大隅島は応神天皇が置いた大隅宮の伝承地です。また、6世紀前半には安閑天皇が大隅島に牛を放つよう指示したことが『日本書紀』に記されていることから、古代より牛牧に適した土地であったと推測されます。後に宮内省に属する乳牛牧が置かれ、ここから乳製品が朝貢されました。平安時代に王朝貴族の来訪によって栄えた江口に至るまで、大隅島の「醍醐味」を味わっていただくまち歩きです。
豊 里 聖徳太子が四天王寺建立の候補地に挙げたことから、天王寺庄という地名が付けられていました。 大正14年(1925)に大阪市が第二次市域拡張を行った際、淀川両岸とも東淀川区に属し豊里町と 命名されました。地名「豊里」は、農産物の豊かな里として名付けられた説がありますが、聖徳太子の 別名豊聡耳から取ったとする説もあります。昭和17年(1942)に淀川左岸は旭区となりますが、豊 里町という町名は両岸に残りました。昭和46年(1971)に旭区内の町名変更により左岸は「太子 橋」等の地名に変更となりました。何れにしても、聖徳太子との関連がある地名が付けられています。
右岸・平田の渡し跡碑 豊里大橋  左岸・平太の渡しの跡碑
豊里大橋 日本万国博覧会開催直前の昭和45 年(1970)3月3日に開通しました。大 阪市では建設当時初めての本格的な 斜張橋で、橋長は561.4mあります。 豊里大橋の開通をもって、淀川最後の 渡船であった平田の渡しは、その長い 歴史に幕を下ろしました。現在の豊里 大橋より少し上流に、かつて行基が高 瀬大橋を架けたと伝えられています。
平田の渡し 幕府より渡船権利を得た沢田太郎左衛門は、延宝4年(1676)頃より平田の渡しの営業を開始します。この付近は、丹波地方や大和地方への交通の要地であり、 船改め番所があった場所です。平田の渡しは、明治40年(1907)に大阪府営、大正14年(1925)に請負制度による大阪市営となり、昭和23年(1948)に大阪市 直営となりました。昭和45年(1970)まで約300年にわたって営業が続けられた平田の渡しは、船頭が竿と櫓を使う手漕船でしたが、昭和35年(1960)に発動 船が導入され、最盛期には1日に3,000人の乗客と670台の自転車を運ぶ、まさに市民の足となりました。
大  宮
 『日本書紀』535年の9月に「牛を難波大隅嶋と媛嶋松原に 放て」という記事があり、安閑天皇によってこの付近の土地 の発展がもたらされたことから、同天皇を主祭神としていま す。大宮の社殿は、淀川改修前までは旧淀川の右岸堤に面し て所在し、古木茂る厳かな森であったと伝えられ、旧淀川を 上る船の燈台の役割を果たしました。淀川改修によって境内 は河川敷となったため、老木・竹薮を伐採して現在地に遷座 することになり、また、氏地の大半は川底に沈み、氏子は新淀 川両岸に住み別れることになりました。
 大澤寺
正保3年(1646)に沢田家出身の僧・宗純(俗名: 沢田太郎左衛門)が開いたお寺です。酒井雅楽頭 と親しかった沢田太郎左衛門は大坂夏の陣で徳 川方に味方し、その恩賞として、平田の渡しを含む 淀川16カ所の渡船権利を与えられます。12代当 主より沢田左平太を通称としたので、平田渡しは 平太渡しと記されることがあります。中島大水道 開削に尽力した三庄屋の一人、沢田久左衛門も沢 田家の出身です。
角頭橋碑 歴史街道碑 乳牛牧跡
乳牛牧跡 味原牧(あじふのまき)とも呼ばれた乳牛牧は、律令制下、宮内省典 薬寮所属の牧で、乳牛を飼育したことから乳牛牧と呼ばれました。 後鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献進する や、天皇が平癒したので、乳牛牧の地名を賜ったとも伝えられてい ます。牧の住人は、牛を飼育し、牛乳や蘇、酪を貢納しました。また、 古い牛を引き取るとともに、毎年新しい牝牛7頭と子牛7頭を京の 典薬寮乳牛院に送りました。乳製品を食する習慣は、朝鮮半島より 伝えられて古代貴族に始まりましたが、一般社会に広まることはな く、平安時代を過ぎると食習慣から消えてしまいました。室町時代 に荘園化した乳牛牧は、守護・細川持賢が嘉吉2年(1442)に崇禅 寺に寄進しました。乳牛牧から崇禅寺に納められた年貢に茶が含ま れていた記録が、崇禅寺所蔵の日本最古の茶年貢目録に残されてい ます。
大隅神社
応神天皇は大隅島に大隅宮を置きました。 応神天皇が崩御した後、宮址に神祠を建て て奉祀したのが神社の起源であると言われ ています。以来、この地の産土神として尊崇 されてきましたが、淀川が氾濫した際に賀 茂明神のご神体が漂着したのを機に、これ を合祀して社名を賀茂神祠(かものみやし ろ)と改めるとともに、社殿を二つに分け て、一つは別雷大神を奉祀し、一つは応神 天皇を含む八柱の神を合祀しました。明治 4年(1871)、旧に復して応神天皇を主祭 神とし、社名を大隅神社と改めました。
逆巻地蔵尊
 逆巻地蔵尊 淀川を行き来する船にとって、逆巻 (さかまき)は難所として有名でし た。この場所は水流が激しく、帆を 逆に巻き付けなければ転覆してし まうと恐れられていたのです。水難 事故に伴う水死者供養と船の安全 運航を祈願して弘化3年(1846) に地蔵が安置されました。淀川改 修工事の頃、明治31年(1898)に 観仏寺の住職が引き取り、大正12 年(1923)に観仏寺の住職の娘が 現在地に安置したと言われていま す。
 江  口
 延暦4年(785)に桓武天皇が摂津大夫・和気清麻呂に命じ、それまで別の水系であった淀 川と三国川(神崎川)が通じました。これにより西国から長岡京・平安京への主要航路はそれ までの難波経由のルートよりも、三国川を通る江口経由のルートが選択されるようになり、 江口は河川交通の要衝となりました。王朝貴族が住吉大社や四天王寺、高野山や熊野へ参 詣する際にも江口を利用したため、「天下第一之楽地」(大江匡房『遊女記』)と評されるほど の賑わいを見せました。しかし、承久3年(1221)の承久の乱で後鳥羽上皇が配流された 後、王朝貴族の参詣はほとんど行われなくなり、江口は衰退して行くことになります。
大阪市立 大隅小学校  旧名を牛乳牧尋常小学校と言ったそうです
  寂光寺(江口の君堂)
仁安2年(1167)、西行法師が天王寺参詣の途中、江口の里で時雨に遭 い、粗末な里家に雨宿りを請いました。家主の遊女・妙はその申し出を断 りました。それに対して西行が「世の中を厭ふまでこそ難からめ かりの やどりを惜しむ君かな」と詠んだところ、妙は「世を厭ふ人とし聞けばか りの宿に 心とむなと思ふばかりぞ」と見事な返歌をしたことが『新古 今和歌集』に残されています。仏門に入った妙の亡き後、江口の人々が妙 の冥福を祈って建てたのが江口の君堂であると言われています。
 
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 美智子  
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質
をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう