとりに立っています   ▲伏屋素狄顕彰碑
素狄は延享4年(1747)、堺に生まれ、14歳の時に和泉国の造酒屋の養子となりました。漢方医学を学び、大坂で開業しましたが(当初は阿波座に住み、後に堀江に移転) 、西洋医学を学び、生理学上の動物実験を繰り返して『和蘭医話』を著しました。腎臓に墨汁を注入した実験で「腎は小便漉し役」であることを発表しましたが、この成果は当時の欧州医学界よりも先んじていました。文化8年(1811)に没しましたが、墓が失われたため、縁の地に近い和光寺内に顕彰碑が建てられました。
▲あみだ池大黒 大阪名物粟おこし 
 あみだ池大黒 創業文化2年(1805)。長堀 川畔には西国大名らの蔵屋 敷が立ち並び、年貢米を運ん できた千石船がすぐ側に停 泊していました。あみだ池大 黒の初代・小林林之助氏は、 その船底にたまる余剰米に 目をつけて、おこしの原料に することを思いつきました。 日露戦争時には、明治天皇 より戦地への慰問品として 送られる恩賜の菓子として 阿弥陀池大黒のおこしが選 ばれ、3代目・小林利昌氏は 不眠不休で生産に励んで 35万箱を3ヶ月の納期内に 完納しました。このおこしは 兵隊達の人気を博し、昭和 20年(1945)まで宮内省 御用達となります。全国各地 から集められた約3500体 の大黒様を集めた蔵は、第 二次大戦の戦火でも焼け残 りました。  
 ▲中央図書館 阿弥陀池筋の銀杏
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう