上町台地の北端に位置する森ノ宮・大阪城界隈は、縄文・弥生時代の貝塚が発見され、古代には難波宮が、中世 には大坂本願寺が、近世からは大坂城が築城されて、まさに大阪6000年の歴史や文化が凝縮されたエリア です。大阪という都市の栄枯盛衰のドラマを見つめ続けた、悠久の大地を歩いてみましょう。  
▲JR大阪環状線:森ノ宮駅 ▲森ノ宮公園 ▲森ノ宮尋常高等小学校跡
JR大阪環状線森ノ宮駅の西側一帯から 森ノ宮遺跡が出土したようです
▲森ノ宮公園・森ノ宮ピロティーホール辺りが森ノ宮遺跡だったようです ▲歴史街道を行く
森ノ宮遺跡 この辺りは上町台地の北端に当たりますが、土器片が見つかった ことから、昭和46年(1971)に学術調査が行われ、大阪市内では 数少ない貝塚が見つかりました。貝塚の下層部分(縄文期)は海水 産のマガキ、上層部(弥生期)は淡水産のセタシジミで、この辺りが 元は海(河内湾)であったのが、淀川や大和川の土砂によって埋め 立てられ、湖(河内潟、河内湖)へと変貌していく様子が見て取れま す。また縄文期(約6000年前)の地層から屈葬人骨18体と生活 用具が発見され、これは大阪最古の人骨で「大阪市民第1号」として 有名になりました。埋葬形態から関東や東北、九州西北地方と交流 していた痕跡が見られ、森ノ宮界隈は日本各地を移動する縄文人 の集散地となっていたと推定されます。 
 森ノ宮遺跡からは再び森ノ宮駅へ戻り西側歩道を南下すると右手に鵲森宮(森之宮神社)があります
▲鵲森宮(森之宮神社)
鵲森宮(森之宮神社)
主祭神は用明天皇(父)、穴穂部間人皇后(母)、聖徳太子(子)で、森之宮神社 とも呼ばれます。蘇我氏と物部氏が争ったさいに、蘇我側の聖徳太子が四天 王に祈願して勝利したので、崇峻2年(589)に当地に四天王を祀る寺を建 立しました。のちに寺は荒陵山に移って四天王寺となりますが、この「元四王 寺」が神社の縁起と伝えられています。また推古6年(598)に鉄鋼業の祖・ 吉士磐金(きしのいわかね)が新羅より鵲(かささぎ)2羽を献上して「難波の 杜(森)」で飼育した(『日本書紀』)とあり、これが鵲森宮の社名の由来と言わ れています。かつては広大な神領を持ち、現在の城東区天王田や大東市住 道の御供田の地名はその名残りです。ちなみに鵲はカチガラスとも呼ばれ る吉鳥で、韓国では国鳥になっています。
亀井水碑
元はJR森ノ宮駅付近にあって古代は温泉が湧き上がっていたとされます。 聖徳太子が命名した長寿の霊水で、四天王像と共に四天王寺に移されたと 伝わります。実際に四天王寺には亀井堂があります。
鵲森宮(森之宮神社から玉造稲荷神社へは南下していきロイヤルホームセンターの北にある信号を右に折れて歴史街道を西へ進んで行くと到着します
▲玉造黒門越瓜の地案内板 ▲玉造黒門越瓜の地記念碑 ▲神 田
▲豊臣秀頼公 慶長8年(1603) 3月吉日銘 奉納鳥居
▲玉造稲荷神社
玉造稲荷神社
社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)創建。古代は「玉作岡」と呼ばれ、勾玉などを作る玉造部 がいたといいます。蘇我・物部の争いのさいに聖徳太子は当地に布陣して、戦勝後は観音堂を建立。 豊臣時代には千利休が茶会を催したという伝承もあります。江戸時代は社地が急崖に面していたた め、寛政元年(1789)、東横堀川の浚渫で出た土砂を運び込む「砂持」が行われました。大坂城の鎮守 で熱く信奉され、江戸時代には伊勢参りの出発点とされました。秀頼奉納の鳥居や千利休顕彰碑の ほか、難波玉造資料館があって勾玉や土器などの古代資料が展示されています。
千利休居士顕彰碑
豊臣時代、千利休は玉造禰宜(ねぎ)町に屋敷を構えたと言われ、秀吉、淀殿、秀頼らが野点の茶会を 楽しんだという故事に因んで建てられました。千宗室宗匠の筆です。
秋田實笑魂碑
秋田實(1905~1977)は玉造出身の漫才作家です。東京帝国大学卒で、左翼活動を行 って小説などを発表しますが挫折。その頃に横山エンタツ・花菱アチャコの漫才を見て衝 撃を受け、台本を書かせて欲しいと直訴、名作「早慶戦」を手がけて人気作家となります。 1948年には漫才サークル「MZ研進会」を結成して、ミヤコ蝶々・南都雄二、夢路いとし・ 喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、ミスワカサ・島ひろしなどの漫才師を育てました。1950 年には阪急創業者の小林一三と軽演劇集団「宝塚新芸座」を作りますが、新芸座が次第 に演劇に傾倒するので小林一三と対立。独立して「上方演芸」(現・松竹芸能)を発足させ ました。晩年は「笑の会」を組織して、オール阪神・巨人、B&B、太平サブロー・シロー、宮川 大助・花子、ザ・ぼんちなどを育て、漫才ブームの礎を作りました。1977年に大腸癌で死 去。「月よりも 花よりも なお美しき 人の笑い顔なり」をモットーに8000本近い漫才 台本を書いて「上方漫才の父」とも呼ばれます。幼い頃に遊んだという玉造稲荷境内に笑 魂碑があって、自筆で「笑いを大切に。怒ってよくなるものは猫の背中の曲線だけ」と刻ま れ、また隣石には「渡り来て うき世の橋を 眺むれば さても危うく 過ぎしものかな」の辞 世句が刻まれています。
白光大神 玉造稲荷神社門前の御神木 ▲城星学園
白光大神(神木)
玉造稲荷神社から南へ約50メートルほど進むと、榎木が道路の真ん中にあって、「白光大神」と書かれた 祠があります。白光とは白蛇のことで、この榎には神の使いの白蛇が棲みついているとされています。 
玉造稲荷神社の正面階段から南側に見えるのが白光大神(神木) です。お参りされたら再び戻り玉造稲荷神社の正面を左折して西へ進みます
途中城星学園があります その前をさらに西へ行くと大阪カテドラル聖マリア大聖堂 が右手にあります
高山右近
高山右近
(1552~1615)は摂津出身の キリシタン大名です。父・友照(1527~ 1595)は当初、キリシタン撲滅を考えて いましたが、その教えを知って改宗。右近 は12歳のときに洗礼を受けます。その 後、信長、秀吉に仕えて武功をたてて明石 6万石に封ぜられますが、高槻、安土、京 都、大坂などで教会やセミナリオ(神学 校)に寄進して布教活動を補助しました。 小西行長、黒田孝高といった当時のキリ シタン大名の大半は、右近が信仰に導い たと言われます。天正15年(1587)の秀 吉のバテレン追放令のさいには、領地や 全財産を放棄して秀吉の元を去ってでも 信仰を守り抜き、諸外国にもその名は広 がりました。以後、加賀・前田家に庇護を 受けていましたが、慶長19年(1614)に 幕府から禁教発令が出てフィリピン・マ ニラに追放。現地で熱病に冒されて翌年、 殉教しました。その死を悼み、マニラでは 全市をあげて、9日間に渡って盛大なミ サが執行されました。 
ガラシャ夫人像
細川ガラシャ(1563~1600)は、明智光秀三女で本名は珠(たま)といいます。信長のすすめで細川忠興に嫁ぎ、仲の良い夫婦でしたが天正10年(1582)に父・光秀が本能寺で信長を討 ち、珠は逆臣の娘として丹後に幽閉されました。天正12年(1584)に秀吉の恩赦で細川家の大坂屋敷に呼び戻されますが、珠はここで宣教師の教えを聞いて魅了され、密かに洗礼して「ガラ シャ」(ラテン語で神の恵みの意味)の名を受けます。ところが突如として秀吉はバテレン追放を発令。夫・忠興もキリスト教徒の侍女の鼻を削いで追放したほどでしたが、ガラシャは発覚を 免れました。慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いが勃発すると、西軍・石田三成は東軍・細川忠興の妻ガラシャを人質に取ろうとしますが、ガラシャは拒否。「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の辞世句を残し、家老に槍で胸を貫かせて死にました。享年38歳。忠興は妻の死を悲しみ、慶長6年(1601)には教会葬を依頼して葬儀に参列、遺骨を崇禅寺へ埋 葬しました。ガラシャの死は当時のヨーロッパにも伝聞され、1698年にはガラシャをモデルに戯曲「気丈な貴婦人」が発表されました。野蛮な夫の非道に耐えながら信仰を貫き、最後は命を 落として夫を改心させるという物語で、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリザベートなどに好まれ、その生き方に深い影響を与えたといいます。
 阿波野青畝句碑
山口誓子・高野素十・水原秋桜子とともに 名前の頭文字をとって「ホトトギス派の 四S」 と称された俳人です。1947年にカ トリックに入信。句碑は「天の虹 仰ぎて 右近 ここにあり」と刻まれ、右近を偲ん だものです。
▲聖マリア大聖堂 カトリック玉川教会
大阪カテドラル聖マリア大聖堂 (大阪玉造カトリック教会) 明治27年(1894)創立。昭和20年(1945)の大阪空襲で滅失して現在の 大聖堂は昭和38年(1963)に落成しました。建築家・長谷部鋭吉の遺作で す。敷地が細川家の屋敷跡という由縁で、聖堂内に細川ガラシャが描かれ た画が掲げられています。「最後の日のガラシア夫人」「栄光の聖母マリア」 「高山右近」などは日本画家・堂本印象(1891~1975)の作品で、印象はこ の功績で、昭和38年(1963)にローマ教皇ヨハネス23世から聖シルベス トロ文化第一勲章を受章しました。パイプ数2400の巨大なパイプオルガ ンでも知られています。
大阪カテドラル聖マリア大聖堂 に沿って西側を北上していくと道路に沿って越中井があります
越中井から北上すると阪神高速道路に出ますので左に曲がって西へ進んでください しばらく行くと左手に難波の宮跡公園があります
▲難波の宮跡
大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。昭和36年(1961)、大阪市立大学教授の山根徳太郎博士の発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられている。史跡は2種類の方法で示されていて、地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが神亀3年(726)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉(びゃくち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)=前期難波宮となっている。また、公園の中央北寄りには、天皇が国家の公式行事をおこなう際に使用したとされる大極殿も復元されており、その上からは大阪城を眺望することができる。
 公園の中を散策しながら進み北西の角に出てください ここから信号を北へ渡ると左手にあるのが大阪府警本部です
 大阪府警本部  大阪城西外濠
少し行くと大阪城へと入っていく大手門が見えてきます 人の流れに沿って東へ道なりに進んでいくと天守閣へ行きつきます 
▲ 大阪城公園
 織田信長に「天下一の境地なり」と言わしめ た大坂本願寺(1496~1580)の跡地に、 天正11年(1583)、天下人・豊臣秀吉が築 城を開始しました。三重の堀と運河に囲ま れた「三国無双」(大友宗麟)の壮麗な城で したが、大坂の陣(1615)で焼失。その後、 元和5年(1620)から徳川秀忠によって大 坂城再建が始められ、寛永6年(1629)に 完成しますが、寛文5年(1665)の落雷で 天守閣が焼失して、以降は天守を持たない 城 と なりました 。江 戸 末 期 の 慶 応 4 年 (1868)に鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗 北すると、大坂城にいた慶喜は江戸へ逃亡。 その混乱時に出火して、城内の建造物のほ とんどが焼失しました。現在の天守閣は第 7代大阪市長の關一が再建を提案し、集め られた市民の募金150万円によって昭和6 年(1931)に再建されました。豊臣・徳川時 代の天守がいずれも30数年で焼失したの に比べ、昭和の天守は建設後80年を超え、 最も長命の天守となっています。平成9年 (1997)には、国の登録有形文化財となり ました。
この日は梅も見ごろであり本丸庭園の東へある大阪城梅林へ寄ってみました ここが本日のゴールです
▲大阪城 梅林 
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう