聖武天皇の時代、天平19年(747)に僧・行基が創建したと伝えられる光用寺や、延宝6年(1678)に自分 の命をなげうってでも中島大水道を完成させ、村を救おうとした3人の庄屋たちの遺徳を偲ぶさいの木神 ~中島大水道悲話から法橋・蔀関月の墓まで~ 社、名挿画家・蔀関月ゆかりの正通院などを巡ります。新大阪界隈の意外な歴史に触れてみて下さい。
  ▲弾丸列車計画と新大阪駅
昭和13年(1938)日本から朝鮮半島・アジア 大陸(中国)へ向かう需要の急増に伴い、東京~ 下関間の輸送力拡大とスピードアップを目的 に鉄道省において「新幹線」「広軌幹線」計画が 開始。世間一般では弾丸のように速い列車が走 るという意味から「弾丸列車計画」とも呼ばれ ました。昭和15年(1940)、帝国議会において 昭和29年(1954)までに東京~下関間を開通 する「広軌幹線鉄道計画」(総予算5億5600万 円)を承認。構想としては下関~釜山間に海底ト ンネルを掘削し、朝鮮半島・アジア大陸(中国) まで直通列車を走らせるというものもありまし たが、戦局悪化のため、昭和18年(1943)中断 されました。現在のJR新大阪駅は、昭和38年 (1963)に東京オリンピックの開催に合わせ て建設された東海道新幹線の終着駅として完 成し、翌年(1964)開業しました。
▲西尾六右衛門の墓 西町霊園の中にあります。現在も墓前にお花 が供えられており手厚く供養されています。
▲さいの木神社
江戸時代、この辺りは土地が低く、たびたび淀川が氾濫しました。疲弊した農民を救 うため3人の庄屋(山口村・西尾六右衛門、北大道村・澤田久左衛門、新家村・一柳太 郎兵衛)が主唱者となり、治水工事を幕府に直訴。延宝5年(1677)に工事許可がお りましたが、費用は全額百姓持ちでした。年貢だけで精一杯の生活を強いられていた 百姓には無理難題で補助してほしいと嘆願しましたが聞き入れられず、かえって工事 許可を取消され、庄屋たちはついに我慢ができなくなり、延宝6年(1678)無許可の まま治水工事に乗り出しました。村民たちも老若男女を問わず、私財をなげうって工 事に参加。現在の東淀川区~此花区間の約9.5キロ、幅平均約22メートルの水路(中 島大水道)をわずか約50日で完成させました。しかし無許可の禁を犯した3人の庄 屋はその責任を負って、細目木(さいのき)と呼ばれていた当地で、江戸の方角を睨ん で自決したといいます。さいの木神社はその3人の庄屋の遺徳を讃えたものです。
▲光用寺
聖武天皇の時代、天平19年(747)に僧・行基が創建したと伝えられる大変古いお寺です。もとは法相宗でしたが、正中元年(1324)、第 38代住職の空専のときに佛光寺第7代了源上人が寄留。自筆の光明本尊ならびに自画像を下附され、浄土真宗佛光寺派に改宗して護國 山光用寺と号するようになりました。本堂の裏には平家の猛将で「屋島の合戦」でも功名をたてた平景清(通称・悪七兵衛)とその郎党の墓 があります。また暦応年間(1338~1342)に播磨の守護大名・赤松範村が、向き合って抱き合うように咲く「比翼さつき」と呼ばれる珍 しい品種のさつきを奉納し、それが江戸時代から明治初頭にかけて高さ3メートル周囲21メートルと山のように咲き誇るようになったの で「さつき寺」の名で親しまれるようになりました。花の咲く頃には、多くの参拝者で賑わい、当時としては珍しく外国人の来訪もあり、特に 若い男女には「願かけさつき」として人気があったといいます。惜しいことに今は枯れてしまいましたが、その2代目がわずかに残り、季節 になると色鮮やかな花を咲かせます。
地下道を通ってJR在来線や新幹線の駅舎の北側に出ます
 ▲中島大水道跡
延宝6年(1678)に3人の庄屋 (山口村・西尾六右衛門、北大道 村・澤田久左衛門、新家村・一柳 太郎兵衛)たちと、摂津国西成 郡の北中島地域(現在の東淀川 区・淀川区・西淀川区)に属する 22か村の農民らが、自力で開い た排水路です。資金約2000両 のほとんどを地元で負担しまし た 。こ の 水 路 は 明 治 3 2 年 (1899)の淀川改良工事まで 立派に機能し、永く住民に恩恵 を 与えました が 、昭 和 3 6 年 (1961)東海道新幹線工事の 開始に伴い、これと同時施工で 大水道も暗渠化され、現在は道 路などに形を変えました。
  ▲野々宮の力石
野中福祉会館の横に、野々宮稲荷大神という小 さな神社がありますが、この境内には「力石」と呼 ばれる石が安置されています。長径60センチ、 短径40センチぐらいの卵型で、重さは米俵1つ 分(約60キロ)ぐらいだと思われます。江戸時代、 青年たちは人々の前で力石を持ち上げて見せ、自 分にも十分に力がついたことを示し、大人の仲間 入りを認められたといいます。
▲立森瑞神(野中の巳さん)
 蛇を主神とする小さな神社で、地元では「野中の巳さん」と 呼ばれ親しまれています。大正末頃に村人の何人かが、夢に でてきた大きな蛇に「私を祀れば水不足にならないようにす る」と言われ、これは神のお告げだと、お祀りしたのが始まり です。蛇は河川の神、七福神の弁財天のお使いとされ、その 財という字から商売繁盛の神様として信仰されています。ま た境内には、石の小狸三体(オタケ・八郎・長吉大明神)があ り、安産・病気平癒の神として信仰されています。
▲旧能勢街道
山井かつら店、阪急電車能勢街道踏切、本町商店街、淀川通と旧能勢街道を通って正通院へと向かいます
▲正通院
 江戸中頃の延享3年(1746)に天満の惣年寄をつとめた金谷歳次 郎が創建した曹洞宗のお寺です。金谷家からは三石・遷斎などの学 者や文人が出ており、境内の墓地には遷斎らの墓が現存します。ま た大坂出身の江戸中期~後期の日本画家で、月岡雪鼎(つきおかせ ってい)に師事した蔀関月(しとみかんげつ)の墓もあります。関月 は絵画と文章で各地の名所、史跡、名産などを紹介する図会(『伊勢 参宮名所図会』、『山海名産図会』など)の挿画をたくさん描き、旅行 などなかなかできなかった当時の人々に大変喜ばれました。
 ▲木寺子安地蔵尊
正通院の少し東南にあります。地蔵尊の祀られ た年代は不詳です。もともとこの地は「木寺村」 と「川口新家村」という二つの村があり、明治 16年(1883)にこの2つの村が合併し、それぞ れの旧村名を1字ずつとって現在の地名である 「木川村」が誕生しました。明治44年(1911)に 現在の淀川河川敷にあった本尊を現在地に移 されたといわれています。
▲淀川河川敷公園
▲ゴール:大阪メトロ 御堂筋線  西中島南方駅
 今回はここがゴールとなります
 
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 美智子  
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質
をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう