大阪港駅・大阪港
昭和36年(1961)、大阪市営地下鉄4号線(現在の中央 線)の駅として開業。国際貿易港としての大阪港の歴史 は慶応4年(1868)の大坂開港から始まります。当時は 安治川口に外国人居留地なども作りましたが、安治川の 川底は非常に浅く、外国船は神戸港を利用したため大阪 港はすぐに廃れました。そこで明治6年(1873)にオラ ンダ人技師エッセルとデ・レーケが淀川開削と築港計画 を建てますが財政不足で順 延。ところが 明 治18 年 (1885)に淀川大洪水が起こると淀川開削と築港建設 の要望が高まり、明治30年(1897)、ついに築港工事が 開始されました。当時の市予算の30倍という巨大プロ ジェクトで明治36年(1903)には大桟橋と花園橋から 築港への市電(公営電気鉄道では日本初)も開通します が、なかなか船利用は伸びず、財政難で工事中断に。しか し築港なかりせば大阪経済は浮上しないと、在阪の企業 が資金協力して工事を継続、昭和4年(1929)に見事、 完成させました。
築港温泉
昭和27年(1952)開業。モザイクタイルなどが貼られ、 昭和のレトロムードがあふれている風呂屋です。築港の まちづくり、まちおこしとして、地域の方と一緒になっ て、浴場の音響を利用しての音楽ライブ・コンサートや、 落語寄席、写真展なども実施しています。
釈迦院(築港高野山)
 正式には「高野山真言宗 準別格本山 築港高野山 釈迦院」と いいます。かつて弘法大師が難波津(大阪の港)から唐に留学 して、我が国に真言密教を伝えたのを顕彰するため、明治43 年(1910)に弘川寺(天智天皇4年・665年創建。大阪府南河 内郡河南町弘川)塔中「釈迦院」の寺号を築港に移したのが寺 院の縁起です。当時は7800坪の大伽藍で、「東の四天王寺、 西の築港高野山」と呼ばれるほど参詣者が集い、毎月21日の 縁日には賽銭米は3石程、屋台も130店余り出て大いに賑い ました。しかし昭和20年6月1日、大阪大空襲にて焼失。昭和 27年(1952)に天保山運河高野堀拡張のため、以前の15分 の1の規模に縮小されて現在地に移転しました。境内の一願不 動明王は大阪四不動霊場(他はさせん堂不動寺の無動尊、太 平寺の北山不動尊、福島了徳院の大聖不動明王)として篤く信 奉されています。
港住吉神社
 住吉大社の境外末社で、天保13年(1842)に大 阪港に出入りする船の航海安全や、漁労安全を 祈って祭られました。当初は天保山上に建てら れていましたが、大正6年(1917)、現在地に移 転しました。社殿は戦災で焼失し、戦後に再建さ れたものです。境内には「ざこば」「塩魚」「干鰯」 「うつぼ」「北組」「南組」といった石塔群がありま すが、これは永代浜(大阪市西区)の住吉神社を 明治末に合祀した事情によります。また日露戦 争の軍艦の砲弾2発が奉納され、隣の築港南公 園には日露戦争記念として作られた軍馬の銅像 がありましたが、太平洋戦争時に金属類供出に よって撤去されて、現在は台座だけが残ってい ます。
赤レンガ倉庫
築港が国際港として整備されると、 大正12 年(1923)に住友倉庫によ って物流拠点として竣工しました。 昭和3年(1928)には鉄道が開通 し、貨物列車の発着駅となり、国内 外の港を結ぶ貨客船の貨物積み降 ろしが行われていました。しかし戦 後、昭和40年(1965)以降になる と、貨物運搬はコンテナ(貨物を納 めた移動式倉庫)が主流となり、赤 レンガ倉庫は必要とされなくなり、 平成11年(1999)に倉庫としての 役割を終え、現在は大阪市が管理し ています。
港区側から なみはや大橋へ上がっていきます
なみはや大橋 大阪市の港区海岸通と大正区鶴町とを結ぶ尻無 川に架かる全長1740メートルの有料橋で、通行 料金は普通自動車100円、原動機付自転車10円、 徒歩、自転車は無料です。尻無川河口部の両岸を 結ぶことにより、港湾地域の道路網の整備と災害 時の避難・救援路の役目を果たす目的で計画され ました。流線形を描いた長大橋で、中央部の水面か らの高さは45メートルあって、橋下を通る大型船 の航路を確保した設計となっています。着工は昭 和52年(1977)12月で完成は平成7年(1995) 2月。工費は217億円です。大阪ドーム、昭和山、通 天閣、WTCコスモタワー、天保山大観覧車など、大 阪のランドマークが一望できて、夜景が美しいこ とでも定評があります。
天保山運河と上潮樋門&船溜まり
 海遊館で賑わう天保山の近くに、こんな運河が有るなんて大阪人でも多くの人が知らないかと思います。大阪港内湾運河には至る所にこんな船溜まりがあります。
橋を渡り見渡せばこんなに綺麗なところがあるんです。
 千歳橋と大正内港
大正内港(たいしょうないこう)は、大阪府大阪市大正区に位置する人工港湾であり、大阪港の一部をなす。沿岸部には多くの工場が立地している。
大阪市西区、港区と大正区との境界を成しながら南西に流れる尻無川(淀川水系下流の分流)が大正区鶴町4丁目付近で大阪港と大正内港に分かれる。大正内港に入ると、途中福町掘を分けるが、その後合流、木津川運河に注ぎ、同じく大阪港に注がれる。

1940年代前半まで、大正区の土地の大半は海抜0メートル以下にあった為、昭和9年(1934年)9月21日には室戸台風が襲来し、大正区のほとんどの土地が冠水、当区は死者119人(行方不明者を含む)、被災者123,000人、建物の浸水等被害22,535戸にも及ぶ甚大な被害を受けた[1]。また当時は、付近に貯木場が集中していたので、貯木場から流されてくる丸太により、道路が塞がれ、建物が壊されるなど、多くの被害を受けた。その後も、昭和20年(1945年)の大阪大空襲により区の大半を焼失し、昭和25年(1950年)のジェーン台風による被害(大正区の83%が約1.9メートルの高さまで浸水、被災者は区民の96%に当たる57,000人で、行方不明者を含めて死者は13人、建物被害は10,654戸[2]。)など、大正区民はたびたび起こる高潮や戦災に悩まされていた。そのため、大阪港復興計画の一部として、大阪港に注ぐ河川の拡幅や大正内港化が昭和22年(1947年)に決定された。掘り起こした土砂で大正区を全面的に盛り土し、区画整理する工事が同年に開始され、昭和50年(1975年)には完了した。この工事の際に、大正運河に連絡していた貯木場や材木市場は閉鎖され、住之江区平林に移された。この頃、港区では同じくして弁天埠頭が完成した。
港大橋
大阪市港区(大阪港・天保山地区)と住之江区(大 阪南港・咲洲)とを結ぶ全長980メートルのトラス 橋です。中央径間510メートルは日本最長で、世 界でも第3位の長さを誇ります。上下2層のダブル デッキになっており、上段が16号大阪港線、下段 が5号湾岸線です。橋下を4万トン級の大型コンテ ナ船でも航行できるように、海面から桁下まで50 メートル以上の高さを確保しています。昭和49 年(1974)建設で、土木学会田中賞を受賞してい ます。また1995年の兵庫県南部地震の影響で耐 震連結装置に損傷が発生したので耐震補強工事 を実施。最新技術を駆使してコスト削減にも成功 し、2007年に2度目の土木学会田中賞を受賞し ています。
 千歳橋と鶴町住宅
鶴町 明治30年(1897)から始まった大阪市の築港計 画の埋め立てで造成され、大正8年(1919)3月に 鶴町として誕生しました。町名は聖武天皇時代の 難波宮近くの光景を田辺福麻呂が詠んだ「潮干れ ば 葦辺に騒ぐ 白鶴(百鶴とも)の 妻よぶ声は 宮 もとどろに」(万葉集)が由来です。
大正側降り口
 なみはや大橋
鶴町側から見た千歳橋
千歳橋最高部
千歳橋(ちとせばし)は、大阪市大正区の大正内港に架かる橋。2003年(平成15年)4月開通し、土木学会田中賞を受賞した。
千歳橋は、大正区鶴町〜同 北恩加島間への架橋により、市内中心部への交通を遠回りせざるを得なかった鶴町地区の交通の便を改善するとともに、大正通の交通混雑を緩和する目的で設置された。 大浪通を延長する形で架橋され、大正通の終端に接続している。
主橋梁部はアーチ橋とトラス橋が融合した2径間連続非対称ブレースドリブアーチ橋であり、鮮やかな青色に塗られている。 
北恩加島から見た千歳橋 鶴町の神明神社
神明神社
後陽成帝(1571~1617)の時代に京都・西院に 祭られましたが、徳川家康の外孫・松平忠明が大 坂の陣のさいに参拝。見事に戦勝を収めて忠明は 大坂城主となり、これは神明神社の霊験なりと元 和2年(1616)に蝋燭町(後の内平野町)に遷しま した。日中神明社と称されて、朝日神明社(此花 区)、夕日神明社(北区)と並ぶ大阪三神明のひと つです。かつては広大な社地を誇りましたが時代 の変遷で狭小し、松屋町筋拡張工事のさいに、鶴 町住民の熱烈な誘致によって、大正13年(1924) に鶴町に遷座しました。戦災によって社殿、社務 所、倉庫、祭具、書画宝物、神社の記録一切を焼失 しましたが、昭和52年(1977)に本社殿を再建し ています。
 
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 美智子  
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう