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江戸時代の江戸堀界隈は、当代一流の知識人・学者の宝庫でした。幕末の志士たちが読みふけった『日本外史』 の作者・頼山陽が生まれ、蘭学者・中天游の私塾・思々斎塾が開かれ、そこには緒方洪庵が学びに訪れました。 また洪庵の弟子で、日本近代陸軍の父・大村益次郎が寓居して、明治以降には反骨のジャーナリスト・宮武外 骨が『滑稽新聞』を発刊したのも江戸堀です。時代の最先端を駆け抜けたまち・江戸堀を歩いてみましょう。
地下鉄・四つ橋線 肥後橋駅8番出入口を利用します。此処を出ると四ツ橋筋を挟んで東側にアーセンティア迎賓館が見えます。この交差点を西へ向かいます。次の角にあるのが金光教玉水教会です。金光教玉水教会の西側に「西船場小学校創設の碑」があります。また道を挟んで南側に頼山陽の碑があります。
金光教玉水教会会堂  
金光教玉水教会会堂 昭和10年(1935)建築。木造平屋建てで、一部を2階建てとする裳階付き の大型の和風建物です。入母屋造の大屋根平側に2つの千鳥破風をつけて 賑やかに飾られています。細部の意匠は全体的に伝統的な手法に則って構 成されています。堂々とした外観で風格があり、設計は池田谷(久吉)建築事 務所で、北井工務店が施工しました。国の登録有形文化財(建造物)に指定さ れています。
頼山陽生誕地 と 西船場小学校創設の地碑
頼山陽は江戸時代後期の歴史家・漢詩人・文人です。安永9 年(1780)、現在の西区江戸堀で広島藩の儒学者・頼春水 の 子として生まれました。江 戸に遊 学 後 の寛 政12 年 (1800)、突如、脱藩を企て失敗して、廃嫡のうえ自宅へ幽 閉されますが、そこから源平、南北朝から徳川時代までの 武家の栄枯盛衰を書いた歴史書『日本外史』を執筆しはじ めます。その後、京都で塾を開き、文政9年(1826)に『日 本外史』を完成、老中・松平定信に献上しました。陽明学者 として大塩平八郎にも大きな影響を与えましたが、没後出 版された『日本外史』は幕末の大ベストセラーとなり、尊皇 攘夷運動に大きな影響を与えました。
頼山陽、西船場小学校創設の碑から西側の辻を南へ一辻下り次の辻を西へ進むと通りの左手西船場小学校の敷地内に先賢景仰碑があります。
 先賢景仰碑
先賢景仰碑 西船場小学校は昭和18年(1943)に東江小学校を改称したものです。旧名 の「東江」は、東江戸堀という意味で、この地には江戸時代以来多くの先覚 者・学者・文化人らが生まれました。そこで昭和10年(1935)10月、東江小 学校創設50周年を記念して校庭に建てられたのがこの顕彰碑です。藤沢章 の撰文には、頼山陽・篠崎三島・同小竹・後藤松陰・並河寒泉・武内確斎・広瀬 筑梁・河野恕斎・春田横塘・金本摩斎・新興蒙所・尾崎南竜・下河辺長流・江田 世恭・鶴峰戊申・萩原広道・森周峰・墨江武禅・長山孔直・耳鳥斎・半時庵淡々・ 椎本才麿・暁鐘成・岩永盤元・斎藤方策・亀山貞介・浄光寺普行・佐伯覚灯・村 山竜平・宮川経輝らの名が挙げられています。
  関西法律学校発祥の地
関西法律学校 発祥の地は下に添付されている地図の④番ではなく⑤晩の中天遊邸跡の近くにあります…ご注意を
関西法律学校は、明治19年(1886)、当時の大阪控訴院長であった児島惟謙 (のち大審院院長)らの賛成を得て、この地にあった願宗寺内に創立されました。 創立当時は児島のほか大阪始審裁判所長の大島貞敏、および土居通夫(のち大 阪商業会議所会頭)らが名誉校員でした。現在の関西大学の前身になります。 
中天游邸跡
江戸時代の蘭学者・中天游の寓居跡です。中天游は江戸の大槻玄沢、京都の海 上随鴎といった当代一流の蘭学者から教えをうけ、文化14年(1817)、35歳 のときに大坂に移住しました。医術の心得があったため、女医者として評判の よかった妻のさだとともに医業を開くも、医業よりも蘭学に熱心で、橋本宗吉 の絲漢堂に出入りしながら、私塾・思々斎塾を開き、子弟の教育につとめまし た。この思々斎塾で、緒方洪庵も塾生として4年間、天游に教えをうけました。 
花乃井橋跡と此花乃井
 花乃井橋跡と此花乃井は花乃井中学校の一画にありますが、現在学校の工事がされておりまったく見ることが出来ません。
花乃井橋跡 花乃井橋は堂島大橋から芦原 橋間の市電開通に際し、大正9 年(1920)に江戸堀川の第6橋 として架けられたもので、当時 の橋柱が残されています。
此花乃井 花乃井中学校の校庭は、江戸時代に石見津和野藩(亀井氏・4万3千石)の蔵屋敷があったところで、屋敷内の井戸は大坂 では珍しく良質の飲料水でした。慶応4年(1868)に明治天皇が大坂北御堂を行在所としたさいには、この井戸水を用 水に供したことから、「此花乃井」の名が与えられて、以来、通称「花乃井」と呼ばれて、大阪の名水として評判となりまし た。明治42年(1909)5月に、有志によって「此花乃井」の碑が建てられ、昭和15年(1940)11月、この名水を永く保存 するため、江戸堀町会連合会により、さらに石碑が1基建てられました。校名は通称の「花乃井」からとられたものです。
花乃井公園から北に上り土佐堀通りを西に行くと、次の交差点の角に宮武外骨ゆかりの地碑があります
宮武外骨ゆかりの地碑
宮武外骨(1867~1955)は、幼名を亀四郎といい、「亀」が外骨内肉の生き物であることに 因んで、明治17年(1884)に外骨と改名しました。公権力に対して反骨の精神を貫き、入獄4 回、罰金・発禁などは29回にも及びました。当初は東京で活躍し、『頓知協会雑誌』などを刊 行して、政府や行政の腐敗を攻撃しましたが、明治33年(1900)に大阪へ移り、生地の香川 県小野村をもじった小野村夫の名前で、行政の腐敗を面白おかしく揶揄した『滑稽新聞』を 発行。滑稽新聞社は刊行当初は京町堀通4丁目でしたが、明治35年(1902)に江戸堀南通 4丁目に移転しました。『滑稽新聞』は毎月5日と15日の2回発行され、明治42年(1909)の 173号を最後に廃刊となりました。外骨は、東京帝国大学内に明治雑誌新聞文庫を創設す るなど、書誌収集の面でも大きな功績を残しています。
宮武外骨ゆかりの地碑から交差点を北へ進んでいくと、土佐堀橋の手前に大阪上等裁判所のプレートと明治天皇聖躅の碑があります
大阪上等裁判所跡
上等裁判所は、明治5年(1872)の司法省官制による臨時・司法・出張・府 県・区の 5種の裁判所のうち、司法裁判所を改称したもので、明治 8年 (1875)、大阪・東京・長崎・福島の4ヶ所に設置されました。大阪上等裁判所 は当初は西道頓堀1丁目の旧金沢邸に開庁しましたが、翌年、土佐堀へ移転 しました。管轄区域は、大阪・京都両府のほか、敦賀・滋賀・石川・度会・奈良・ 和歌山・堺・兵庫・飾磨・岡山・北条・鳥取・豊岡・名東・高知・愛媛・小田・島根・ 浜田・広島・山口の諸県に及びました。「明治天皇聖躅・上等裁判所址」の碑 は、大正14年(1925)5月、大阪市青年連合団が建てたものです。
少し戻り交差点の北側を左折して肥後橋方面に行くと左手に薩摩藩蔵屋敷跡、また土佐堀通を挟んで南側に薩摩藩中屋敷跡があります。
薩摩藩蔵屋敷跡と土佐堀通を挟んで南側にある中屋敷跡
薩摩藩蔵屋敷跡 西区の東北部一帯は、江戸時代には河川を利用した交通 の便がよかったため、中之島や堂島と同じく、諸藩の蔵屋 敷が集中していました。当地には薩摩鹿児島藩(島津氏77 万石)の蔵屋敷があって、ここには薩摩堀川を開削した薩 摩屋仁兵衛が、代々、天満組惣年寄を務めるとともに蔵屋 敷に付属して、薩摩定問屋として活躍していました。明治 元年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで、幕府から蔵屋敷の 引渡しを要求され、これを拒絶したため、陸奥会津藩兵が 攻撃してくることを聞いて、自ら火を放って焼失しました。
ここから東の方角に歩いていくと大村益次郎寓居跡地址があります
大村益次郎寓居跡
大村益次郎(1824~1869)は、儒学・蘭学・医学・西洋兵学に通じた幕末の軍政家です。 弘化3年(1846)、23歳のときに大坂に出て、緒方洪庵の適塾で学び、一時期は大坂を 離れて長崎に学びますが、嘉永元年(1848)に再び適塾に戻りました。極めて優秀な塾 生で、嘉永2年(1849)には塾頭となっています。当初は塾に寄宿していましたが、江戸堀 の倉敷屋作衛門の屋敷に下宿するようになり、その下宿跡に建てられたのが当碑です。 高杉晋作の奇兵隊を指導して、長州征討や戊辰戦争では、長州藩兵を指揮し、勝利の立役 者となりました。明治新政府の兵部省初代の大輔(たいふ)を務め、「近代日本陸軍の父」 と呼ばれています。しかし明治2年(1869)に京都で国民皆兵反対派の刺客に襲われ、 大阪病院に入院して右脚切断の大手術をしましたが成功せず、46歳で没しました。
此処からそのまま東へ進んでいき「なにわ筋」を越えると土佐堀通と別れて細い道に入っていきますと左手に 日本基督教団大阪教会があります。
 日本基督教団大阪教会
日本基督教団大阪教会 米国宣教師ゴルドン氏の伝道で明治7年(1874)、西区に創立された梅本町公 会が前身です。平成16年(2004)には創立130周年を迎えた、日本最古級の プロテスタント教会です。現教会堂は近江兄弟社の創立者で、熱心なクリスチ ャンであったアメリカ人建築家ヴォーリズの設計で、大正11年(1922)に建造 されました。ロマネスク様式のクラシックな赤レンガ建築で、重厚なアーチや 尖塔、切妻屋根、美しいバラ窓(円形飾り窓)など数多くの見所があります。平成 7年(1995)の阪神・淡路大震災で半壊しましたが、8ヶ月に亙る復興工事の末、見事、復興しました。平成8年(1996)には国の登録文化財となっています。
そのまま進み金光教玉水教会会堂前を左折すると肥後橋商店街です。
肥後橋商店街
「日本一短い商店街」と呼ばれていて、長さは約79メー トルです。戦後は玉水商店街と呼ばれていましたが、昭 和40年(1965)に肥後橋駅が開通したことにより改 名しました。
 肥後橋商店街を北へ上がっていると金光教玉水教会会堂の端あたりの左手に荒光稲荷大明神があります
社 殿 荒光稲荷大明神 奉納画
由来はおもしろく、元は摂津国三田藩九鬼氏の屋敷神だったそうです。 屋敷がなくなってもお社は残り、別称は火防稲荷。 この辺りが火事になったとき、お狐さんが消火活動をしてくれたそう。 空襲の時も焼け残っています。 お社に奉納された、消火活動を行う消防士と鼻先を強調されたお狐さんの画素敵です。
炎属性に対する防御力が高そうなコンクリ屋根とブロック壁に覆われている社殿も特徴的。
今回は地下鉄 四ッ橋線:肥後橋駅がスタート&ゴールになります。
  取材中
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう