[1758] 【1768回 好日山荘からロッジウオーク】 2009-02-14 (Sat)

昨日、伏見から銀閣寺まで歩いた後遺症で、お互いが足が重く、今日はポチの靴ひもを購入するために梅田までを軽く歩いて行くことにしました。梅田まで歩くのはいままで四貫島にある会社の通勤と同じくらいへっちゃらになりました。好日山荘で靴ひも(120a)だけを買い(番犬2匹にはたずなをつけて)店をでました。

かねてより購入したかった「マジックマウンテン製のジェミニシングルつまり通称ツエルト」の封筒型を買いにいきました。重さは、わずか220グラムです。道迷い、滑落時にヘリコプターを待つ間、一夜を過ごす場合もあると想定した時、寒さに耐えられる命を守ってくれるツエルトです。もし関心のある人がいたら、いつもリュックに入れていますのでご覧頂くことができます。お声をかけて下さいね。表面は「HELP」と印字されており、救助のヘリコプターから目立つようになっています。(ブログに見本を載せました)

いつになくゴロゴロと休日を過ごし、今夜の夕食は「あばれん坊将軍鍋」をすることにしました。これはテレビで松平健さんが披露していたものを見よう見まねで実現するのです。材料は「白菜、プチトマト、タラ、牡蠣、ベーコン」これだけです。水も味付けもなにもいりません。「はじめチョロチョロ中パッパ」状態で白菜を敷き詰めて土鍋で煮ていくだけです。1回目は火が強すぎて土鍋を焦がしてしまいました。今日で2回目です。

水が吹きこぼれて、いい匂いがたちこめてきました。今度は焦げていないようです。食事制限のある人にも大丈夫みたいですよ。一度おためしになってください。松平健さんの味が漂ってきます(そんなわけあるかいな!)


[1757] 【1767回 拝啓 JR西日本様】 2009-02-14 (Sat)


拝啓「JR西日本大阪駅みどりの窓口様」
よく事故を起こしたり、遅滞を起こすJR西日本様に一筆啓上致したくここにその出来事をお知らせ致します。

『2月13日午前7時40分頃、私はみどりの窓口を利用致しました。「伏見駅まで2枚」と申し上げましたら「はっ?何見駅ですか」とけげんそうに聞き返されました。私は地名がよくわかるように「京都の伏見稲荷さんに行きたいのです」と具体的に地名を申し上げました。すると窓口担当の若い女性が「JRには伏見駅はありません」と何とつっけんどんな言い方でした。

しかし切符を買いたいばかりに平身低頭に物を申し上げ、隣にいた接客をしていない先輩らしき男性に聞いてほしいと頼みました。しかし窓口の女性は時刻表を出して来て「どのあたりですか?」「すみませんが字が小さくて見えないので老眼鏡を貸して下さい」そう申し上げました。「ここには老眼鏡は置いていません!」その時、口が(へ)の字に曲がり私にもその嫌さが伝わってきました。

切符を買わず、みどりの入り口で待機中のジョン(犬ではありません通称です)の所にもどりいきさつを話しました。そして再び同じ窓口に戻りました。私がジョンを迎えに行っている間に隣の先輩に教えを乞うたのでしょう。

「稲荷駅ではありませんか?JRは稲荷駅、京阪は伏見稲荷駅なんですが?」との回答でした。しかし、つっけんどんの物言いにジョンが大きく吠えました。「何でもっと親切に物が言えないのか!!」と大声をあげ、その場を去って行ってしまいました。残された私は「稲荷駅2枚」と切符を買いましたが腹の虫がおさまらず「貴方ね、お客様との接客にその曲がった口は印象が悪いよ。最初に京都の伏見稲荷に行きたいって言ったでしょ?銀行でも郵便局でも公共施設には老眼鏡は必需品よ!ましてや貴方みたいな不親切な人が窓口に座ると、お客は困るのよね!と言うと「ご指摘ありがとうございました」と本を読むような心のこもらない棒読みで答えていました。「それそれ、その物の言い方がダメなのよ」とさんざん説教をして京都行きのホームにたどりつきました』
これが一部始終の出来事です。事故を起こさない、遅滞しない。社員のレベルをあげる。これが利用客への真のサービスではありませんか。

ハハハ〜久しぶりにジョンが爆発して元気を取り戻したみたいです。伏見稲荷駅に降り立ち野を越え山を越え大文字の火床の真横を通り、ゴールの銀閣寺にたどり着きました。途中見覚えのある歩け協会の赤い下見テープが貼ってありましたが既に例会は終了してて剥ぎ忘れなのでしょうかね。それにしてもとても良いコースで皆様に喜んでもらえること間違いなしです。

しかし銀閣寺までは距離も長く、ジョンのC(P)Kつまり筋肉が破壊されている度合いを見て本日三者会議を持とうと思っています。(ポチは癒しの付録で〜す)


[1756] 【1766回 やまたび倶楽部にも「春」到来】 2009-02-12 (Thu)

今日は大安でなくても「大安」! やまたび倶楽部会員の皆様にうれしいお知らせが届いたことと思います。毎日を側で見守っていた「年の離れた妹」でさえ再開の目途がたちませんでした。このまま病気に巻き込まれてしまうのかと心配もしました。しかし今日もらったメールには力強い「決意表明」が記されていました。2009年の予定表も完成した様子、うれしい限りです。2ケ月遅れではありますが皆様と新年のご挨拶が出来ることを、とてもうれしく思っています。

当日はリーダーの挨拶が済めば、各自が持参したお弁当を食べながら、焼酎も持参しますので楽しく飲み会しましょうよ。おつまみも少しだけですが用意します。わいわいいガヤガヤと楽しい時間をすごしましょう。体力も年々弱くなっていきますが無理をせず、トレーニングに励み、それなりの年の積み重ねをしていきましょう。「体力落ちたから〜山はもう・・」とおっしゃらないでね。だってみんな同じ様に年を重ねて行っています。仲間で好きな山に登ることはとても素晴らしいことだと思っています。2009年もいっぱい山に登りましょう。土の匂いを嗅げば若さを保つことが出来ますよ。お会い出来る日を楽しみに待っています。

12日は注文しておいた「こだわりのリュック」を引き取りにいきました。zeropointショートの30gです。色は「シャドウ」です。(ブログに載せました)ついでに大阪天満宮の梅の様子をうかがいに此花から歩いて行きました。まだまだ満開には早い様子です。帰りは阪神電車に乗りましたが、折り返しの電車の中に熟睡した若者が目をさますことなく電車の同じく折り返し熟睡しちゃいました。起こしてあげるのも気の毒なぐらいの爆睡です。しばらくして「福島駅」でハッと気が付き目を見開きましたが、安心したようにまた眠りに入りました。ひょっとして梅田の手前の福島だと勘違いしていたのではないでしょうか。本当は西宮に向かう福島駅なんだけどなぁ(おせっかいおばちゃんしてあげた方がよかったかなぁ)


[1755] 【1765回 芦屋ロックガーデン】 2009-02-11 (Wed)

2月7日に久しぶりの地獄谷トレッキングに行き、翌日も翌々日も足の痛みを訴えていたジョンに追い打ちをかけるように2月11日も地獄谷C懸垂に入りました。「そんなに慌てなくても」と言うかも知れませんが、少しづつ身体を慣らしていき2月16日には「職場復帰」を予定しています。社長業ですから自由ちゃあ自由ですが世の中の動きから見ると少し社員に発破をかける必要もあるのではないかと2月16日に決めました。(本人に確認しておきま〜す)

今日はサスケ先生にも同行して頂き、ジョンの回復の度合いを診察してもらうことに致しました。7日の足取りとは別人の様に今日の足取りは「普通」に戻っているように見え「みっちゃん今日の登りはロープいらんで〜」と心強いお言葉でした。しかし勢いよく登り始めて無理をしたのか「ロープかけてくれ」と途中から用心のためサポートをすることとなりました。今日の地獄谷は水量が多い様です。

小便小僧を通過し、しばらく歩いてA懸垂に出ました。「少しクライミングしましょうか」と言うことになりサスケ先生がリードで登ることにしました。んっ?ポツポツと雨が降り始め、あっという間に岩壁をシャワーの様に雨が走ります。雨はすぐ止みましたが岩場はツルツルとよく滑ります。隣でアイゼントレーニングの男性3人が岩によじ登っていましたが雨に濡れた岩場は彼らを拒絶し、低い位置ではありましたが一人滑り落ちていました。そりゃそうです。ヘルメットも、ロープもないのですからね。

全員が登り、懸垂下降を楽しんだ後、いよいよ秘密の場所「C懸垂」へ向けて入ります。入り口には何も印はありません。ハイカー達が気軽に入るにはとても危険箇所のため、あえて秘密場所に指定している様です。懸垂下降をしなければ降りれない箇所も何カ所かあり腕が鳴る(ヘタクソの言う事か!ゴメン)ではありませんが喜びでゾクゾクとしてきます。

「スラブ」と言う形状の微妙に傾斜(45度ぐらい?)の大岩があり、そこを登ることにしました。ポチが「あ〜あ、これは簡単ですわ」と下から見上げて言いましたが私達にはそうは見えずロープで確保しながら登りました。ポチも「見るとするとは大違い」を肌で感じたのか、おっかなびっくりでやっとクリアー。

見晴らしの良い場所の日だまりで昼食を取ることとなりました。今日のメニューはご飯200c、スクランブルエッグ、レタスとハムの炒め物、ひじきの煮物、スープです。お薬もちゃんと飲みました。カロリーも想定内!OK。

午後からは中央稜を経て下山することにしました。ジョンの「膝の笑い」は今日もあるようで回数を重ねつつ健康体に戻していけたらと思っています。サスケ先生に送って頂き、それぞれの家で風呂に入り洗濯を終えてから再び合流。「やまたび倶楽部2009年の予定表」の校正を終え、夕食の用意にとりかかりました。今夜は主菜はカレイの干物、副菜はタコ酢、もう一品は大根おろしとちりめんじゃこ。


[1754] 【1764回 病院のハシゴ】 2009-02-10 (Tue)

今日はブログに写真を載せていますが左の頬にできた「おデキ」が気になり、以前、形成外科にかかったとき「気になる時は診察にきなさい。切るかどうかは医師が判断します」と言われたことを思い出して、思い切って受診しました。写真ではニキビの様な大きさですが根が深く切除することとなりました。血液検査等々を受けて今日は帰ってきましたが2月17日の午前11時簡単な手術をします。10分ほどで終了らしいですので安心です。「こわいよーっ」って脅さないで下さいね。

診察終了後のその足でサスケクリニックを訪れました。ジョンが「ほぼ」回復し、サスケ先生には講師をお願いしたりしていましたので、ジョンを連れて姫の歯科予約に付き合ってもらうことにしたのです。(これは表向きでジョンにも診察を受けてもらいたいと思って引っ張っていきましたハハハ)予約をお願いすると受付の方が本日であれば、少しの待ち時間で診察可能だと言って頂き待つことにしました。「オレも見てもらおうかな?」とジョンが言うまでに、そんなに時間がかかりませんでした。せっかくの名医を目の前にして帰ることはありません。私のミニ手術日とジョンの再度の診察が17日の11時30分に決まり、私の形成外科のミニ手術が終わるとサスケクレニックで合流することにしました。

待合室に出てこられたサスケ先生はとても格好よくて、思わず写メール撮っちゃいました。ブログに載せましたのでみてくださいね。やまたびの皆様は「山男サスケ先生」しかイメージにありませんが白衣の先生も素敵でしょう!?

我が家に帰り、歯磨き講習会をひらきました。講師は姫ちゃんで〜す。その後、やまたび倶楽部の2009年の予定表を夕方までかかり作成し、90%完了しました。近日中に3月7日にお集まり頂くご案内のメールをさせて頂きます。会員の皆様にお声をかけて頂き、ぜひご出席頂ますようにお願いします。その日に「2009年やまたび行事予定表」をお渡し致します。


[1753] 【1763回 北野天満宮】 2009-02-09 (Mon)

2月9日、午前10時阪神本線「淀川駅」に集合して、と言っても2人でだけど京都まで足を延ばすことにしました。JR京都駅から烏丸通りを北上、四条烏丸〜四条通りを西へ、堀川通りを北上、二条城通り通過、西陣織会館〜今出川通りを西へ、北野天満宮に到着です。そうです。今日は、ひょんなことから京都ウオークとなりました。歩行距離7q、所要時間1時間15分、時速5.6q、人混みの中をかき分けてのウオークとなりました。

♪♪梅は咲いた〜か、桜はまだかいな〜♪♪
梅の満開にはまだ遠く、1週間から10日先が見頃でしょう。受験シーズン間近なので絵馬が沢山掛けられていました。境内のいたるところには牛が奉納されており、病気の箇所をさわれば良くなると言う言い伝えから、滅多に信心しないジョンが牛の目を指すっていました。「早く目がよくなりますように」

境内近くにある、お店に行列があるため何の行列か調査した結果、有名な(?)豆腐屋さんらしく長い長い行列でした。「私達も並ぼうよ〜」と言うと、「並んで食うほどのものか!わしゃ今、食事制限をしているんや!」と言うことになり向かいのソバ屋のノレンをくぐりました。山菜そばといなり寿司、おいしかったなぁ〜

京都の市バスに乗り、京都駅に向かいます。すると、交差点で突然エンジンが停まり「えっこんなところでエンスト?」と思いきや、何と信号の度にアイドリングストップをしていました。
★しかし京都のバスのスピードは早いなぁ〜
★しかし走っている一般車両もスピード速いなぁ〜
★自転車のマナーも悪いなぁ、何回衝突しかけたことか〜
でも、まあ、楽しかったからエエかぁ!

本日の主たる目的は、春先からスタートしたい「京都トレイル」の地図を購入に行くためにリハビリを兼ねて北野天満宮まで歩いたというわけです。しかし1組1800円と言う地図にビックリしました。高っ〜!!

まもなく皆様にお集まり頂き、遅ればせではありますが「平成21年度予定表」を、長くお休み頂いたお詫びを申し上げながら、元気な姿を一人一人に見て頂きたく、「手渡し」したいと考えています。詳しくは近日中に「やまたび倶楽部会員」のコーナーに掲載させていただきます。万障お繰り合わせの上お集まり下さい。乞うご期待!

北野天満宮の梅、ブログに載せました。

(牛の説明)
北野天満宮は947年、鎮護国家のため、雷神を祀って創建されたそうです。境内には神の使いとして沢山の牛が鎮座しています。その牛は全てが足を折って座っていますが、唯一立っている牛がいるそうです。北野天満宮に行ったら、ぜひ探してみて下さいね。


[1752] 【1762回 2ケ月ぶりの芦屋ロックガーデン】 2009-02-07 (Sat)

ポカポカ陽気の土曜日、芦屋ロックズーデン「地獄谷」に行きました。ジョンのリハビリのためです。平地歩きの10〜15qコースは既にクリアー。かねてより計画中の高低のある山道をトレーニングするために懐かしい「地獄谷」を訪問しました。箕面の紅葉刈りトレッキング以来です。車で通りすぎる度に多くのハイカー達が高座の滝までの道を歩いています。「まさかみんな地獄谷ではないよね」そんな言葉を交わしながら駐車場で準備にとりかかりました。25メートルのロープでジョンと姫でくくり、ポチはフリーで登ります。

地獄谷入り口には「崩壊しているので危険」という看板が出ていました。ゲートロックが一度崩壊した姿は、大雨で崩壊の翌日に見て知っていましたが二度目の崩壊がことのほか大規模で、見る影もありません。「危険なので1分1秒でも早く通過しよう」と声を掛け合って地獄谷を登ります。ジョンは足を置いたつもりでも置けておらず「アレッアレッ」という声とともにロープにテンションがかかります。「無理しないで行けるところまで行こう」

ジョンは病気で感の方も病気なのかA懸垂からC懸垂へ行く道を迷います。やっと見つけて「ここは山の会では2〜3回通ったことのある道」だと教えてくれました。かなり、きつく険しい箇所もあり懸垂下降をしなければならない場所もありました。ポチが三点確保どころか両手を離して「落ちる〜助けて〜」と叫ぶ一幕もあり、サポート係として同行してもらったはずなのに、いつの間にかジョンが「右足はここ、ちゃうちゃうそれは左足や、右足や!。手はここ」振り向いて見るとジョンの両目がしっかりと開いていました。(リハビリになってるがな〜)。少し休憩し、次はB懸垂も通過、日だまりを利用して昼食タイムとしました。

お昼のメニューは「サンドイッチ」です。サンドイッチ用のパンとレタス、キューリ、トマト、ポテトサラダ、ハム、ブルーベリージャム、コーンポタージュもあります。各自好きな材料を使ってサンドイッチを作ります。野菜たっぷりでなかなかいいボリュームでしたよ。

ここでコーンポタージュに、お湯を入れていたポチが「アッチッチッ!アッチッチ!ワシにこんな事さすなよ〜」と熱湯を注ぐ手が震えてズボンの上にシャワー状態でばらまいてしまいました。この頃、心臓手術の後遺症の手の震えが大胆に震えだしてはいましたが自分で注意すれば火傷なんてしないはず。それに「ワシにこんな事さすなよ〜」とは何という捨てぜりふなんかと二人から攻められて、陳謝する一幕もあり愉快なランチタイムでした。

中央稜へまわり下山をすることとなりましたが、下山時はジョンが先に姫が後ろからロープでサポートをしながら時々、足を置く位置がわからずテンションがかかり、その都度ロープを引っ張りながら下山していきました。途中で5〜6歳の男の子とすれ違い「そのロープどうしたの?」と不思議そうに聞かれました。「おっちゃん病気やねん」と言えず「岩登りして遊んでてん」と答えて行き交いましたが、きっとサスケ先生ちの慧君のようにロープに興味があったようです。

対岸から見るゲートロックは人を寄せ付けないほどに崩落しており、クライミングが再開できるまでには、10年以上の歳月がかかりそうです。と言うことは私達の生きている間には、もう使用できないと言うことですね。クライミングに取り組む第一歩としては、とても素晴らしい岩場だったんですが残念です。

高座の滝のお稲荷様に無事下山できたことに感謝の手をあわせ、東灘にある「六甲乙女の湯」につかり、汗を流し、帰宅いたしました。ジョンは膝が笑うほどに疲れており、平地歩きで消耗するエネルギーよりも、山歩きは神経も体力も消費カロリーを使うことがわかり「やっぱ山やな!」とつぶやいていました。あと2〜3回、A、B、C懸垂を登れば100パーセントの回復になるのではないでしょうか。

(トレーニングの様子はブログに載せました)


[1751] 【1761回 地域活動】 2009-02-06 (Fri)

今日は保護司活動のひとつで加古川にある「播磨社会復帰促進センター」へ行ってきました。「なんじゃそりゃ」と言うと思います。だって馴染みがないんですものね。わかりやすく言うと「官民協働の刑務所」なんです。ここは建物を国が整備し、施設運営の一部を民間事業に委託する新しいタイプのPFI刑務所なんです。1000名の収容が可能で現在1000名収容つまり満室っていうわけです。

役所の人が立ち会いでないとなかなか見学が出来ない施設で、大変勉強になりました。今までは仕事がありましたので、あまり参加できなかったんですが、ここは収容最高年齢は68歳、平均年齢45歳、刑務所収容が初犯で男性に限る施設です。作業所、個室、食堂、風呂などを見学しました。平成19年に建設ということもあり、まるでホテル(ちょっといいすぎかも)並みの境遇に感じました。

見学後、質疑応答の時間があり、保護司の先生方が色々質問をされておられました。私も新米保護司の身ではありますが、感じたまま質問ではなく体験談を話しをさせて頂きました。「あまり刑務所内が居心地がよければ社会復帰に支障をきたします。もうこんな所は二度と来たくないと思わすことも必要ではないか」と生意気な発言をさせていただきました。

ホームレス生活をしたくないばかりに刑務所に舞い戻る手段として再び罪をおかす者もいます。地域が、企業が暖かく見守る中で社会復帰ができるのではないでしょうか。前科は十二分に反省をして罪を償い出所しています。どうか暖かい目で見て頂き、働く場所を与えて頂きたいといつも願わずにはいられません。「こんなに苦労するのであれば刑務所の暮らしの方がよかった」と言うことのないように自由の翼がどれほどに幸福なのか感じてほしいと思わずにはいられません。

私に何が出来るということはありませんが、家族を悲しませ働く場所を奪われた罪を償った暁には、二度と同じことを繰り返さないで人生を歩んでほしいと、今後も見守っていきたいと痛感しました。その後、此花に戻り臨時総会、懇親会と続き、地域を越えた親睦会が出来、情報交換ができたことが自分の今後の活動に勇気と自信が少しではありますが沸いてきた気がします。

帰りに久しぶりに零ちっちの家に寄り写真をブログに載せました。


[1750] 【1760回 負荷をかけて10キロ】 2009-02-05 (Thu)

時速5.7キロを持続しながら、リュックの中身は7sではありますが負荷をかけて今日はヨットハーバーまで「速歩」を試みました。快調な足取りです。「みっちゃんのケツ、ちょっと小さくなったなぁ」何とうれしい事かしらと浮かれてはみたものの、私のおケツのサイズなんて知る由もなく、すぐバレる冗談だとわかりました。冗談が出ると言うことは少し、心に余裕も回復してきたなとうれしく感じました。ヨットハーバーの半分地点のところで保育園児の耐寒訓練なのか散歩なのかがあり、引率の先生が「レイくん〜早くこっちにいらっしゃ〜い」と呼ぶ声がして探しましたが気のせいだったのか、孫の零くんかどうか確認できませんでした。スーパー堤防を利用して中学生のマラソンなども行われており、毎日、風景が変わります。ジョンの目が悪いので「犬のウンコやで」と足下を注意する回数が多くてどこを歩いても犬の糞には閉口します。

途中で「あらーっ!」とお互いが驚きの声をあげました。会社の警備員のおじさんとすれ違ったのです。背中には場違いの大きなリュックを背負っているため「雪山の訓練してますねん」と弁明をしたり、弁当売りのおばさんを見つけていつもなら「買おうか」と言うのですが市販弁当はカロリー計算ができないため、じっと我慢をして通過しました。

途中の此花漁港に此花名物の「てっちり」のお店があるのですが今年はコース価格が全て千円の値上げだとか。テレビなどで有名になり値上げした様子ですが「安くて新鮮だから、少々不便でも行きたい」と思うのであって千円も値上げしたのであれば、どこの店を利用しても同じよね。サスケ先生のビルの1階にも「てっちりや」ありますよね〜。

ウオークは、かなりの速度でしたので50分ほどでヨットハーバーに到着です。対岸は昔、サンセットウオークで行ったことのある名倉公園がくっきりと見えています。ヨットハーバーでトイレ休憩をした後に折り返して戻ります。今度は会社の近くの米屋のおじさんと出会い「今日は会社やすみでっか?」「ずーっと休んでますねん」「ああ卒業でっか」と笑いながらすれ違いました。みなさん健康には気を使っているらしく「散歩ウオーク」をしている人が多いのに驚きました。(できれば、もう少し速度をあげると、より効果的なんですけどね)

今夜は私が地域活動の仕事があり、ジョンは早々に自宅に帰ることとなりました。大丈夫、ちゃ〜んとリュックの中は「主菜、副菜、もう一品」が2日分詰まっています。料理の本に出会えたことで毎日の献立がとても楽しくて我が家も、とても快調なメニューです。(ポチさん!もしメニュー不満なら素敵な彼女を見つけてレストランでビフテキ食べて来てもいいんやで〜)


[1749] 【1759回 立春の日の応援ウオーク】 2009-02-04 (Wed)

ポカポカ陽気の立春の日、私とジョンは阪神電車「尼崎センタープール前駅」に立っていました。やまたび倶楽部の皆様がジョンを応援してくれるために集まってくれるためのお出迎えです。「やあやあ」「お久しぶり」と集合時間に集まってくれた懐かしい再会を済ませ、目的地である「ザ・めしや」に向けて出発です。

故郷高知の方言で「なぐらかす」という言葉があります。村の行事に金ではなく人夫を出して道路の整地や神社へ通じる道の草むしりなどをする勤労奉仕があります。村役場の人が「みなさん今日はなぐらかしてしもうてスミマセン」という時に使います。まさに今日の集まりは、そんな「なぐらかした」一日であると感謝せずにはいられません。

店の入り口で手を洗い、自分の好きな総菜を、お盆に載せていきます。「主菜、副菜、もう一品」と、うららちゃんから借りた本の中身をイメージしてカロリー計算も考えて、選びます。合格!よくできました。ではいただきます。店に到着したのが11時50分、店をでたのが1時20分、何と長居をしたことでしょう。店を出ると、店員さんが追っかけてきます。「えっ?勘定は払いましたよ」「お忘れ物です」ハハハ帽子を忘れていた様ですわ。

あまりのポカポカ陽気にジャンバーを脱ぎ、半袖になり尼崎の町並みを野田阪神に向けて歩くことにしました。歩行者の多いのは勿論ですが、自転車の多いのには閉口します。あの自転車のベルは無用の長物ではないかと腹立たしくなります。神崎川の、よどんだ水辺にも鴨たちが行儀よく頭を同じ方向に向けて、ス〜イスイと泳いでいます(うまっそう♪)途中で給水のための休憩をとった他は10キロの道のりを歩き続けました。

「ジョンさん、足はや〜い」とびっくりするほどの回復です。淀川大橋にさしかかったとき、後ろでドッスーンと大きな音がしました。振り向くと自転車が横転していましたが、若者だったため手助けなくても自力ではい上がれるだろうと見捨てて歩き続けました(人も通過しているんやからスピード出し過ぎちゃうんか?)とにかく自転車公害が至るところで目に付きます。

野田阪神に到着後も、別れづらく喫茶店に入り、またまた1時間以上もおしゃべりが弾みました。(2ケ月ぶりにコーヒーを飲む、うれしそうなジョンの顔はブログに載せました)気が付くと午後5時近くになっていました。今日参加の皆様に平地歩きの「合格印」を押してもらいましたので5日、6日で仕上げをして土曜日は高低のある近場の山歩きをしようと考えています。

精神的に弱っていても体力が衰えない様にリハビリウオークを続けました。「オレは病人やで〜」と、時々弱音を吐くときもありましたが「鬼のみっちゃん」は手をゆるめる事は一度もありませんでした。なぜならば医師から心拍数120でないとジョンの強靱な体の脂肪は燃えないと聞いたのです。時速6キロで歩くとやっと心拍数が120に到達するらしいです。今宮戎ウオーク、通院ウオーク、18階までの階段ウオーク、堤防ウオーク、昨日からは負荷をかけて歩き始めました。日々努力の積み重ねで頑張ってくれたジョンに心から拍手を送りたいと思います。姫の「おかげさまで私も痩せました」までにはまだまだ日がかかりそうです(ショック!)

今夜のメニューは主菜は「すき焼き風」、副菜は「サヤインゲンのゴマ和え」、もう一品は「キューリの酢の物」です。(1800カロリー合格メニューでしょ?)夕食後、応援ウオークに参加してくれたお礼のメールをしたら「相身互いという言葉があります。我々も勇気をもらいました。」とうれしい返信メールを頂きました。ポチとジョンと3人でウルウルしながら人の温もりにありがたさを感じた夜でした。

明日も、しごくぞ〜!


[1748] 【1758回 節分の日の朗報】 2009-02-03 (Tue)

今日は節分です。今年の恵方は「東北東」無言のまま恵方に向かって、巻きずしを丸かぶりすると1年間、無病息災がかなうそうです。暦では立春が1年の始まり、イワシの頭をヒイラギの枝に刺して玄関に置くと邪気かをはらうと言われています。立春は2月4日。

★★そんな1年の始まりに朗報です。★★
ジョンもリハビリのおかげで体力を落とすことなく快方に向かっています。目の方はまだまだ先の完治となりますがジョンの中で「よっしゃ〜っ!」というところまでこぎ着けました。去年の11月の箕面ウオーク以来、お目にかかっていませんので、突然ですが明日「ザ・めしやウオーク」をしようということになりました。(何じゃそれは!)

「ザ・めしや」は大衆食堂なんですがバイキング方式になっており、食べたい食材を自由に選べて個々に精算することのできる食堂です。ジョンが食べ物を前にして、どれほど我慢ができるか、カロリー計算が出来るかをテストしたいと企画致しました。明日の突然のお誘いではありますが下記の通りジョンの顔を見るために歩きませんか?

●2月4日 阪神電車(本線)尼崎センタープール前改札口に11時30分集合(ジョンは淀川駅11時出発します)大阪寄りの改札です。

●尼崎センタープール前から約10分歩いて「ザめしや」到着です。

●食後30分後から、国道2号線沿いに10キロほど歩いて野田阪神まで帰ります。(野田阪神駅解散)

●参加しますのお知らせは不要ですが11時30分過ぎてしまいそうな時は「ザめしや」を探して来て下さいね。国道2号線沿いの尼崎南警察署西分署の横です。


[1747] 【1757回 ワークシェアリング】 2009-02-02 (Mon)

ワークシェアリングって一体なに?と。つまり一人のリストラ者も出さない。そのかわり社員全員の賃金のカットや残業を減らす。休日を増やし、賃金の減った分はアルバイトをしてもよろしいと言う「全員生き残り作戦」のことを言います。私が勤めていた会社も過去に同じ様なことがありレイオフ(一時帰休)、賃金カット、賞与遅滞などを実施し生き残りました。

しかし住宅ローンなどを抱える仲間は条件の良い職場を見つけて転職しようと試みる者もあり大変苦労をしたことを覚えています。今の状態では再就職先も見つからず、自分だけよければ良いという考えよりも「全員が生き残る」方針で頑張ってほしいと思います。私は夫婦が働いており、賃金カットも何とか乗り切ることができましたが、まさかの時のヘソクリは常に蓄積しておきたいものです。

「余ったら貯金する」ではなく「先に貯金に回す」習慣をつけたらどうでしょうか。余ったらではなかなか貯蓄まで手が回りません。たとえ3千円でも1年で3万6千円、10年で36万円となります。36万円貯まると「使う」ことは考えず、さらに増額したいと思うようになれば、しめたものです。

私は二人のお嫁ちゃんの誕生日プレゼント用に1年かけて5百円玉貯金をしています。サイフの中に5百円が2個できたら貯金箱に入れるのです。チャリン、チャリンと音をたてる度にお嫁ちゃんの喜ぶ顔を想像して1年間楽しむことができます。たとえそれがわずかな金額であったとしても12月に同時に2個の貯金箱に封印し、次年の貯金箱を用意します。いくら入っていたのかわかりませんが、お嫁ちゃんが喜んでくれていることだけは事実です。

「ちりも積もれば山となる」という言葉がありますがワークシェアリングが実施された時、蓄えがあれば夫に「大丈夫よ、やりくりは任しておいて!」と太っ腹(私の腹ではない)でいられるはずです。不況から脱出する方法はサラリーマンは受け身ではあるが、きっと明るい未来があるはずです。昔、私が体験したように必ず明るい日がやってきます。


[1746] 【1756回 2歳の誕生日】 2009-02-01 (Sun)

2月1日はかずくんの2歳の誕生日です。1月28日のももちゃんの参観日にプレゼントは渡しましたので今日は電話でメッセージを贈りました。

婆「かずくんお誕生日おめでとう。ハツピーバースディの歌うたおうか?」と言うと「はっぴーばーすでぃ?」かまわず♪♪ハッピバースディツーユー♪♪と美声(自己満足)を届けると語尾だけ「ユー〜。ユー〜。」ついて歌います。そばにいた時は駆けつけていたんですが西宮じゃちょっとね。(ブログに写真あり)

2月ともなれば高層ビルの彼方から山々を見ると、うっすらと白くなつている様子です。湖西線は強風のために運転を休止していますので比良山頂は吹雪いているに違いありません。中高年の安全登山をめざす「やまたび倶楽部」はこんな日はコタツに丸まっているに限ります。

しかし、大阪城は梅がチラホラ咲いていると言う梅情報が届いていたためウオークがてら10キロほどを歩いて大阪城の梅林鑑賞に行ってきました。まだ早かった〜これが感想です。大勢の素人カメラマンが「立ち入り禁止区域」に堂々と入っていました。ジョンが「ワシは絶対あんなこと出来へん」と視覚にはいらないように梅鑑賞をしていました。

登山でも、ウオークでも写真撮影でもルールは守ってほしいね。京都の哲学の道も、人間が踏み固めた土(きっと立入禁止に入ったんだろうね)が原因で桜の木の危機が来ているとの事でした。大阪城の美しい梅林も将来、哲学の道と同じ運命をたどるのではないでしょうか。

再来週あたりは満開かも知れません。皆様もどうぞご自宅から歩いてお出かけになりませんか。時間を決めて梅林の下で合流ってのもロマンチックでいいですね。ジョンもフルマラソンにたとえると42.195キロの40キロぐらいのところに立っています。もうちょっと。もうちょっとでゴールです。待っててね。


[1745] 【1755回 アイスキャンデー】 2009-01-30 (Fri)

「アイスキャンデー」と言っても、あの自転車の後ろに旗を立ててチリリン、チリリンとベルを鳴らして売りに来るアイスキャンデーの事ではありません。今日の産経新聞の夕刊に見覚えのある写真が一面に載っていました。そうです。サスケギャラリーで見せて頂いたあの赤岳鉱泉の人工氷瀑のことなんです。サスケギャラリーの方が素敵な映像ですが、アイスクライミングの人気のゲレンデで「赤岳鉱泉」に宿泊すると利用できるそうです(宿泊しなくても利用出来るそうですが)サスケ先生は2回も赤岳鉱泉に登っていらっしゃるので連れてって〜4月中旬まで利用できるそうです。そのころはジョン復帰かな?

アイスキャンデーの話しの次は桜の話しね。
京都の「哲学の道」1922年橋本関雪さんと言う画伯がソメイヨシノを寄贈し「関雪ざくら」と親しまれてきました。ところがいま倒木の危機にさらされているのだそうです。観光客が土を踏み固めてしまい、土の状態が最悪の状態なのだそうです。桜の寿命は70〜80年と言われていますので植え替えの時期ではありますが「橋本関雪さん」の意志までもが枯れてしまうと困ると言うことで、クローン桜を育てようとしています。今日その母体の桜の枝木が、つぎ枝用に折られ再生されようとしています。2〜3年で苗が育つそうです。

今日はおまけにもうひとつニュースね。
去年から我が家の集落に外灯がないことに気が付き、設置要求をしました。1年経過しても何の音沙汰もなく却下されたのだと諦めていたら「外灯を付けに来ました」と言うことで立ち会いました。高さはどうするかと聞かれたので即「4メートル」と即答しました。工事の人が驚き、なぜ標準の高さを知っているのかと聞かれたので、昔勤めていた会社の独身寮の前の外灯の位置が丁度、部屋に直面し明るすぎて眠れないと言うことがあって高さを調整してもらった事がありました。その話しをすると「なるほど、なるほど」と感心してもらえました。

ポッチーが戻り開口一番「えらい表が明るいなあ」ふ〜んポッチーでもわかるんや。これで痴漢もなくなるでしょう。ちなみにこの集落の女性の平均年齢は70歳〜!(私が一番若いのよ)


[1744] 【1754回 高齢者返納制度】 2009-01-29 (Thu)

つい先日72歳のドライバーが運転操作を間違えて交通事故を起こし、死者を出してしまいました。現在、高齢者の運転免許証の返納制度のメリットがあまり広く知られていなくて、そのまま乗りもしないのに更新をする人が多く、かと言って年齢制限のない現在「更新できません」とも言えず警察も頭を抱えている様です。(勿論、高齢者の方でも能力低下せず現役の人も沢山いますよ)

@単独反応検査
A選択反応
Bハンドル操作検査
C注意配分複数検査

この4項目の適正検査を受け、ひとつでも不合格があれば返納することにより事故が減るかも知れませんね。事故の多くの原因はアクセルとブレーキの踏み間違いだそうです。兵庫県では自主返納をしてくれた方には「運転経歴証」を発行し、さまざまな得点(メガネ、薬局利用の割引、バス半額、温泉入浴半額)など。返納した方達の交通手段にタクシーの割引も考えているそうです。

大阪府の橋下はんよ〜大阪は、ちと出遅れてまっせ〜

話しのついでに「もみじマーク」の義務化が「あれは枯葉マークみたいで年寄りに失礼だ」という事で義務化がとりやめとなりました。枯葉だっていいじゃあありませんか。それで事故に遭わないなら2枚でも3枚でも付けるよ〜

私の考えですが「初心者マーク」が定着しているので、あれと同じ形で色を赤と黄色にすれば「枯葉」だなんて言わせなかったのにね。もみじマークと言うからにはもみじの形にすればよかったのにね。まあどちらにせよ、交通事故は本人も家族も相手も悲しい人生を歩むことになります。みなさん充分気を付けましょうね。


[1743] 【1753回 参観日】 2009-01-28 (Wed)

東山幼稚園の参観日のお誘いを頂き、朝8時に車で家を出ました。そう、ももちゃんの参観日なのです。パパが広島に出張中なのでママとかー君と婆ちゃんで見に出かけることにしました。本日は婆様業〜

ももちゃんちのワゴン車に乗り換え幼稚園近くの駐車場にとめ、東山幼稚園へ。2階建ての大きな幼稚園です。あっ、はるかちゃんもここの卒園だったんですね。かーくんは5分ほどで飽きてきて幼稚園の中を探検しはじめました。「ばあちゃんいこ〜」婆様はこの言葉に弱いのです。

うさぎ小屋や、熱帯魚の水槽や、スロープになっている2階に通ずる通路が格好の遊び場です。時折、ももちゃんの教室に行ってばあちゃんが来ていることのサインを送ります。子供とは不思議な者でギャラリーが多ければ、張り切ってお遊戯や合奏が出来るようです。ももちゃんの楽器は「ウッドブロック」です。とてもいい木の音色がします。

ひとりだけ、どうしても先生の言うことに背を向けるS君がいます。ママ〜、ママ〜と参観に来ているママの方ばかりを見て協調性ゼロ。今日だけなのか、いつもなのかわかりませんが親の行動を見ていると将来、大変だなぁと、我が孫でなくてよかったと胸をなでおろしました。

帰りはみんなでママの運転するワゴン車に乗り帰りました。婆ちゃんが乗ってきたベンツ(軽四だけどね)と入れ替え、帰りに車が出やすい様にしてもらい昼食をご馳走になりました。みんなで食べると美味しかったです。おもちゃで遊び、トーマスの線路で遊び、そろそろ家に帰ろうとバイバイの挨拶をすませるとポケットに入っているはずの鍵が見あたりません。「ボケたか!?」

30分以上探しましたが見あたりません。電車で帰り、スペアキーを取り、再び名塩に戻るしか方法はないのかと気の遠くなる様な思いをして、それでも諦めずに自分が身を置いた場所をトイレまでも探しました。モンベルのファスナー付きのポケットに入れたのは間違いないんですが・・・・

電車で帰る準備をして、それでももう一度と、ももちゃんのおもちゃ箱、カーくんのトーマスのおもちゃ箱を探しました。「あった〜!」何と、かーくんが鍵もお片づけしていたのです。だっこしたりねふざけあって遊んでいた時ファスナーを開けてミニカーを入れたり、出したりして居たときにかぎも一緒に出したんですね。

一件落着〜!思い出多い「参観日」でした。


[1742] 【1752回 間抜けな消防自動車】 2009-01-27 (Tue)

産経新聞の記事に消防車の出動を要請した人とは別人を搬送したというニュースを見て笑った(笑い事ではありませんが)

ある日、男性が体調不良で病院を訪れましたが、そこの病院では処置困難なため、病院から自分自身で119番へ電話をかけ救急車の要請をしたそうです。ところが到着したその場所に体調不良を訴える女性がいて、その人を乗せて走ったそうです。救急車の到着が、あまりに遅いと男性が再度連絡をして、間違えて乗せたということが判明したそうです。何とお粗末なことでしょうか。これでは救える命も救えないですね。

話しは変わりますが梅田のヨドバシカメラの横で赤十字の献血のバスを見ました。スタッフが皆さんに声を大にして呼びかけをしていました。万一、輸血をしなければならない病気になった場合を考えると献血に協力はしたいものの私は高血圧の薬を飲んでいるので献血をすることができません。「お薬を飲んでいる人はダメです」と却下された事があります。世の中に献血のできる健康体の人って少なくなった様に思います。

平成11年に入院した時、先生が「貧血を治してから手術をします。今のままだと輸血をしなくてはなりません。後々の事を考えると輸血無しの方がよいと思います」と言って2週間の手術待ちをしたことを思い出しました。その時の2週間はとても長く、仕事も気になり「早くしてよ〜」と心の中であせりました。しかし長い人生(70年間、生きるとして)に置き換えてみると、わずかな時間でしかありません。それに気が付いたのは健康が戻ってからのことです。

病気と闘っている時は、自分中心に軸が廻ってくれればいいと思うものです。この期間で一番からだに悪いのが「もうどうでもエエ」とか「ここはヤブ医者や」とか「何で私だけが」のあせりの気持ちだと思います。前立腺癌で亡くなった義兄がよく「元気なお前らにワシの気持ちがわかるかっ!」と叫びに近い声でした。「お兄ちゃんの気持ちよぉ〜わかるわ」なんて言ったらまた暴れ出して、まるでやんちゃな少年の様でした。

そんなら健康な者に出来ることは何やと問われると、人それぞれに、その人との関わり方で違います。ただ病気の人の希望だけは、どんだけ無理な要求でも聞いてやりたいと思っています。それが私のお見舞いの仕方かな!


[1741] 【1751回 春場所の千秋楽を見て】 2009-01-26 (Mon)

日曜日の夕方は相撲の千秋楽観戦をすることとなりました。日頃相撲を見ることのない私でさえもしっかりと腰を据えて見てしまいました。私は白鵬ファン(と言うよりはアンチ朝青龍)であることを前書きしておきます。

我が家の観客は朝青龍派のポチ、白鵬派の姫、強い方を応援派のジョンの3人でテレビ観戦となりました。まず日本人の力士よ、もっと強くなってよっ!と叫びたい。日本の国技であるならば日本人の力士が土俵の上で優勝戦を戦ってほしかった。平素の相撲で朝青龍が、勝負の決まった力士を更に追い打ちをかけるような(土俵から突き落とす)動作を不愉快に思っていました。「勝ったんだから、そこまでしなくても」と思う場面がいつもありました。それとあのふてぶてしい顔、相手を威嚇しないと相撲が組めないのかと思う仏頂面もあまり好きではありませんでした。

白鵬は勝負が決まり、土俵際からこけていく力士にいつも紳士的で手をさしのべ、スポーツとはこうあるべきだという姿勢を子供達に見本として見せてくれていました。昨日の勝負も朝青龍が勝ったのちも白鵬をにらみつける一面がありましたが、あの品格のなさが私は好きになれないのです。こんな朝青龍でありますが相撲人気に拍車をかけたのはあっぱれだと思います。サラリーマン達や商売人達の、やり場のない不景気を朝青龍のふてぶてしさに便乗し、まるでマグマが吹き出した様な社会現象になったような気がしました。優勝したことで更に「わがまま」のし放題が目に見えてきます。相撲界の理事さん達よ!今こそ、朝青龍の品格の無さを、日本の国技にふさわしい品格向上に教育し直すべきではありますまいか!相撲にあこがれる子供達の夢を壊さないように大事に育ててほしいです。

我が家の応援風景は勝負の結果、ご想像にお任せしますが何でも勝てばいいと言う世の中は何か間違っています。コツコツと練習を積み、若い力士に相撲道を自らの姿で教えて来た白鵬に私から優勝旗を渡してあげたいと思います。

「そして」か「しかし」かわかりませんが、総理大臣さんよ!表彰状を間違わずに読み上げられてよかったね。えらかったね。仮名振ってもらってたのかな。表彰状を渡した後の意味不明のコメントはいらんよ!


[1740] 【1750回 不思議な行列の正体】 2009-01-23 (Fri)

阪神高速堂島入口を利用する時、いつも、いつも長蛇の列が出来ている箇所があります。高速に乗るための、ほんの一瞬しか見えないので、何の列なのか調べることが出来ず、私の中で調べなくっちゃあという思いが膨れあがりました。コンサートにしては老若男女さまざまですし、時間帯もちょっと違う。かと言って大きなお洒落な店もあるように思わない雰囲気でした。多い時には店の前から橋の上に繋がっています。

しかし、やっとわかりました。この列は「堂島ロール」と言う超有名なロールケーキを買うための行列だったのです。みなさまの中で、この堂島ロールの味を知っている人がいらっしゃったらぜひ感想を教えて頂きたい!並ぶ価値があるのかないのか知りたい!噂によるとロールケーキの中に生クリームがたっぷり入っていて美味しいらしい・・・聞くだけでは満足いかないなぁ。試食してみたいなぁ。

正月の福袋に並んでから、妙に行列が気に掛かります。並ぶ価値があれば何時間でも並んでいたいと思うようになりました。これは定年退職してから時間と心の余裕が出来たからかも知れません。「何に並んでいるのですか?」そう声をかけたくなります。商品でも、製品でも、お店でも誠心誠意していれば、周囲の人から認めてもらえれれば、おのずと繁盛の道が開けてきます。

便利なので百円均一の品物をよく買いますが、やはり百円の値打ちしかない、すぐ壊れてしまうものが多いです(中にはそうでないものもありますよ)。余り高くても売れませんが「ここだけは譲れません」と言った職人技の商品こそ生き残るために必要なのではないかと思います。

堂島ロールも行列を作るくらいなら、機械で量成産をすればと思いますが、おっとどっこい、この手作りのこだわりが行列を作る秘訣なのだと思います。「美味しいんだって」「並んででも買いたい」そんな噂を流した、この小さなお店(堂島が本店だって)のこだわりが企業にも欲しいね。

旅先で水門を見たら「あっ我が社の製品かも知れない」と期待して銘板を探したことがあります。我が社の製品ならば、車のナンバーの様に製造番号を記載した銘板が取り付けています。しかしクレームが多くて苦情ばかり聞いていると、旅先で水門を見たときアクセルをふかして早くそこを通過したい気持ちになります。手抜きのない一流の品物を作ることこそ「生き残る」秘訣ではないかと思う主婦業の私がいます。


[1739] 【1749回 空のくもりぞらと心のくもりぞら】 2009-01-22 (Thu)

今日の空はハッキリとしない雨空の一日でした。ハッキリしないと言えば我がやまたび倶楽部のリーダーのジョンの「急性神経炎&ヘルペス」の病状も今日の空の様に曇り空です。長引く症状にいらだちを覚え始めました。先生には「完治までには6ケ月」と言われているのですが待ちきれない様です。

それに加えての悩みは、便利な携帯電話という文明の利器が悩みの種であり「どないしてんの?」「どう?」「具合はどうですか?」などの電話やメールをいただくそうです。実際に私と一緒に歩いている時も電話の応対に「え〜えまあハッキリしまへんねん」と答えています。メールは「複視」の症状で打ち返すことができず返信できないことにもストレスを感じています。皆様のご心配にえらいきつい言い方をしますが許して下さい「非常に困っている」そうです。

症状が明るい兆しの時は、明るい回答ができるのですが、何度も、何度も同じことを繰り返し答えなければならず、ハッキリ言って「つらい」そうです。目の調子が良い時に「やまたび倶楽部ホームページ」を見ると思いますので、どうぞ励ましの言葉はメールや電話ではなくて掲示板の方へお願いします。

過日、電話の応対が少しよくなかったようで(電車の中ってハッキリ言えばよかったのですが)すぐ私の携帯へ電話がかかり「けんもほろろの対応だった。大丈夫かいなぁ」と心配の電話をくれた仲間がいました。私の知る限りの症状は、ここへ書き込みをさせて頂いています。しかし心の中の苦しみは私とてわかりません。かなり「あせり」と「携帯電話恐怖症」になっていることだけはよ〜くわかります。

スノーシューを新調し、まだ一度も使っていない実ちゃんのことも、とても気に掛けています。クライミングの残りの講習のこともとても気に掛けています。しかし、いまはハッキリ言って無理です。本人が「ご心配をかけました。元気になりました。山に行きましょうか」と書き込みがあるまで、そっと見守ってあげて下さいませんか?お願いします。

ヘルペスの湿疹は枯れましたが、完治前に必ず出るという神経痛にいま悩まされています。63年間病気らしい病気にかかったことがないので本人曰く「病気には打たれ弱い」そうです。勝手なことですが気分の良いときには、やまたびの伝言板を覗きに行っています。もし電話や携帯メールを考えておられる方がいましたら、申し訳ありませんが、やまたびの伝言板にお願いします。勝手なことを書いてごめんなさいね。






[1738] 【1748回 婆様業は本日も多忙】 2009-01-21 (Wed)

ももちゃんのママが看護師復活の面接に行くと言うので西宮名塩へ留守番役に出向きました。昼過ぎから小雨が降り阪神高速は渋滞気味。やはり1時間は余裕を持って出かけねばならないことが判明しました。手前の交差点を曲がるとクライミング場所の蓬莱峡なんですがねぇ(冬場の岩の練習はジョンの病気がなくても凍てついて危険なため、休止期間です)

名塩のももちゃんちへ到着すると、ももちゃんが待ちかまえてくれていて「2階で遊ぼう〜2階で遊ぼう」とせがみます。かーくんがお昼寝中なので起きるのを待って2階へ上がり、またまたグルリンパッの新技を見せてくれました。名塩は、ことのほか寒いです。ママが戻るまで、幼稚園ごっこをすることとなり婆ちゃんが生徒になるのですが「では、東山幼稚園のおうたを歌ってください」とももちゃん先生が言われましたが勿論歌う事ができません。(去年の9月に転校したわりには全部覚えていて感心しました)子守の様子はブログに載せました。

ママの面接は「合格」です。ナース復帰が決まりました。世の中、派遣切りだの内定取り消しなど暗いニュースが多いのですが、看護師不足は別の世界の話しの様です。名塩を出たのは外は雨が降り続き暗くなっていました。住宅街を抜けるまでは真っ暗闇で車のライトだけが頼りです。道がどのように曲がっているのか、さっぱりわかりません。おまけに宝塚方面へ帰る道は対面通行でセンターの仕切もありません。ライトアップして走ってくる車にまぶしくて腕が鈍ります(最初から鈍ってるって〜?)やっと3車線道路に出てホッとしました。池田から阪神高速は渋滞8キロと出ていたため高速に乗らずに戻ってきました。

雨の日は視界も悪く、おまけに歩行者は全員と言っていいほど黒いコートに信号無視をしています。雨の日の事故が多いのは当然だなと思いながら無事帰り着きました。


[1737] 【1747回 ヘルペスは恐ろしい病気】 2009-01-20 (Tue)

看護師さんが「ヘルペスは顔面に出来ると失明のおそれがある。救急車の要請は必要ないが休日でも急患扱いで受診しなければならない。神経痛にもなる。みんなヘルペスを安易に考えすぎています」と言われました。そうか正月の間、じっとがまんしていたことを忠告してくれたのかと真摯に受け止めました。私が働いていた職場の若者もいま、ヘルペスで長期休んでいる様子。病院に行っていると信じていますが、仲間を通じて病院にかかり、治療をすることを進言しておこうと思っています。そう言えば、歩けの会長がヘルペスで入院していたこともあったなぁ

★ヘルペス

ヘルペスというのは「単純疱疹」と「帯状疱疹」の2つを言います。いずれもヘルペスウイルスが引き起こし、症状もある程度似ていますが、別の疾患だそうです。一般にはヘルペスは帯状疱疹を指す場合が多いため、しばしば混乱を招くようです。

●単純疱疹(単純ヘルペス)
【症状】
古来「熱のはな」と呼ばれてきた皮膚病で、主に顔面、特に口の周囲に出る。最初は皮膚に赤く変化して、ムズ痒く(またはヒリヒリ)なり、数時間後にはその部分に小水疱が出現する。水疱は数個がかたまりとなり、次第に大きさを増す。
風邪などの病気や、海水浴やスキーなどの紫外線のストレスが、誘因となりやすい。

【治療】
そのまま放置しても、水疱がかさぶたに変化して一応は2週間ほどで自然治癒する。しかし現在では特効的な抗ヘルペスウイルス剤(飲み薬・塗り薬)があり、これを用いて治療すると、治癒が早まるだけでなく、不快な自覚症状が大幅に軽減するので、出来るだけ早期に治療を始めること大切です。


●帯状疱疹(帯状ヘルペス)
【症状】
俗に「ヘルペス」として知られています。単純ヘルペスとちがい、広い範囲に帯状に発赤と小水疱ができます。必ず体の右または左側だけブロック状に発生し、全身に拡がることは殆どありません。最初の2、3日はピリピリした痛みが先行し、その後水疱が出てくるパターンが多い。症状は個人差が大きく、水疱もパラパラ程度の人もあれば、非常に多くでる人もある。一般的には高齢ほど悪化しやすく、治癒が遅れる。一般に大きな病気を経験したりすると出やすいといわれるが、ちょっとした疲れでも出る場合が多いようである。
この病気で最も困る症状は、痛みである。これも個人差が極めて大きく、ほとんど痛みのないこともあれば、下着の摩擦だけでもピリピリとした目を剥くような激しい痛みに悩まされることがあり、皮膚症状が治っても、なお数カ月以上にわたって痛みが続く場合もある(ヘルペス後神経痛)。

帯状疱疹は全身どこにでも発生するが、目の回りや耳の回りに出ると、角膜を侵したり聴覚・顔面神経に障害を残す場合があるので、眼科や耳鼻咽喉科の診察が必要となることもある。

【治療】
重症の場合は入院治療が必要であるが、多くの場合は外来で抗ヘルペスウイルス剤の内服・点滴などで治療する。適切な治療が受けられれば、10日もすればほとんど治癒するが、痛みが残る場合は引き続いて治療が必要となる。
一度罹れば、二度と罹ることが無いのが特徴である。但し、大きな病気で免疫が弱っている場合などは、再発することもある。





[1736] 【1746回 ペンションいのしし】 2009-01-18 (Sun)

「ペンションいのしし」とは、私が勤めていた会社の福利厚生施設です。名前のいわれは、隣の家が、沢山の、いのししを飼って食肉として販売をしており、窓を開けるとヴゥ〜ヴゥ〜と不気味な声を出して鳴き風に乗って匂いが室内に入ってきます。夏場は窓なんぞ開放してはおれないのです。そこで「いのしし」と名前を付けて看板を揚げました。会社は「変な名前」とも言わず承認してくれました。この施設を借用するときは「ペンションいのしし利用許可証」に責任者指名を記入し、用途を書き込み、総務に提出をします。

「新年会に参加しませんか?」と会社の息子からお誘いを受け、喜んで参加をしました。買い物は氷上に到着してからするのですが、四貫島名物のコロッケ(冷めても美味しい)も買っていくことにしました。ユメタウンと言うスーパーで16人分のキムチ鍋、ホルモン鍋の材料を買い込みます。人数が多いので半端な量ではなくモヤシは棚にあるものを10袋全部買いました。棚は空っぽとなりました。

買い物の途中で会社の息子が34歳の誕生日だと聞き、ケーキを土産に買うことにしました。さてチョコが好きなのか、生クリームが好きなのか迷い、16人もいるので太っ腹でどちらも購入することにしました。買い物を終え、「ペンションいのしし」に到着し、早速材料を切り始めたのが3時過ぎ。四貫島名物のコロッケがとてもいい匂いを漂わせており、「もう〜我慢出来ません〜」と言うことでマイナス3個減りました。やっぱりうまい!!

午後6時になる頃に参加者がゾロゾロと集合し始めました。私の送別会以来ですので、ねんごろに新年の挨拶をしてキムチ鍋とホルモン鍋もいいあんばいに出来てきました。16人が思い思いに好きな鍋の前に座り、会社の将来について、今の社会情勢について、結婚について、職場の改善について熱く語ります。満腹になったところで本日のサプライズのお誕生会となりました。電気を消し「♪ハッピバースディツーユー♪♪」とみんなで祝福をしました。

寮生はどんなに遅い時間でも帰宅することという約束(フトンが足りないため)をしているらしく、どの寮生も懐中電灯を持参しています。大阪では想像も出来ませんが懐中電灯がないと暗闇で一歩たりとも前進できないのです。私は大阪組3人の寝袋を持参していたため寮生もなんとか泊まれそうです。真夜中の1時、奥様が迎えの車をよこし一人帰りました。「会社の母です」奥様にそう紹介されて、ちょっとうれしかったなぁ。底冷えのする寒さは大阪では味わえません。フルブルと震えました。さすが氷上です。

それから一人、二人と帰り午前2時30分を過ぎた頃、寝袋に潜り込みました。もう上のまぶたと下のまぶたがチューしちゃって目を開けていられないのです。午前4時すぎに最後の二人が遂に眠りにつきました。寝袋3個、敷きフトンをかぶって寝ている者、押入の中に潜り込む者と、さまざまな格好で、写真を撮ってなかったのが残念でたまりません。午前4時前寮生達は、約束通り、凍てつく寒さの中、寮へ帰っていきました。(かわいそうに。。)

18日午前7時、Y課長がガバッと飛び起き「仕事や〜お先に!」と、ペンションいのししを後にしました。午前9時過ぎ一人を残して、みんな元気に朝を迎えました。ただ一人だけ枕と頭がくっついて、どうしても離れることができません。朝食ができたと起こしても「無理っす!」とぶっ倒れていました。寮に帰った仲間達にも携帯で朝食に来るように連絡を入れ、ふたたび、にぎやかな、あさげが始まりました。

片づけもあっという間に終わり、氷上の人たちに見送られて大阪に戻ったのが午後1時すぎ。後部座席のお嬢は出発から到着まで気持ちよく爆睡していました。

会社の景気が良くない状況ではありますが、部署を超えて、職場の悩み、人生の悩みなどを話し合える場所があるということに感謝をしたいと思います。そして退職したいまでも声をかけてくれる息子達にも感謝をしたいと思いました。

●写真をブログに載せました。全員で集合した写真は到着次第載せます。


[1735] 【1745回 コインランドリー】 2009-01-16 (Fri)

我が家の近くのコーナンとスイミングスクールの位置する箇所に「コインランドリー」があります。季節が変わる頃、車に毛布やコタツ布団を積み、ここを利用します。30分間うだうだとおしゃべりをしているとアッという間にできあがりなんです。

昔は風呂の残り湯を利用して足で踏み踏みし水を抜き、クタクタになりながら洗つていました。何日もベランダに干して乾燥させるのです。昔はクリーニング屋に出していたのですが、全然きれいになっておらず、おまけに別の汚れまで付けて返却された、にが〜い体験があり、毛布は自分で洗うことにしています。

しかし文明の利器は、そなん頑なな還暦婆さんを変え、コインランドリーを利用することとなったのです。分解水利用で洗剤もソフト剤も自動で挿入してくれるのです。30分経つと、お見事!!きれいになっちゃうんです。

今日は季節の移り変わり目でも何でもないのに突然「オイラの毛布、臭いかも〜」と言い出したのです。ヘルペスと言うウイルスにやられてから、少し神経質になっているようですが、患者の不安を取り除いてあげるのが年の離れた妹の仕事と、愛車に「臭いかも毛布」と「羽毛布団」「敷きシーツ」の3枚を積みコインランドリーに持ち込みました。

「羽毛布団洗っちゃいけないのと違うの?これドライクリーニングに出した方がいいのでは?」と尋ねると「毎年洗っているから大丈夫」との言葉を信じて、車の中で30分間待つことにしました。待ち時間を利用して車のダッシュボードを整理していたら、汚い500円玉2個が出て来ました。コンビニで支払いすると「これは使えませんよ」と言われそうな位、汚い500円玉2個です。

コインランドリーの中に「両替機」を発見しました。一か八かこの両替機の中に500円玉を入れてみることにしました。すると何とピカピカの100円玉が5枚。これはしめたともう一枚両替しちゃいました。でもニセ金ではありませんからね。

30分経ち、きれいに仕上がった毛布と敷きシーツは問題なし。羽毛布団は見事にペッタンコになりました。これって失敗??もし乾燥後、もとに戻らないと弁償ってことかなぁ。ほんとに毎年洗濯機で洗ってたのかなぁ。

17日から18日兵庫県丹波市まで新年会に行ってきますので明日の書き込みはお休みさせてくださいね。


[1734] 【1744回 リーダーのその後】 2009-01-15 (Thu)

帯状疱疹(ヘルペス)の襲来で、お目々の痛さが少し遠のいています。帯状疱疹(ヘルペス)も忠太郎の言うとおり、サスケ先生の言う通り、枯れてきつつあります。暖かい日はリハビリを兼ねて毛馬の閘門ウオークを楽しんでいます。ご安心ください。

15日は診察の日でレントゲン検査がありました。「ジョンさ〜ん。ではボタンの付いている衣服を脱ぎ奥に入ってください」と説明をしてくれ「ハイ」と確かに答えました。ところが、ところがです。パンツ一丁になって表へ出て来たではありませんか。「エッ!?どうしたの?中にドアあるはずよ」「あっそうか」とレントゲン室に入りなおしたのですが、おかしくっておかしくってジョンが中に入っている間中、笑い続けていました。廊下を通る人が「このおばさん狂ってるわ〜」ときっと思ったはずです。

そんなお茶目なジョンはいま快方に向けて、序々に治りつつあります。目の病気のために「やまたび倶楽部」のホームページも更新が、ままなりませんが、ご理解のほどよろしくお願い致します。今夜はジョンは家でご馳走が待っているらしく自宅へと、いそいそと帰って行かれました。

その後、ジョンの娘さんと息子さんが、寒い中を尋ねてくれて「父がお世話になっています。助かっています」とポチと私にお礼の言葉を言いに来てくれました。たまたま私が定年で毎日、暇をもてあましている時にジョンが具合が悪くなり、私に出来ることをしているまでのことで、気にしないで仕事に精出してジョンパパを安心させてあげてと言っておきました。

物事を金で解決する人もいますが、金とは無縁の私達は、 励ましや病院への付添などで役立つこともあります。(金はないで〜)焦らないで治療してと言いながら、早くよくなってクライミングも雪山スノーシューも、みんなで一緒に行きたいよ〜と心の叫びを聞かせてあげたい気もします。(何よりもジョン自身が雪山に行きたいと思っているはずです)

本人が病気でも、家族が病気でも、心の底から楽しく山登りができません。周りの仲間も元気でいてくれなくっちゃね。みなさん、風邪をひかないでね


[1733] 【1743回 雪山登山後の洗濯物】 2009-01-13 (Tue)

在職時代は、どんなに時間が遅くなっても、どんなに疲れていても、翌日が勤務の時は、洗濯物と荷物の片づけは、きちんとしてから就寝していました。しかしサンデー毎日になってからは「明日片づけるから今夜は、もう寝よう」とリュック2つ玄関先に置いたまま就寝しました。汚れ物を翌日まで放置するのは今まででに無い事です。13日の朝から天気もよさそうなので、1回目の洗濯物を回し、その間にスノーシューとアイゼンを洗い、バイクのハンドルやガレージのシャッターを利用して干して置いて、リュックを3階に持って上がり、中身を全部出しました。未使用の物も雪と風が入り湿っているためサンルームに全部広げて干しました。2回目、3回目と洗濯機を回し、風呂場では「手洗い」表示のジャンバーや帽子を押し洗いします。ざっと3時間余り、11時までかかりました。

●そうや、ポチのスパッツのヒモが無いため(本人が取り外した)雪が靴に入っていたなぁ、ゴム付けたろ。
●そうやオーバー手袋は使っているうちにズルズルと手元に下がってきたなぁ。子供みたいに両方をヒモでくくったろ・・・少しずつ改良しながら整理して行くと楽しい時間と変わりました。
●そうや、ポチが靴ひもが短いと言うてたなぁ、これは本人に好日山荘に行かそう(姫が靴ひもだけ買いに行って、それだけで帰ってくるはずがないわ)

押入から出てきたジーンズの布きれでアイゼン用の袋(と言っても風呂敷の様に巻くだけ)も作りました。あとは2〜3日かけて洗濯物が乾くのを待つだけです。

昨日の教訓ですが雪山の、先人の踏み跡を頼らず、道迷いしない方法を考えました。登りの段階で自分達用の目印を主だった所につけて行くのです。帰り道はそれを回収しながら戻るってのはどうでしょうか。雪のシーズン中に、もう一度武奈が岳に行きたいです。そして目印をつけて、同じ道に帰れることを体験したいです。道標が少なかった様に思います。あるいは雪に埋もれていたのかも知れません。

ロッジでの次なる買い物の目標はツエルト(封筒型)の購入です。8千円ほどであるらしいですので、ぜひ買いたいです。万一、昨日の体験の様に道迷いで一晩夜を越さねばならない場合、命を救ってくれる代物です。重さもさほどありませんので合羽と同じように、いつもリュックに仕舞って起きたいと思います。

ポチさん買ってきてくださ〜い。もし買ってくれないなら、私の分だけ自分で買いましょう。!


[1732] 【1742回 武奈ヶ岳に行って来ました】 2009-01-13 (Tue)

前夜の天気予報は大荒れの雪と雷警報が出ており、おまけに朝まで大阪は雨が降っていました。大阪が雨ならば武奈ヶ岳は雪だろうと防寒対策よろしく予定通り出発することにしました。12日(月曜祝日)午前7時30分、山行きにしては少し遅めの集合です(スミマセン私が決めました)名神高速の渋滞もなく坊村到着は9時丁度。予定通りの時間です。登山口の駐車スペースはすでに先客で埋め尽くされていて、向かいの橋を渡ったところにある駐車場に停めました。出発準備をして登り始めたのが9時30分。

バスで到着の人たちもいて登山道は踏み後があり、比較的登りやすい感じです。最初はアイゼンを装着しました。前の晩に降り積もった新雪は柔らかく、足がズボッ、スボッっとはまり込みます。スノーシューに履き替えも考えましたが、登山者の踏み後が溝の様に狭くなっていたためスノーシューでは、かなり歩きにくいと判断をし、登り道はアイゼンで行くことにしました。

突然、横なぶりの雪と風が襲い、空は鉛色と変わり不気味な音を立てはじめました。山の天気は変わりやすいとは言いますがこんなに早く変貌するとは思いませんでした。暑くて脱いだ防寒着を素早く着て風の落ち着きを前進しながら待ちました。坊村のサイレンが正午を告げ、横道を踏み固めて昼食場所を作りおにぎり、パン、ラーメン、スープとそれぞれが食べ始めました。冷えた身体には暖かいスープやラーメンが似合います。

頂上を踏んだのが午後1時。頂上には多くの登山者がいて、自分が登ってきたアルプスの山々の話しに自慢の花が満開に咲いていました。その中の一人が私に向かって「ほーっ!北鎌に行きはったんでっか?」とリュックにつけていたホルダーを見て関心を示しました。「ええ」とさりげなく答えて、360度の展望にみとれました。頂上についた瞬間だけ風は凪ぎ、太陽の恵みを受けて暖かく、しばし登りのつらさを忘れさせてくれました。頂上で飲んだ暖かいコーヒーは最高の味。

下山はアイゼンからスノーシューに履き替え、踏み後のないところを子供のように無邪気にキャッキャッと駆け下りました。しかし新雪は綿の様に柔らかすぎて足がはまり込み、大層、疲れることを自覚し、体力の消耗をふせぐため先人達がつけた踏み後に従って下山しました。途中でスノーシューを外す作業中に上から人間が降ってきました。ポチです。「何すんねん」と言いながら助けましたがバランスを崩した様です。リュックにつけたスノーシューは外れかけるし後ろに続いていた6人(女3人、男3人)のグループに道を譲りました。その後、私たちもそのグループについて降りる格好になりました。

「坊村まであと1時間」という看板を確認し、急な下りは尻スキーで楽しみながら下っていきました。ところが道を譲った女性の一人が「道がありません〜!上に引き返して!」と叫んでいます。上から見ていると、どうも滝の近くに出た様子です。でも、しっかりとした踏跡が見えているのですが、私たちも登り返すことにしました。

そこへ日焼けをしたイケメン(帽子しメガネで顔なんか見えないけど)の青年3人が降りてきて、どうしたのかと尋ねました。地図を広げDPSを眺め、そのまま降りて国道に出るはずだか自信がないと言います。「坊村まで1時間」の看板まで引き返す方がいいのかと思案していたら、先ほどのイケメン青年が大声で「降りてきてもOKですよ〜」だからイケメンは好きやねん。ありがとう!

国道が見えたところで、全身の張りつめていた緊張感が解け、のどの渇きを覚えました。ついでにおしっこ〜。「振り向かへんから、そこでしてもいいよ」と言うことで雪の中に芸術作品を残して、無事国道にでました。時間は4時26分。

帰り道はかなりの渋滞で自宅に送って頂いた時は7時を過ぎていたと思います。車の中に置いてきたピッケルを持参すればよかったなぁと反省しながら久々の雪遊びを楽しみました。


[1731] 【1741回 鏡開きにちらし寿司と善哉】 2009-01-11 (Sun)

2009年1月11日は鏡開きの日。正月のお飾りを外しました。ポチは鎖の切れた土佐犬の様にひとりで散歩にでかけました。私とジョンは車で所用を済ませJR芦原橋にさしかかったあたりでゾロゾロとゼッケンをつけたウオーカー達が歩いていました。少し車を停めて見ていたら、まあ信号は守らないわ、斜め横断はするわ、左右前後の道から歩いてくるわで、とてもこっけいでした。地図を持っていても先頭の人が道間違いをすると後ろも続け〜。先頭の人が信号無視をすると「みんなで渡れば怖くな〜い」状態でした。去年までスタッフをしている時には、想像もしなかった裏方を垣間見る思いで笑わずにはいられませんでした。

鎖の切れた番犬ポチを回収し3人でお好み焼きを食べながら、夕食は何を希望なのか尋ねました。ポチは「何でもエエ」いつものパターンの回答が返ってきました。ジョンは「善哉とみっちゃんの作ったちらし寿司」と言います。何が食べたいかとオーダーを聞いた手前、献立は決定!!買い物を済ませ番犬2匹がお昼寝している間にちらし寿司の準備と小豆をコトコトと炊き始めました。暦を見ると今日は鏡開きなので善哉に鏡餅を入れて頂くことにします(鏡餅はスーパーで買った小餅だけどね)

「鏡開き」の由来
鏡開きは、もともと新年の仕事、行事初めの儀式のひとつです。まあるい鏡は円満を、開くは末広がりを意味します。
昔、武家では正月に鏡餅を供え、正月11日にこれらを割って食べるという習慣があり、これを『鏡開き』と言いました。現在でも家庭や事務所で年の始めに鏡餅を供え、1年の健康と発展を祝って供えた鏡餅を食べる『鏡開き』が正月の行事として受け継がれています。会社でも、この日は各階に鏡開きの餅を分けて、焼きもちにする部署、安倍川餅にする部署、私の所属する5階は、みっちゃん善哉を大鍋に炊きみんなで食べていました。不思議なことに匂いとともに各階の女子社員が集まってきてコミュニケーションを深めながら台所で善哉を食べたものです。今年はどうしたんだろうなぁ?

結婚式やパーティなど祝宴で樽酒をあけることが多く、めでたい席であり「鏡割り」ではなく、縁起の良い「鏡開き」という言葉を使うよう配慮をしたいものです。まあ、もう司会をすることもないので心配はいらんか・・・なっ!


[1730] 【1740回 西宮戎までの15キロ】 2009-01-09 (Fri)

「オイラも雪の武奈ケ岳に行きたいなぁ」と顔に大きく書いてあるジョンのために今日は、リハビリウオークを計画しました。医師は「普通の生活をしてもよろしい。運動も結構」と言ってくれました。ただ患者自身が複視の不自由を感じているので、あせりは禁物ですが、このままだと「ストレス症候群」になっても困ると懸念し9日は宵戎なので西宮までウオークをしようと言うことになりました。早朝の雨は上がり温度もかなり暖かく感じます。

阪神淀川駅前に10時に集合し、2号線を、ただひたすら西宮戎に向けて歩きます。西宮戎までは15キロはあるでしょうか。速度は「超ゆっくり」です。淀川の橋を渡る時ユリカモメが沢山水に浮かんで私たちを見送ってくれました。時々立ち止まって、水分補給をします。大物駅近くの薬局に入り椅子に腰掛けて休憩をとりました。薬局の待合室はトイレも完備されていて、お茶や水も自由に頂くことが出来ます(ちょっとした穴場です)。次の休憩地は武庫川の郵便局の中の椅子に腰をかけて休憩をとります(ここも穴場です)

武庫川には鴨がスーイスイと遊泳していて心が癒されます。この方角を歩くことは珍しく、目に映る物すべてが楽しく「動く画廊」の様な気分になりました。到着は14時30分と4時間30分かかりましたが「歩ける」という自信を取り戻したみたいです。(明日の朝、どの程度の疲れが残っているのか、足の痛みはないかチェックが必要ですね)10日の午前5時福男達が競うスタートラインを踏み、大きく曲がって、若者達が突き当たる大木をなで、1200人分の刺身が出来るという大マグロも見てきました。

人混みをわけて、やっと正面に到着しました。ジョンが神妙に手を合わせています。楽しみにしていた、戎さんでしか売っていない「豆板菓子」を買い帰りの電車の中で平らげてしまいました。(ポチのみやげ・・ゴメン)会社に勤めていた頃は先代の社長のお供で今宮戎に社業発展の祈願に毎年行っていました。今宮戎に先代社長の縁故者がいるということで、滅多に一般の人は入れないと言う場所に連れて行ってもらいました。お賽銭の音を背中で聞きながら「商売繁盛」を祈ってくるのが習わしとなっていました。

ブログにジョンさんの姿を載せました。

帰りは電車を利用、今日は疲れたのか、帰って昼寝をすると言うので野田阪神でお別れをしました。


[1729] 【1739回 待合室での話し】 2009-01-08 (Thu)

ジョンの眼科の診察日。予約時間は11時なのですが13時になってやっと順番が廻ってきました。2時間も待つのなら「予約表」要らないのではと思うほどですが、二人で待つので時間もあまり気になりません(本当は空腹〜)嫁がジョンさんの具合を打診して来たメールがあったので見せてヘルペスは1週間もすれば枯れる話しをして待ち時間を費やしました。

いつの間にか、子供の頃に飲んだ「虫下し」の話しになりチョコレート味をした虫下しが美味しかった事、虫下しを飲んだら、口からも虫がでた(キッショー私ではありません!)話し、DDTを噴射する日が決められていて、田舎の恩師(ほら、、四万十で会った先生)が放課後生徒の名前を呼ぶのです。「○○ちゃん、△△ちゃん、残って〜!ついでにみっちゃんも〜」みっちゃんは学級委員なので噴霧器を職員室から持ってくる役目です。私の母親は清潔な人でしたので貧乏はしていましたが不清潔ではありませんでした。何日もシャンプーをしていない子の頭髪にシラミがわいて担任の先生がDDTをかけるのです。薬剤で真っ白になった女の子がクラスに何人もいました。今だったら父兄が「うちの子に何するの!人の前で恥じかかして!」とかけ込むのではないでしょうか。その頃は文句を言うどころか学校に感謝をしていたと思います。

家に帰ると猫を捕まえてノミ取りをしました。「おとなしくしないとDDTをかけるぞっ」と脅すと、すっかりおとなしくなりプッチン、プッチンとノミを上手に殺せたのです。私の子供の頃はアトピーだのヘルペスだのややこしい病気は知りませんでした。水は天下のもらい水で、少々の大腸菌は身体の中に飼っていたものです。ヘルペスもいたと思いますが表面化しなかったのでしょう。

キャベツについた虫は魚釣りの餌として活用し、虫食いのキャベツは「虫も食うほど美味しい」と多分、虫もおなかの中に入っていたと思います。そんな虫退治のために1年に2回ほど「虫下し」が配給されたのです。

話はもとに戻って今日の眼科の診察は「前進あり」と評価してもらえました。しかし、壊れた神経細胞の再生には時間がかかり、眼科の先生も6ケ月を目途に完治するだろうと言う話しでした。右足にできたヘルペスも枯れかけて来て、少し明るい兆しの様に思えます。夕食はポチの帰りを待って3人で野菜中心の肉料理(どんなんや!)で少しだけ前祝いの膳を囲みました。

9日は「宵えびす」西宮まで歩くとしましょうか・・・


[1728] 【1738回 クローゼットの大掃除】 2009-01-07 (Wed)

年末の大掃除にはクローゼットの中の衣服の整理までは手がつけられませんでした。「着て行く物を探して、ひっぱりだして、済めば空いている所へ押し込む」これが常ではないでしょうか。退職した今、スーツなんてどこに着て行けばいいのかしら?と一大決心をしてクローゼットの中身をすべて掘り出して整理することにしました。

得意先を招待しての会社の互礼会の司会を務めていた関係で毎年スーツを新調していました。(いまでは好日山荘のスーツに変化)それぞれのスーツに思い出が凝縮されていて、手が止まり整理整頓に時間がかかります。時々ファッションショーまでやらかして「♪♪背中のボタンが止めにくい〜♪♪」と口ずさみながら、せっせと消却袋に行く物と、再びクローゼットに命拾いした物との運命の分かれ道を誘導します。

二段に区切った上段には丈の長いコートやロングスカートなどを吊りました。冬物は奥へ、手前は春物、下の段はスーツやブラウスと丈によって収納していきます。今まで同居していたジャンパー類は独立して別のクローゼットへ移動しました。登山の時の品物が膨れあがり、おしゃれ着との同居は不釣り合いとなってきたのです。しかし今後は、確実にジャンバー類の利用が頻繁であることは間違いありません。

サイズが合わず、絶対将来、着ることのない服は衣装ケースに仕舞いました。万が一、痩せたら、思い出のあるスーツだからと捨てきれないのです。貧乏性というかなんと言うか、こうして物がどんどん増えて行くのです。(反省してます)「整理整頓の上手さは捨てることから始まる」これが私のモットーでしたが衣服はなかなか捨てられません。1年経過して袖を通さない物は2年目も袖を通さないでしょう。

今後の課題は
「服に身体を合わすのか、身体を服に合わすのか」です


[1727] 【1737回 恩師からの宅配便】 2009-01-06 (Tue)

今日は「此花クラブ」の互礼会の日。従来は会社の出勤日に当たりますので欠礼していたのですが、今年初めて出席をして見ました。名簿から数えると250人はいるでしょうか。此花区の議員さん、区長、警察署長、消防署長など中には代理もいましたがあとは町会の役員さん、婦人会の皆さん、此花区で何らかの役員を引き受けている方達の集いでした。

初めてなので率直な意見を述べさせてもらうと「詰め込みすぎ」梅香殿の大ホールに250人は詰めすぎです。役所関係の方達と区民の交流の場とするならば席の配列にも配慮不足を感じました。まあ初めての参加なのでこのくらいにしとこか。

帰ってしばらくすると、宅配便が届きました。故郷土佐の高知に住む恩師からの荷物です。手紙を探しましたが何も入っていません。故郷の「鮎最中」というお饅頭などが入っていました。夜電話をすると懐かしいお国訛りで「11月に、もんて来ると思って待っちょったがよ」との事。色々事情があったことを詫び、春には帰ると約束をしました。車で一人で帰ると言うと「なんちゃあ、そんなにしんどい思いせんでもバスで、もんてきて車はワシの車を使こうたや」とのやさしいお言葉。どうも美智子さんの運転では中村にたどり着かないだろうと笑う。

この恩師は私が小学校6年生の時の担任で、大阪に出てきてからも「幸せ薄い子」の見守隊長としていつも故郷から四季折々の物資で応援をしてくれていました。「先生、なんぼになったが?」と歳を聞くと決まって「美智子さんの歳に20歳を足して」といいます。わかっていても、また今夜も聞いてしまいました。「先生、なんぼになったが?」81歳だといいます。「はようせんと、あっちに行くかも知れん」と笑う。春には一大決心をして帰ろう。

故郷の野山でイタドリ取りをしたり、先生にくっついて中村市のあちらこちらを歩こう。そうや!私が卒業した「蕨岡小学校」にも先生と一緒に行って見よう。そして両親の墓参りに行く道が、多分、草がぼうぼうと生えて、まよい道の様になっているはず。この恩師に同行してもらい草刈りを一緒にしよう!マムシが飛び出さない頃をみはからって出かけるとしよう。

父も亡く 母までも亡い 故郷に 私を待ってる 恩師あり


[1726] 【1736回 ちょっと長引くリーダーの症状】 2009-01-05 (Mon)

1月5日はジョンの神経内科の診察日となっていたため、待ち合わせ時間に自宅に迎えにいきました。出て来る時、足が折り曲げられない状態の様子に「どうしたん?」と聞くと、右足にだけブツブツが出来て赤く腫れ、口破れて大変との事でした。3時の予約が4時になり、やっと診察の時間となりました。

先生「どうですか?」
付添「今まで生きて来た中で最悪の正月だと申しております。何とかして下さい」ズボンをズリ下げて右足を診察すると「あ〜これは帯状疱疹つまりヘルペスですなぁ。貴方、今までに糖尿だと言われた事はありませんか?」
付添「ありません」
先生「かくれ糖尿の気配があります」ということで処方箋は「プレドニン、プレドハン、タケプロン、ビタメジンカプセル、デグレトール、ゾビッラックス」などの投薬をもらいました。糖尿と言われたことはありませんかと聞かれて「ありません」と言いましが、本当はあるのです。昔、風邪を引き、町医者に診てもらったところ検査結果を見て糖尿だと言われ2〜3日していくとケロッと検査結果が正常になっていたことが数回あるのです。病院嫌いのため、健康だと信じていましたので今まで放置していたのです。ステロイドにより体内に潜伏していたすべての病原体が表面化したのだと素人的に感じました。そして不思議なことに「目」の方は少しではありますが回復に向かいつつあるのです。眼球が以前より動きはじめたのです。

付添「先生は完治するには長くかかるとおっしゃいましたが2ケ月ですか、3ケ月ですか?」
先生「長くかかると言うのは6ケ月を言います」
そう聞いて、ガクッときましたが、肝っ玉が座りました。63年間も健康で生きて来れたのですから、どこか悪くなっても仕方がないわ。突然、倒れたと思えば、大事の前の小事。心臓病の先輩もおるし糖尿を語らせたら右に出る者はいない先輩もいる。今更ドタバタしても仕方があるまい。そんな気持ちで病院を後にしました。

★みなさまにお配りしました2月までの予定表は、そんな理由で実施が危ぶまれてきました。2月のスノーシューも中止とさせて下さい。今はあせらず、じっくりと治したいと思います。予定をそのままにしていると気になり、あせりがでます。すべてクリアにすることによって落ち着いて治療してもらえると思います。

個人的に予定表に沿って、出かけて下さる方がいましたら、お声をかけあって実施して下さるとうれしいです。金剛山に雪が積もり出かけてみたいなぁと思った時はやまたび倶楽部のコーナー、姫のおうち等を利用して仲間に呼びかけて下さい。リーダーもその方が喜びます。そんなら姫がすれば!と言われるかも知れませんが「このコースは任せて!」と思う方がいるはずです。どうぞよろしくお願いします。




[1725] 【】1735回 アイゼントレーニング 2009-01-04 (Sun)

2日の福袋の買い物の列に並んだときに武奈ヶ岳に行きたいなぁ、行こうか、行こう、行こうと言う話しが、整理番号33番と37番の間で盛り上がりました。34番と35番、36番の整理番号を持つ赤の他人は興味深そうに耳を傾けていました。サスケ先生が「アイゼンワークしっかりしておいて下さいや!」と言う檄を飛ばして下さいましたので4日の今日はポカポカ陽気も背中を押してくれて、淀川の堤防の斜面を利用してアイゼントレーニングに励みました。

急な斜面の登り方、降り方、平行に前進の仕方、前爪での登り方、突風通過の体制、斜面を利用してピッケルではなくてアイゼンで滑落を停止する方法など盛りだくさんの練習内容です。六甲のザレ場とは違った芝生の上を転倒していく練習を何度も繰り返しました。背中には芝生の端が入り、チクリチクリと痛いですが、とても良いトレーニングになりました。

淀川の河川敷パトロール隊の車も「何してるのかな」とけげんな顔をして通過して行きましたが気にしてはいられません。これならば、バイクでちょいと出かけて来て一人でも練習できそうです。現地での雪や氷に、この練習が役に経つかどうかはわかりませんが「アイゼンをひっかけない」これが基本ですので歩いて、歩いて、日々練習するしかありません。

今日の滑落停止の練習で何が恐ろしかったかと言いますと天地が逆(頭が下になり滑る事)になるほどこわいことはありませんでした。でも本当に足を滑らせたら、そんな場面にも遭遇するのでしょうね。そんな時は一刻も早く頭を上にする姿勢を取ることだそうです。雪山教室は淀川の堤防で実施できそうですね。


[1724] 【1734回 恒例の初詣】 2009-01-04 (Sun)

門戸厄神へのお詣りは我が家の恒例行事となっています。3が日の間にお詣りを済ませて、1年間の無事を感謝し、新しい歳の1年をお守り頂くのです。去年は60歳の大厄でしたので、ねんごろに手を合わせ無事を感謝しました。

★厄年とは★
厄年とは、人間の一生のうち苦しみとか、災いなどの厄難に遭遇するおそれが多い年齢のことを言います。厄年の頃になりますと、肉体的、精神的、社会的に何等かの異変が起こり、ただ単に迷信として片づけられないものがあります。人生精一杯生き抜くことは結構なことですが、電車にも駅が有るように、時々立ち止まり、人生を振り返り、反省、感謝し、次ぎの進むべき方向を見定める余裕があってもいいのではないでしょうか。いわゆる人生の充電期間とお考え頂ければよくおわかりと思います。

心身ともに清らかにし、神仏の御御加護を頂くことは勿論のこと、精神的豊かな心境をもって的確に未来への方向付けをするのが厄除けのお祓いです。厄年の人は勿論、厄年以外の方もお詣り頂き、今年1年、厄除け開運、無病息災、家内安全、商売繁盛、諸事安全、所願成就のご利益を頂かれる事をお勧めします。合掌(門戸厄神 東光寺 山主)

(男性の厄年 数え歳)
25歳、41歳、42歳、43歳、61歳(昭24生)

(女性の厄年 数え年)
19歳、32歳、33歳、34歳、37歳、61歳(昭24年生)

門戸厄神へのお詣りは、ごった返す人混みと、両脇の狭い道路に露天が軒を連ね、歩くことがやっとの状態でした。毎年思うのですが、門戸厄神に通ずる家の車の出し入れは、どうするのかしら?家から一歩も出られない状態で困るだろうなぁと素朴な疑問・・・・


[1723] 【1733回 福袋の列に並びました】 2009-01-02 (Fri)

60歳を過ぎて初めての体験をしました。何と大層なと言うかも知れません。「福袋」の列に並ぶ決心をしたのです。イングスの列に並ぶべく自宅を午前8時に出発しました。梅田の地下街を歩いている頃、うららちゃんから携帯に電話があり、もう既に並んでいますとの事、こりゃ大変だと急ぎ足。途中の百貨店の前は長蛇の列で「最後尾はこちらです」のプラカードを持つおじさんと先頭とでは既に100人を超える列の様子です。うららちゃん情報によると1階と地下で整理券が発券されているそうで、まず1階で「37番」と「38番」の整理券をゲットしました。再度9時過ぎにならべとのことです。地下に行くと「371番」「372番」の整理券で気が遠くなりそうですがとりあえず整理券をゲットしました。うららちゃん達は喫茶店で時間待ちをしている様子です。

「では番号順に並んでくださ〜い。まもなく店内に入って頂きます」のアナウンスに、うららちゃん達を呼ばなくてはと携帯に電話を入れかけたら、お二人登場となりました。新年の挨拶を済ませ列にならびます。うららちゃん達は「33番」「34番」すぐご近所さんで何と心強いことでしょうか。金魚の糞のように売り場までくっついていきました。

5人づつを区切って商品を選んでいきます。「1サイズ、1メーカー、5品まで」のルールがあり、私は「ミズノ製品」の陳列台に老眼鏡をかけて、くらいつきました。かねてより下着が欲しかったので透明の袋からそれらしい商品を見つけ精算コーナーへ並びました。まだ順番の来ていない人たちの長蛇の列の横をすり抜けて行くのですが気持ちよかったこと〜。「早起きは三文の得」と言いますがどのくらい得をしたのでしょうか。

(福袋そのT ミズノ製品)
●フリース    8,400円
●ジャンバー 13,800円
●保温靴下   2,625円
●3分タイツ   3,465円
●肌着      4,620円
●パンツ     2,415円

合計金額 35,325円

(福袋そのU foxfire製)
●ダウンジャンバー  23,945円
●ショルダーバック   4,935円
●登山シャツ     14,490円
●インナー       6,090円

合計49,455円

早朝から並んだだけの「得」は得たと思います。たのしかった〜。その荷物を提げて鴻池新田の姉の家に年始の挨拶に行きましたが開口一番に「これはみやげとちゃうでー」と先手を打っておきました。よそを訪問するときに紙袋を持参すると絶対「みやげ」やと勘違いするもんね。来年も並ぶで〜

★THE NORTH FACE の製品は番号が「371番」の番号もさることながら福袋は45袋しか用意していないとの事で「完売しました」のアナウンスを聞きながら並ぶこともなく通過しました。


[1722] 【1732回  賀 正 】 2009-01-01 (Thu)

 賀    正


憧れの 北鎌尾根から 槍を踏み 穂高に続く 還暦の歳

昭和44年10月15日 阪神動力機械(株)に入社、
39年間勤めさせて頂きましたが昨年10月31日付けで
定年退職いたしました。在職中は何かとご指導頂き心よりお礼申し上げます。今後は「主婦業」に転職し趣味の山登り、クライミング沢登りを楽しみたいと思います。
長い間ありがとうございました。

これが今年の私の年賀状です。北鎌尾根から槍ヶ岳に登る写真を付けました。更に素敵な山に向けて!!

元旦は、大人12人、幼児3人の正月の膳を囲みました。何をどう話しているのかまったく聞こえません。電話のベルさえも聞こえないほどのボリュームです。私と姪でオセロをしていて「負けた〜悔しい!」と悲鳴をあげると孫に「うるさい。静かにして下さい」と注意をされました。2階の床が抜けそうでした。さあ明日はイングスの福袋に並ぶぞ!


[1721] 【1731回ありがとうございました。】 2008-12-31 (Wed)

1年間あたたかく応援をして頂きありがとうございました。60歳の大厄も無事過ぎ去ろうとしています。新年は私の新しく歩む道探しをしたいと思っています。今までの人生を振り返りながら、悪いところは直し、良いところは伸ばし、楽しい余生を過ごしていきたいと思います。春には故郷の地を踏みたいと思います。そして父と母の墓に手を合わし、この世に生み出してくれたことに感謝の祈りを捧げたいと思っています。

やまたび倶楽部のみなさまのご多幸をお祈り申し上げます。
このサイトへアクセスして下さった多くの皆様に感謝申し上げます。来年も楽しい「ハチキン姫」の書き込みを頑張ります。ありがとうございました。


[1720] 【1730回 「はちきん」のいわれ】 2008-12-30 (Tue)

土佐生まれでこよなく故郷を愛するがあまりホームページも、携帯アドレスもみ〜んな「ハチキン」の名称を語っています。私の弟子と名乗る「○港運輸の総務部長さん」が「はちきんの意味は?」の質問を受けましたのでここで紹介します。

土佐の男性の強情さを表現する「いごっそう」に対して、土佐の女性を「ハチキン」と呼んでいます。これは、女性の、はつらつさを、行動、思考、容姿の面で極端に発揮した場合の行動的、かつ魅力的で活発な女性のことを総称する言葉なのです。

『土佐弁での説明』
「はちきん」ちなんぜよ?
「はちきん」いうがは4人の男師を手玉に取るき、普通の女らしさを10金にしちょったら、4人掛ける2金で8金ながやと他にも云われはあるらしゅうて、まぁ、どっちにしたち、めっそ褒められたもんやないがやけんど、10金からゆうたら2金ばぁ女らしさが足りんきハチキン。旦那の替わりはなんぼでもおると言うき、なんちゃあやないことで、まっとうなって泣いたりする人に気を使わせるがぁが嫌やき、負けん気が強いかと思うちょったらすっと「やっちゃるわえ」ち平気な格好をしゆう、男に頼って生きるばぁやったら働くがましと思うちゅう、我慢強いところもあるけんど基本は「いらち」まぁ・・こんな感じの女の人を「高知」では「はちきん」と愛着?をこめて呼ぶがぁです。

元気が良くてサバサバしちょって太陽みたいに笑いもってグサっとくることもサラリと言いはなつけんど本当の優しさを知っちゅうきこそ「はちきん」ながよね
けんど・・まぁ・・・もう少し女らしくせなぁ、普通の男は手におえん気がせんでもない

わかりましたか?これを標準語で説明します。
『標準語の説明』

「はちきん」とは何の事ですか?
「はちきん」というのは4人の男の人を手玉に取るから4人掛ける2金で8金なんですって。他にも云われはあるらしくて普通の女らしさを10金に例えたら10金からすれば2金ほど女らしさが足りないのでハチキンまぁ、どちらにせよあんまり褒められたものではないのですけれど、旦那の替わりはいくらでもいると言うので、負けない気持ちが強いかと思っていた、なんでもない事で、弱くなって泣いたりする人に気を使わせるのが嫌いなので、すぐに「やってやろうじゃない」と平気な素振りをしている。男に頼って生きるくらいなら働いた方がマシだと思っている。我慢強い面もあるけれども基本は短気です。

『ほかのいわれ』
天下の坂本龍馬が土佐のおなごしを見て、よく働き、べっぴんで子育ても上手なことから金10両を褒美に差し上げようと言ったところ、奥ゆかしい土佐のおなごしは「めっそうもない。勿体ない。ほんならせめて男の人に金2両を差し上げて下さい。うちらは8金でええがよ」と男性のシンボルとして金2両をぶら下げたと言う話しをバスガイドもどきではよく話しました(笑)坂本龍馬から授かった金2両を、どこでもかしこでも出して使ったらいかんぜよ。奥さんだけにしちょいてよ。えっ?昔さんざん使ったって?今はオブジェ〜手遅れか〜! 







[1719] 【1729回 2008年を振り返って】 2008-12-29 (Mon)

新しい年まであと2日を残すのみとなりました。「1年を振り返って」とタイトルをつけたものの、さてさて何があったのか記憶が定かではありません。健忘症の様です。とにかく1年が「アッ」という間で合ったことだけは間違いありません。

★1月
1月は雪山登山(スノーシュー)に向けて武奈ケ岳と地獄谷にピッケルトレーニングに個人的に行きました。会社行事としては互礼会もあり忙しい日々を送りました。

★2月
蔵王樹氷ウオークに飛行機を利用し、出かけました。モンスターの合間を縫いながら深い雪の斜面を降りる感動は忘れることができません。団体だからこそ行けるコースです。個人ではなかなか行けないコースでした。4月に定年退職と言うこともあり、12月に私の後任を採用しました。2ケ月経過し本採用となったため女子社員で歓迎会を行い、続いて上司の白内障の手術があり会社と病院の間の業務連絡で多忙でした。

★3月
上司に呼ばれ、定年の時期を10月まで延長するよう言われ承諾しました。やまたびのメンバーで乗鞍岳へ車に分乗して出かけました。仲間の一人が、にごり酒を開栓する際に酒が爆発し顔から浴衣から「酒まみれ」になっていました。
ホームページのウオーク協会「姫のおうち」から独立して「姫のお城」を立ち上げ城主となりました。「築城パーティ」をし、多くの皆様に祝って頂きました。

★4月
イタドリの季節となり「季節限定イタドリ姫」が、むずむずし始めました。今年も仲間の皆様と談山神社からウオークをしながらイタドリをどっさりと収穫しました。うららちゃんちの聡子ちゃんが車で同行してくれ、採ったイタドリを車で運んでくれました。4/19を皮切りにダイトレウオークをスタート致しました。

★5月
連休を利用して「春の立山」に出発しました。参加者の皆様にはトレーニングにも参加して頂き、楽しい旅ができました。ダイトレ2回、水越峠までを楽しく歩きました。

★6月
還暦パーティで還暦該当者は姫、古希の該当者は実ちゃんと了子ちゃん。スナックを借り切り、飲めや歌えやと衣装を身にまとい熱唱しました。今思い出しても吹き出しそうです。ダイトレ3回目金剛山までが終了。あわせて「白山トレーニング」もはじまりました。

★7月
数回に分けて実施した白山トレーニングも最後となり「荷物トレーニングと前祝い」を提案したところ「それは妙案」と言うことになり会社の6階を借用して白山に持参する荷物をリュックに詰めてきてもらい、お互いがチェックをしました。勿論重量も計測し、体力に見合った荷物作りを学びました。個人的ではありますが沢登りも初体験し、未知の世界のとりこになってしまいました。いよいよ白山へ出発。お花畑が素晴らしく、思い出に残る登山が出来ました。登山から戻るとポチの叔母の様態が悪いという連絡をもらい北野病院にお見舞いに駆けつけました。

★8月
入社以来初めての長期休暇を取り8/7〜12日まで念願の北鎌尾根から槍、穂高縦走を成し遂げました。クライマーとしてリーダーのお墨付きをもらいました。荷物を背負いロックガーデンの岩場をゲートロックからブラックフェイス、キャッスルオールなどすべての岩を1日で制覇し、体力トレーニングを終えての参加でした。還暦の記念として素晴らしい山行でした。

★9月
ダイトレは久留野峠から紀見峠まで終了しました。ロイヤルホテルで叙勲のパーティがあり終了後そのままポチと二人で甲斐駒岳と仙丈岳に登山をしました。車の中でドレス(?)から登山着に着替え夜中じゅう走り続けました。

★10月
息子が西宮名塩に引っ越しをし、新居のお披露目をすると言うので零くん一家と出かけました。夏場はしのぎやすく快適ですが冬場は寒かろうと心配しつつ戻ってきました。ダイトレは紀見峠から滝畑ダムまでが終了しました。いよいよ39年間勤め上げた会社の定年を迎えることとなりました。

★11月
定年後も度々、送別会をしてもらい退職したと言う実感がいまいち沸きません。押入の片づけや模様替えなどを時の過ぎゆくまま、気の向くままに楽しんでいました。冬場のテント泊を体験するために姫路方面へでかけ今年最後の沢登りを楽しみました。ダイトレは滝畑ダムから槇尾山でゴールをし、お好み焼きで完歩記念の祝杯を挙げました。


★12月
箕面紅葉ウオーク。今年最後のウオークです。紅葉はまだ早いものの滝までの道は人でごった返していました。ジョンの目に異変が起こり通称「病院嫌いのジョン」も今回ばかりは病院へ。納山会は急中止となりました。第2弾のクライミングトレーニングもスタートしましたがサスケ先生に講師をお願いしてジョンは静養体制に入りました。現在も続行中。次男が広島勤務となったため、ももちゃん達と広島へいきました。サンタの思い出作れに婆様が貢献しました。

暦の上では今年は私の大厄でした。しかし怪我もなく、病気もせずに1年を過ごせたことに安堵しています。


[1718] 【1728回 法事】 2008-12-27 (Sat)

北鎌尾根から穂高縦走の時期に、ポチの叔母が亡くなり今日は瓜破にて法要が営まれることとなりました。この叔母は私たちの仲人で、叔母の息子の仲人を私たちがするという間柄で親戚関係の中でも特に親しくおつきあいをさせていただいていました。享年76歳、まだまだ人生を謳歌できる年ではありましたが癌には勝てず帰らぬ人となったのです。見覚えのある遺影は私の次男の結婚式に撮った写真でやさしく微笑んでくれていました。

瓜破の帰り道にジョンを迎えに行き、夕食を一緒に食べました。今夜はあんこう鍋でジョンは滅多に食べない肝を「目にいいらしい」ときれいに完食しました。デザートは「ぜんざい」です。善哉の残りはタツパーに入れてお持ち帰りということになりました。美味しかったと言う証拠かな?(笑)明日は箕面温泉に湯治に行こうと言うことになり滝道をゆっくりと歩いてリハビリすることにしました。症状に変化はなくつらい日々を送っています。

ジョンを自宅に送り、その足で旅行から戻った零くんの家に予告なしに出かけることにしました。サンタさんのプレゼントをまだ渡していなかったので、車の中でサンタさんに着替えました。「ピ〜ンポ〜ン」「はあい」と零ママがインターホンに出てインターホンカメラに映ったサンタの姿に「キャーッ!零!サンタさんが来たよ〜!」すると零パパが玄関を開けて「いま零は、うんこしているから中に入ってて。不審者と思われるといかんから」しばらくするとお尻を拭かないまま零が「サンタさんが来たのっ?」と玄関先に出て来ました。零ママはチッシュを持って降りてきました。もう大変な騒ぎですぅ。零くんの希望の品は「レゴ基本セット6177;650」です。

無言で(声を出すとバレます)バイバイをしてサンタの服のまま車に乗り込み、帰る途中に検問中のおまわりさん2人に停止命令を受け、職務質問をされました。偶然にも一人のおまわりさんは顔見知りでしたので、サンタのヒゲをはずし「これこれしかじか」と説明すると「久田さんもマメでんなぁ」と笑われてしまいました。自宅近くの交番のおまわりさんにも職務質問されたらやばいとサンタの衣装を脱ぎ無事、帰宅することができました。

来年も、サンタの扮装は、まだ使えそうです。(ブログに零くんの喜ぶ顔を載せました)


[1717] 【1727回 終日研修会】 2008-12-26 (Fri)

「この忙しい時期に終日研修会とは!」とブツブツ言おうと思って参加しましたら、主催者が「この年末のご多忙中にお集まり頂き申し訳ありません」と先手を打ってきました。まあ仕方ないかと10時から4時までビッシリと講義を受け手きました。大阪府警本部と交通安全協会合同による「大阪府高齢者・子供交通安全リーダー研修」に此花から2名推薦を受けての受講です。交通安全推進委員の中で、きっと定年退職し時間をもてあましているから行かせとけってな具合の人選なのでしょう。大阪府警本部交通安全教育班の婦警の皆様による教材を使用してのオリエンテーションがあったり、簡単なテスト(小学4年生版)があったりであっという間に昼食の時間となりました。お弁当も支給です。

午後からは実際の自転車を使っての安全教育の勉強です。その中から抜粋すると自転車の片手運転は違反で傘をさしてはいけませんと教材にありました。ハンドルに傘の金具を固定して走る自転車を見かけますがあれは違反ではないかと言う質問をしました。金具自体は違反ではなく、バランスを崩したり、強風にあおられて転倒したりするので好ましくないと回答をしていました(ならば何で商品としてあるんかなぁ)

自転車は左側から乗り、道路の左側を走り、左側へ降りる。みなさん守られていますよね。自転車のライトの明るさが色々ありますが10メートル先の物が見えればライトとして合格らしいです。反射板はヘッドライトがあたって初めて効果を出すので自転車やバックや身体にも反射板機能の付いたキーホルダーなどをつけて事故に遭わないようにしましょう。

自転車保険もかけていますか?もしもの時の1000万円保証が2千円の保険で掛けることができます。賠償保険と傷害保険の2つがセットになっているので、もしもの時に安心です。これは年齢に関係なく自転車にかける保険ですので家族の誰が乗っても対象となります。TSマークのある自転車屋さんをみつけたら好奇心の目を向けて下さい。そう言う私も自転車保険には未加入です。11月1日からバイクと自転車に封印をして、もっぱら歩いて居ますが、歩いていてもTSマークの付いた自転車にぶつけられるのと保証のない自転車にぶつけられるのとでは大きく変わってきますよね。

指導用の標識も沢山もらってきました。地域で安全教育に使う方がいましたらお貸しいたします。その中に道路交差点を模擬ったゴムのシートが入っていましたが、これはクライミングの時の敷物に使えるなぁ(ちと重いけどね)


[1716] 【1726回 広島に行って来ました】 2008-12-25 (Thu)

12/22から12/24まで広島に転勤した息子のところへ行ってきました。ももちゃんママと、ももちゃんとかーくんと婆ちゃんの大人2人、子供2人旅です(ぽち?留守番ですよ〜)新幹線レールスターの個室の切符が自宅に届けられて「んっ?新幹線の個室ってか?」どんなのかと興味津々。西宮名塩から乗り込むももちゃん達と尼崎で合流し新大阪へ「しんかんせ〜ん。しんかんせ〜ん」と大喜びです。通過する新幹線に興奮していました。

指定の座席は、ほんまの個室。子供達が騒いでも他のお客様に迷惑のかかることはありません。テーブルもついて小さなスタンドもついています。トンネルの度に「夜がきた〜」とスタンドをつけて大はしゃぎです。個室利用は2人では割高ですが大人2人と子供料金で4人分の座席を利用できます。大人でも3人分支払えば1人でも個室を利用できます。どんちゃん酒盛りをするにはもってこいの座席です。一度「子連れ旅行」や「お忍び旅行」にぜひお試めしください。

広島駅では息子が出迎えに来ておりホームで姿を見つけた子供達は「パパー!パパー!」と大声で叫び、ご対面〜。一泊目はホテルにパパもお泊まりできるそうです。レンタカーを借りてホテルに荷物を置き、まずパパの住むマンション見学となりました。男の一人暮らしだから、さぞ汚くしているだろうと覚悟していましたが、案外整理整頓されており、二間続きに台所がついて快適な生活をしている様子に少し安堵致しました。嫁も安心した様です。夕食はちかくで「牡蠣づくし料理」を堪能し日暮れには、平和通りのクリスマスイルミネーションを楽しみました。まるで札幌の雪祭り会場の様な豪華さです。「さむ〜い」のももちゃんの声を合図にホテルに戻りました。さあこれから大きなイベントが待っています。

あらかじめ内緒で大阪からホテルにプレゼントを送り、事情を説明し、宿泊する部屋の目にふれないところに隠してもらっていたのです。ももちゃんの希望はシルバニアのお部屋、かーくんはトーマスセットです。突然、婆ちゃんがお腹をかかえて「アイタタタ、アイタタタ」と腹痛を訴えます。トイレにかけこみ、なかなか出てきません。しばらくすると部屋の外でノックが聞こえました。「誰か来たよ。ももちゃん行ってごらん」とパパの声。パパはカメラ片手にスタンバイOKです(サンタの画像は正月に息子が帰ってからブログに載せますね)真っ赤な衣装に身を包んだサンタさんがかーくんにプレゼントを渡すのですが怖がって受け取り拒否。ももちゃんは「ありがとう」と言って手をだしました。続いてかーくんも思い直して受け取りました。サンタさんは無言でバイバイをして去っていきました。しばらくして腹痛の婆ちゃんがお腹をさすりながらトイレから出てきました。ももちゃんは頬を真っ赤にして興奮し今見たサンタの話しを私にしてくれました「いまサンタさんがきてん。!ももちゃんにシルバニアのおもちゃ持ってきてくれてん。!でもサンタさん、婆ちゃんみたいにパーマかけてたよ〜」ギリギリばれずに済みました。ホッ。

翌日は呉の大和ミュージアムへ。全長26.3メートルもある10分の1の戦艦「大和」は想像を絶するすばらしさでした。男のロマンとでも言いましょうか。大和ミユージアムのシンボルとして平和の大切さと科学技術の素晴らしさを後世に語りかけているようでした。他に人間魚雷、零戦戦闘機などの展示されておりました。昼食は広島名物の「あなご飯」それも、こだわりの店があると言うことで宮島行きの船乗り場前にある「うえの」というお店です。番号札をもらって30分待ちます。となりに空いた店があるから行こうと言っても、広島在住の社員に「ここがうまい」と紹介されたのでとこだわります。そして広島名物の紅葉まんじゅうは「おきな堂」が一番らしいです。

宮島に渡りお詣りをすませ貝殻を拾ったり、まつぼっくりを拾ったり楽しみました。宮島名物の鹿も人を怖がらず、人が鹿を怖がります。ももちゃんは子鹿はかわいいけれど大きな鹿は怖がります。昔は鹿煎餅を売っていましたが「野生に戻すため餌を与えないで」と看板があり環境の変化を感じました。乗船場の待合室の中まで鹿が入ってきて大人の観光客を喜ばせていましたが、待合室に居合わせた大勢の子供達は泣き叫んでいました。

夜は閉鎖になった広島市民球場を息子の会社が借り切り社員達で野球をするイベントがあり参加しました。ボードには4番に息子の名前が書いてありました。一瞬ですがイチローの母親になった気分でした(笑)野球を途中で抜けて食事に行き、またまた牡蠣づくし。この帰りにタクシーにペイントでクリスマスの絵を描き、運転席にサンタの格好をしたドライバーが客待ちをしていました。「あっ昨日の夜のサンタさんや〜」とももちゃんの声に大人達は大爆笑。2晩目はパパは翌日が会社のためマンションに帰りました。27日にはまた戻ってくるため朗らかにバイバイ〜。

宮島で自宅送りの牡蠣を買い24日の夕食はジョンを迎え、牡蠣バター焼きと牡蠣鍋です。帰りの日は市内を走るチンチン電車に広島駅まで乗りました。帰りもレールスターの個室です。快適な旅を終えることができました。(サンタの画像以外をブログに載せました)

零くんのサンタさんのプレゼントは28日に旅行から戻ったら渡そうと思っています。希望のプレゼントは「レゴ基本セット6177;650」です。


[1715] 【1725回 知ったかぶりのおっさん!また今日もいてるわ〜!】 2008-12-21 (Sun)

第二弾である蓬莱峡へ、クライミングの実技講習に出かけました。雨かも知れないといいながら熱心に参加者8名でトレーニング開始です。ところが後ろの仲間がなかなか到着しません。「こんなとこで迷ったりしないよねぇ」と言いながら迷っていたのです。後ろも振り向かず、どんどこどんどこ行った先発隊は反省が必要です(サスケ先生はロープを張るために先を急いだと思いますが先頭軍団は後ろの確認が足りませんでしたよ)遅れついでの収穫はブルートレインが貸別荘の様になっていることがわかりました。うららちゃんが名刺を頂いてくれたのでクライミングを2昼夜楽しむことができます。夏の夜のお楽しみということで乞うご期待!

岩場は銀座通りの様に混雑をしており、右の岩場では奈良山岳会のみなさんがアイゼントレーニング中。左の岩場では「シャープ」の会社の山岳会のみなさんがレスキューのトレーニング中でした。あのへんなおじさんも、またまたいます。昨日と同じ服なのでブルーシートに住み着いているのかも知れません。不気味です。ほんま。

サスケ先生が躊躇することなく混雑した岩場を縫っていままでロープを垂らしたことのない場所で懸垂下降のトレーニングを開始しました。ここを終了した人は小屏風岩の上昇下降です。今日は小屏風も懸垂下降で降ります。不気味なおっさんの連れが上からリュックを背負い降りてきました。ねこちゃんが懸垂下降中にもかかわらず「ここは通路だからブツブツ・・・」とねこちゃんの懸垂の邪魔をしました。ムカッときましたが、だいぶ年寄りで私より先に死にそうなのでジッとがまんをしました。何も懸垂の邪魔をしないでもいいのではありませんか!

昼前にポツポツと小雨が降り出し懸垂下降用のロープの撤収の許可をうららちゃん中継でサスケ先生に尋ねてもらいました。「撤収して降りて来られるなら撤収してもかまわない」との返事でしたのでロープを雨に濡らさぬうちに支点を解除して、再び木の幹にロープを巻き懸垂下降で降りてロープを下から引っ張りました。万一抜けないときは奈良の山岳会のイケメンの青年にSOSをして降りてきましたが大丈夫、うまくいきました。

小屏風は雨で滑りやすくなっていましたので中断して撤収、荷物の片づけにはいりました。しばらくすると雨がやみましたので昼食をとることにしました。するとそのうっとしい爺が私たちの目の前に木の枝を利用してブルーシートを張り始めました。「おっさん何すんの?」と聞くと、雨よけシートを作るといいます。誰も頼んでないし、荷物を片づけるのに邪魔やし、それにおっさん達のブルーシート景観を損なうねんて〜(誰かどこかに訴えてほしいです)ねこちゃんが皮肉をこめて「私たちのためにしてくれてんの?」とニャンニャン吠えていたので、うっとおしく思ったのは私だけではないと思います。

ザレ場付近まで帰り、記念撮影をしバス停まで移動、バスが来るまでの時間を有効利用してミーティングをしました。一人一人感想を述べ「1回目よりも2回目の方が恐怖感が増した」「家でエイト結び練習したけど本番ではなかなか出来ない」「ハーネスを買いました」「久しぶりに家事から解放されました」などの意見が出て「立食ならぬ立席」の会議でしたが、みんな満足感でいっぱいでした。サスケ先生が「とにかく回数をこなして慣れる。ロープの取り扱いが早く出来るように練習をしてください」と訓辞を述べられたところでバスがきました。おつかれさまでした〜。珍しいことに海老江駅にポチが迎えのリムジン(但し軽自動車)を横付けしてくれていました。だから雨なんだ!

22日から24日まで広島行きのため書き込みお休みさせて頂きます。


[1714] 【1725回 知ったかぶりのおっさん!黙っとれ!】 2008-12-20 (Sat)

蓬莱峡へ、クライミングの実技講習に出かけました。ジョンはリハビリのつもりで同行します。手にはビデオを持参していますが、きっとビデオだけに収まらず岩を這うだろうと予想をしていましたが案の定でした。戻って風邪を引いた様子です。

蓬莱峡に到着したらいつもリュックを置くスペースにブルーシートで囲いがしてあります。中央にはたき火の煙がのぼっていました。変なおじさんがひとりおり、とりあえず朝の挨拶をして準備にとりかかります。視線はずーっと私たちの方を見ています。「サイフだけはポケットにしまうかリュックの底にいれてね」と小声でみんなに伝達。

やはり近寄ってきて、親しげに話しかけてきました。「ミーティングをします。集まって〜」と言っても、じゅんこちゃんがつかまっています。「じゅんこちゃんミーティング!」と声を荒げて言うと、やっと解放されました。サスケ先生による本日のトレーニングのプログラムを発表し、さあ岩場に移動しようとしたとき、変なおじさんが名刺を持ってきて「ワシはクライミング歴10年でクライミングとはああしてこうして」と能書きを垂れはじめました。ジョンが体よくあしらっていましたが、おせっかいなおじさんです。さもベテラン風をふかしたかと思うと、ビレイもせずあっちへ行ったりこっちへ来たりで邪魔だと言ったら邪魔!おじさんのレベルではなく、わがやまたび倶楽部にはベテランの指導者が2人もいるんじゃ黙っとれ〜!

そんな腹立たしい朝ではありましたが受講生全員、熱心に上昇下降を繰り返し、懸垂下降も出来ました。午後からは小屏風も難なくクリアしました。岩場の上昇下降は平凡で単純な行動の様に思いますがこれが岩登りの基本です。一回でも多く上昇下降することが上達への近道です。座学の時に、お渡しした短いロープはテレビを見ながら「エイトノット結び」をマスターしてください。「さぁトップロープで登るよ。エイト結びして」と言われます。そのためには早く正確に美しいエイト結びが要求されます。(エートどうやったかなじゃなくエイトです)

岩登りの足の運びは靴の置き方で決まります。靴は横にしない。岩に向かってまっすぐに置いて登る方がスムーズに登れます。ジョンに横に足を置いた場合はどうなるか見本を見せてもらった人は納得したと思いますが横に置くと滑って落ちてしまいます。限りなく岩に対してまっすぐに置いてください。横でもエエのんと違います。また後日、みなさんの前でジョンとサスケ先生に見本の登り方を披露してもらい正しく覚えて下さい。「私流」で教えたり、覚えたりすると後で修正して頂かなくてはなりません。最初にきちんと正しいクライミング方法をマスターするとあとが楽かと思います。

でもみなさん上手ですよね。私の1年前を振り返ると、とても最初から岩場にとりつくことができませんでした。まず恐怖心との闘いから始まりました。アルプスを縦走したりすると岩場に出くわします。「ここは避けて通過」ができない場面に遭遇した時、クライミングの威力を発揮するのです。また楽しくトレーニングしましょうね。

今日は荷物が重すぎたのと(13キロ)初めてのリュックだつたので腰を痛めて仕舞いました。明日もあるので早めにおやすねなさいします。サスケ先生のリュックはロープが入っているので13キロなんて重さではないと思います。いつも私たちの共同装備を持って頂いているリーダーやサスケ先生に感謝せずにはいられません。


[1713] 【1724回 真夜中の模様替え】 2008-12-19 (Fri)

急に思い立ってと言うか、永年の課題と言うか「食器棚の整理」にとりかかりました。夕方、ポチの帰りを待ちながら少しづつするつもりでしたが、エスカレートしてしまい食器棚の食器を全部出して、熱湯で棚を拭き、ここ2〜3年使用していない食器は全部、捨てることにしました。この頃の結婚式の引き出物は自分で選択できますが昔は結婚式の引き出物と言えばコーヒーカップや湯飲みセットが多かったです。

私的には将来、備前焼だけの食器に統一したいと夢を持っています。いまは湯飲みと、おチョコと徳利ぐらいしか収集できていませんが旅先で見つけたら揃えてみたいと思っています。同じお茶漬けでも、備前焼の茶碗で食べた方が美味しく感じませんか?ポチが帰宅して「何やこれは?」と部屋に広がった食器類を見て目をまあるくしています。「勿体ないなぁ。えっ?それも捨てるんか?」といちいちうるさいので「欲しいんやったらベットの下にでも敷いたら?」と言うとサッサと3階へ上がってしまいました。(よかった〜)

会社でも5S運動とやらで「整理整頓」などと全社を挙げて取り組んでいますが整理整頓は毎日個人が気に掛けてするものであって会社から命令されてするものではないと言うのが私の持論でした。「整理整頓の上手な人は捨て上手」これも私の会社人生の持論でした。

さあこれで、ポチと言う邪魔者を退出させたし、ゆっくりと片づけようと座り込み、拭いたり、捨てたり、移動したりと楽しい時間になりました。「昼間のうちにしとけばいいのに」と思うかも知れませんが、思い立ったらすぐやりたいのです。明日に廻せないのです。ゴミの分別表をみたら普通ゴミに出して良いと書いています。丁度翌日は普通ゴミの日とくりゃあ気合いも入りました。引っ越しの時と同じように新聞紙包みゴミ袋の上には「食器類キケン」と書いておきました。これは収集の方への配慮です。

45gゴミ袋に7個ありました。終わって時計を見たら午前3時を回っています。寝なくっちゃあとベツトに入りますが興奮状態で今度は部屋の模様替えをしたくなりました。さすがに時間も遅く隣の住人を起こしては(イビキの音よりましだけどね)と思い、部屋の模様替えは翌日に繰り越しました。近所の方達がゴミの大さに驚いていましたが「退職して、ひまだから片づけたの」と説明をしておきました。

昼前にやっと片づき、都島にあるトイザラスというおもちゃ屋にクリスマスプレゼントを買いに行きました。すでに孫達のリクエストは聞いており、迷うことなく買い物を済ませることができました。ももちゃんとかずくんのプレゼントは広島のホテル宛に送りました。あっそうそう婆様も12/22から12/24まで広島に行って来ます。ももちゃんパパが転勤していて広島を訪ねることにしたのです。ホテルでクリスマスをするためにプレゼントは誰にも内緒でホテルで受け取ってもらおうと思った次第です。

義兄の一刀水の孫達が小さい頃サンタに化してプレゼントを配達したことを思い出しました。翌年は子供達が「なぁなぁ今のサンタさん、みっちゃんのおばちゃんに似てたよね。だつて靴下の色がみっちゃんのおばちゃんと一緒やったで〜」と見つかりかけて大笑いしたことがありました。大人にとって大きな出費でも子供達は楽しみに待っているのですね。


[1712] 【1723回 婆様は大忙し】 2008-12-18 (Thu)

うららちゃんほどではありませんが、今日は私も「婆業」に走りました。今日はかーくんの保育園の用事でももちゃんとお留守番を頼まれました。ももちゃんは2日前から、扁桃腺の熱が出て幼稚園をお休みしているそうです。朝8時自宅を車で出て、蓬莱峡へクライミングに行く道のまだ先を山のてっぺんまで走ります。ピンポーン!お熱のあるはずの、ももちゃんも、カークンも靴を履くのも、もどかしいのか裸足で出迎えてくれました。

「では行ってきます。お願いします」ということで、婆様とももちゃんとお留守番です。「ばあちゃんグルリンパッを見せてあげようか?」と言うことになり2階の子供部屋の鉄棒にまたがります。「危ないよ」という間もないくらいに鉄棒に足をかけて回転して見せてくれました。拍手をすると次から次から技を披露してくれます。お熱がある身なので何とか階下へ連れ戻し、ブロック遊び、ままごと、野球などをしてママとかーくんの帰りを待ちました。

昼食をご馳走になり帰ってきましたが、かーくんも、どうも風邪気味の様で下痢と嘔吐があるらしいですがママが看護師さんなので心配するみともなく、さっさと引き上げてきました(お役に立たずでごめんね。婆様がいると、ももちゃんが遊びに夢中になるので心を鬼にして戻りました)風邪がひどくならなければいいのですが・・・

名塩南台は大阪よりも5℃は温度差があり随分と寒く感じました。今年は初めての越冬ですが来年は慣れてたくましくなることでしょう。

「ももちゃんのクルリンパッはブログに載せました」


[1711] 【1722回 病院までのウオーク】 2008-12-17 (Wed)

時速5.7キロメートル、歩行距離12キロ。これは都島にある病院までのウオークの記録です。今日はヨドバシカメラ経由のため12/12の9キロを大幅に距離を延ばして歩きました。師匠の左目の感覚が悪いため細引きのシュリンゲで引っ張りながらあるきます(本日のブログ参照)午後3時30分の診察予約ではありますが予約がズレて診察室に入ったのは5時を過ぎていました。

先生「どうですか」
ジョン「変化ありません。と言うより悪くなっています」
先生「う〜ん。ステロイド効果なしか〜どーれ目を見せて」
先生「今日からステロイドの飲み薬を出すことにします」
付添「先生、素人の質問をしてもいいですか」
先生「どうぞ何なりと」
付添「色々な検査も異常なしで目にのみ症状が出ています。眼科に再診し衝撃を与えるとか目玉を出して洗うとか方法はありませんか」
先生「これは眼科とは関係ありません!!」
付添「では病名は何ですか」
先生「多発性脳神経炎です。完治には時間はかかります」

と言うことでステロイドの投薬とビタミン剤、胃薬の処方箋をもらい地下鉄に乗り自宅に帰ったら午後7時をとうに過ぎていました。いつもは遅い帰宅のポチが今日に限って早く帰宅していました。ワンワンと吠えるかと思いきや「大変やったなぁ」とねぎらいの言葉をかけてくれました。治療方法に疑問があれば「セカンドピニオン」を利用して別の病院にかかる方法も有ることを説明して師匠とは別れました。 

★★セカンドオピニオンとは現在の自分の病状や治療方針について、他の医師の意見を求めることをいいます。患者が今かかっている病院以外の医師の意見を求められるように、健保組合も医師会もこの制度を認めています。また要求があればデーターの提供にも応じることになっている制度です。★★

あせりは禁物。上を見ないでもっと状態の悪い人もいます。家族の皆さんも、本人があせりを感じて気がイライラしてきています。普段の何気ない会話でも、気にさわる事があります。どうぞ自分が病にかかった気持ちでやさしく接してあげてください。師匠は病気には非常に打たれ弱いです。ポチの様にいつも病と仲良くしている人は少々のことでは驚きませんが元気な人ほどダメージがきついです。そこのところをよろしく!


[1710] 【1721回 ノーレジ袋、マイバック運動】 2008-12-16 (Tue)

15日、我が町の「まちづくりエコ会議」に出席しました。環境汚染を区民一人一人が認識しようと言う内容でした。この会議の会長は、わがやまたび倶楽部の茂ちゃんです。廃食用油、牛乳パック、アルミ缶プルトップ、ペットポトルキャップなどを回収しよう、再利用しようと提案は非常に前向きでありますがエコステーション(回収設置場所)がまだ決まらない。集めてもどこに持参して良いかわからない、区民への呼びかけにチラシやポスターと、いかにもお役所仕事で参加者にすべてをゆだねているように感じました。(役所からの押しつけではなく区民の自主性を期待しているのも理解できますが)

エコライフ啓発活動にチィッシュペーパーやエコバックの配布はどうかと言うがエコバックは既に各家庭に数個はあるのではないでしょうか。過日、大根を持参してくれた袋には「尼崎市指定ゴミ袋」と印刷しているものがあり、大阪市は少し取り組み対策が遅れているのではないかと感じていました。何か意見はないかと尋ねられたので「商店会に協力を求めるのと合わせて此花区で営業するスーパーなどの各企業への呼びかけが必要ではないか、エコパックよりもゴミ袋に趣旨を印刷して配布した方が効果は倍増するのでは」と述べて帰りました。

環境にやさしい取り組み
●誰もいない部屋の電気は消す
●誰も見ていないテレビは消す
●選択や打ち水には風呂の残り湯などを利用する
●外出するときや寝るときはコンセントを抜く

昔、公設市場に買い物に行くと新聞紙に包んで商品をもらっていませんでしたか。豆腐は容器を持参して買っていたと記憶しています。お姑さんは決まった時間に買い物かごをさげ公設市場で肉はこの店、野菜はここ、魚はこの店と新米の嫁の私に説明をしながら買い物をしていたものです。現在のように何でもかんでもプラスティックの容器で包装したらゴミが増えるのは当たり前の事だと思います。そう言えば「買い物かご」って見たことありますか?母の日に新しい買い物かごとエプロンを姑にプレゼントしたことを懐かしく思い出しましたよ。

勿論、区民ひとりひとりの意識付けも大切ですがスーパーなどの企業も巻き込んで活動をした方が効率よくいきます。そして役所はすでに取り組んで成功している地域との情報交換をもっと密にすべきだと思いながら、レジ袋を重宝に使っている自分がいることを、少し反省しました。今日からマイバックにしま〜す。


[1709] 【1720回 温泉治療そのU】 2008-12-14 (Sun)

午前11時、大きなおにぎりを10個作り、お手製の大根漬け(寛子ちゃん、うまく浸かったよ〜)とお茶をリュックに入れて桜島渡船場にむけて歩き始めました。昨日六甲おとめ塚温泉の効能があったような気分だと言うことなので今日もまた近場の温泉治療に出かけることにしました。

サンセットウオークで見覚えのあるコースを反対に歩きます。陽気もよく少し歩くと汗ばんできそうです。此花漁港横を通過すると「フカヒレ」を沢山干していました。ここは新鮮で安いフグ料理を食べさせてくれる有名なお店があるのです。伝法水門を通り酉島車庫あたりから堤防沿い歩きをやめ産土神社に向けて歩きます。病人の顔色もよく時速5.5キロで歩くことにしました。

ユニバーサルスタジオジャパンまで来ると「腹へった〜!!」と二頭ともがワンワン吠えるので日だまりを見つけて昼食タイムにしました。途中のスーパーでおかずを買い足しましたので豪華(?)な昼食です。コレステロールに配慮して、お豆腐、ジャコ、鰯の煮付けなどで美味しく頂きました。10個のおむすびは姫が2個食べてあとは二頭で二等分した様子です。(食欲戻りましたね!)

桜島渡船場にはUSJで働く外人さんが多く川岸から自転車で降りた仲間達と母国語で挨拶を交わしています。天保山公園の桜の木でジョンが確保の練習の成果を見てやると言い出して周囲の目を気にしながら、しばしクライミング講座〜。海遊館ではペンギンが表をヨチヨチと散歩をしていて見とれていると「子供じゃあるまいし行くど〜!」と首を捕まれました。私はお猿さんの動きやペンギンの動きを見ると、ついつい時間を忘れてしまうのです。

海遊館を出て港区港晴町にある「天然温泉テルメ竜宮」に到着です。ここは塩化物ナトリウム強塩温泉で神経痛、筋肉痛、運動麻痺などに効くと書いてありました。値段は410円。従って、石けん、シャンプーは自前です。飲用もできるそうで慢性消化器病、慢性便秘などに効くそうです。そしてそしてこのあたりで有名な焼き鳥の店で「病名のない病気への決着」を祈願する手はずにしていたのですが5時の開店までの2時間を待てず、今日は諦めて八幡屋公園を経由して帰りは地下鉄を利用し戻ってきました。

焼き鳥ウオークはあらためて行くことにしました。月曜日が定休日ですのでそれ以外の日に、ご参加ご希望の方はこのゆびと〜ま〜れ〜。

日帰り入浴でしたので、ゆっくりできなかったかも知れませんがベットに伏していると気が参ってしまいます。今日は12キロを歩いていますが、ゆっくりと歩きましたので病人の身体への負担は、あまりないかと思います。

★ジョンの元気になりつつある写真をブログに載せました。みて下さいね。


[1708] 【1719回 温泉治療そのT】 2008-12-14 (Sun)

13日の土曜日はポチとジョンの3人で「温泉に行こう」と言うことになりました。(病を温泉療法に頼るかぁ?)行き先は「六甲おとめ塚温泉」効能は神経痛、筋肉痛、関節痛、糖尿病など沢山の効能を掲げています。「目に効く温泉」は東北地方にありますが今日は近場で済ますことにしました。入湯料380円。れっきとした源泉で湯の温度は41.1℃、掛け流し湯であります。

「ゆっくり入ろうな」そう声をかけて、入り口ののれんを確認して男湯と女湯に別れて入ります。中は2階、3階、露天、サウナと別れており、ゆったりと入ることができます。少しぬるめの湯なので長時間、湯船に浸かっていられます。この場所は六甲「保塁岩」へロッククライミングに行った帰りに見つけたお気に入りの温泉です。380円と言う価格ですから石けん、シャンプーなどは置いていません。私は日帰り温泉の料金が600円を下回るときは石けんなどの設備は無いと自分の中の判断にしています。

目に効果があったのかどうかは不明ですが、ストレスを洗い流すことは出来たのではないかと思っています。登山の帰りに立ち寄る温泉も、山の疲れを取り除いてくれる効果があると思います。みなさまもぜひ380円で楽しめる近場の温泉巡りをしてみてはいかがでしょうか。主婦にとって年末年始は忙しくなってきます。今の内に休養してパワーを蓄えておいて下さいね。


[1707] 【1718回 点滴ウオーク】 2008-12-12 (Fri)

ステロイド治療第3日目の今日はポカポカと陽気もよく、「歩いて行こう」と言うことになり阪神淀川駅を午前11時出発し都島までの約9キロの堤防沿いを2時間かけて歩きました。2号線をくぐり阪急電車、JR東海道線、地下鉄などの電車の往来を眺めながら、ゆっくりと歩きます。平衡感覚が正常ではないために細引きのシュリンゲで一歩前(左側)を歩くと楽らしいです。(三歩さがって師の影踏まずではなく、今日は前を歩きます。)

平日につきテニスコートも野球場も誰もいません。時折、犬の散歩をする人に出会うくらいです。ウオークで見覚えのある景色ではありますが、のんびりと味わって歩くのは初めてで、なかなかいいものです。電車の音で、時々後ろを振り返りながら目指すは「毛馬閘門」。更に先に進むと病院到着となるのです。

毛馬閘門は水位の違う淀川と大川の水位を合わせて通船の便をはかります。ここには私が勤めていた会社の巻き上げ機が納入されており、それらしい機械を確認することができました。排水機場は大川の水が増えたときにポンプアップして淀川へ排水する役割を持っています。

都島区側の左岸には桜ノ宮公園があり桜の名所となっていて今は季節はずれではありますが硬い蕾が春を待って居るように感じました。毛馬の水門・閘門に蕪村生誕の地の、りっぱな碑が建っており、碑面には

   「春風や 堤長うして 家遠し」 
                  蕪村
と刻まれていました。蕪村は1716生まれ、姓は「谷口」と伝えられ、後に「与謝」と改めたそうです。この句は大阪から薮入りで、毛馬へ帰る若い娘の気持ちになって歌ったものであり、蕪村の郷愁を歌ったものであるとされています。

病院到着13時。昼食をとり、点滴に充分間に合い、往路は、無理をせずに、地下鉄で戻りました。それにしても日暮れが早くアッという間の一日でした。



  


[1706] 【1717回 気晴らしのステロイドウオーク】 2008-12-11 (Thu)

「なんじゃ?」タイトルを見て多分そう言うでしょう。今日はステロイド治療に入ってから2日目で、よほど気分が良いのか「大阪城に立ち寄って帰ろうか?」と言います。そう言えば11月24日の箕面から、ろくに歩いていないのですものストレスもたまっているでしょうと言うことで治療の帰り道に大阪城に立ち寄りました。平日だと言うのに人が多く、合わせて修学旅行生も多かったです。「青森高校」「一戸高校」「種子島高校」の生徒のみなさんが訪れていた様です。

お堀の周りは紅葉も終わり、冬支度に入る気配が感じられます。ブルーシート村では「人生相談」のテントが張られ居住する人たちで相談のしあいっこをしているのでしょうか?(笑)日本人ではない人も多く訪れ、観光バスも多く駐車されており、大阪城の人気があるのを再確認しました。

「あかん足が重いわ〜。しんどいわ〜」とつぶやきながら階段を登り、2時間ほどですがウオークしてきました。お堀の石塀に手を当てクライミングの格好をしていましたが、まだまだ時間がかかりそうです。いかなる治療時も「あせり」は毒となり、気分転換が必要です。桜並木道には「ジュウガツザクラ」が可憐な花をさかせており「今12月やのに『ジュウニガツザクラ』とちゃうんかいなぁ」と冗談を言いながら戻ってきました。

点滴の時間は約1時間かかるため、廊下の椅子で、ミニカラビナ(百円均一)とミニシュリンゲを持参し「支点へのスリングのかけ方」を復習したり、文庫本「槍ヶ岳 白い凶器」を読んだりして時間をつぶしています。

●大阪城の「ジュウガツザクラ」はブログに載せました。


[1705] 【1716回 大手メーカー不況の波】 2008-12-10 (Wed)

春闘の基準は大手メーカーのベースアップを参考にしながら自社の組合との交渉に入るのが常であります。自動車業界などの大手が「人員削減」と言う手段を取り始めました。これが将来において優秀な人材を失い、立ち上がれなくなると言うことを知っているのでしょうか。

●ソニーは非正規社員8000人削減
●東芝は期間従業員760人削減
●日立は契約社員250人削減
●沖電気は管理職300人削減
●トヨタは非正社員6200人削減
●日産は非正社員1500人を削減 

企業によって削減の人数は色々ですが、人数が問題ではありません。すべて「パート」と呼ばれる非正社員、派遣社員、契約社員などが対象なのです。年末までに会社の寮を出て行けと言われ途方にくれている人たちがテレビで会社の非情さを訴えていました。人員削減と言う一番安易な方法を取るのではなく「役員報酬カット」「資産売却」「接待費ゼロ」などの手段を取り、何とか今を乗り切れないのでしょうか?繁忙期には、パート社員で会社を切り盛りしてもらったのではないでしょうか?

正社員の中にもストレスによる精神障害(うつ病)が多くなっているそうです。「もうダメや」と思わず「まだいける」と思うことが大事です。熱意があり優秀な社員が、思い通りに行かなかった時、うつ病を引き起こします。「がんばってね」や「温泉にでも行ってみたら?」は禁句です。うつ状態の時に温泉に行こうと言う気になれますか?精神障害はいまは労災適用になっています。周りの人が、いちはやく見つけてドクターにかかることを勧めてあげてください。


[1704] 【1715回 今日はおとなしく勉強しました】 2008-12-09 (Tue)

クライミングから戻った7日の夕方、以前勤めていた会社の得意先の方に沢山の大根と里芋をもらいました。正月用の黒豆も入っています。丹波篠山に畑を借りていて収穫しての帰りだそうです。沢山の大根は「寛子ちゃん流漬け物」にしてできあがりを待つことにしました。漬け物石は「ダンベル」です。(笑)大根の葉は油で炒めて頂きました。おみそ汁にもいれました。皮はきんぴらにしようと思います。

外は雨模様なので年賀状を書くのに最適の日和なのですが、いまいち気が乗りません。クライミングの教科書を出して、先日サスケ先生に教わった「支点へのスリングのかけ方」を復習しました。20日にきっと「この間教えてあるやろ、やってごらん」と言われるはずです。忘れていたらまた教えて下さいね。(多分出来ないと思う〜)

そして明日の師匠の検査の、聞き慣れない「カドリニウム造影MRI」とは何ぞやを調べました。師匠の不安を少しでも緩和できるのではないかと思っています(反対に不安がらせたりして〜)大丈夫〜画面が見づらいから、この頃パソコン開いてないから。

●造影検査とは
血管(静脈)に造影剤(レントゲンの写りを良くする薬)を注射し検査を行ないます。造影剤を使用することにより、検査する臓器や血管を、より詳しく調べることができ診断に大変役立ちます。また、検査部位によっては造影剤を使用しないと極めて重大な病気が見逃されてしまう可能性が高まります。まさに師匠はこれだと思います。変な話しですが、どうぞ明日の検査で異常が見つかりますようにと祈らずにはいられません。(これで異常がないと言われてもハイそうですかとは絶対帰らないでおこうと思います)

●造影剤の副作用・発生頻度について
検査に際してはその時点での症状や以前にかかった病気・家族の方がかかった病気などに注意しながら安全に検査が行われるよう努めておりますが、検査中あるいは検査後(1時間から数日後)しばらくしてから副作用症状が起きることがあります。

●軽い副作用として「吐き気・嘔吐・頭痛・めまい・じん麻疹・発疹・かゆみ」などがあるそうです。本人が検査後症状を訴えたら「副作用らしいよ」と説明してあげることができます。よっしゃ!これで治療方法が見つかりそう!


[1703] 【1714回 病名のない病気】 2008-12-08 (Mon)

「題名のない音楽会」と言うのは聞いたことがありますが「病名のない病気」これが師匠の病名です。11月24日の箕面紅葉狩りトレッキングでくっきりスッキリした空を見て「空が霞む」と冗談に思える様な発言があり気に掛かりました。

●11月24日(月曜)目が霞む
●11月28日(金曜)右側を見ると違和感がある
●11月29日(土曜)朝、正面を見るとチカチカ
           夕方には物が二重に見えました。
●11月30日(日曜)姫との約束をキャンセルし静養
●12月 1日(月曜)脳神経科(小宮山部長)を受診
●12月 1日(月曜)その日のうちに眼科診察受診
●12月 4日(木曜)眼科権威(横山副部長)受診
●12月 8日(月曜)脳のMRI検査
●12月 8日(月曜)MRI持参で脳神経科受診
●12月 8日(月曜)神経内科(氷室先生)受診
           再度の眼底検査用採血検査
           髄液検査(12/10異常なし判明)
●12月10日(水曜)カドリニウム造影MRI検査
           (12/10異常なし判明)午後診察(氷室先生)
●12月10日(水曜)ステロイド点滴治療開始(第1日目)
●12月11日(木曜)ステロイド点滴治療(第2日目)
●12月12日(金曜)ステロイド点滴治療(第3日目)
●12月17日(水曜)神経内科診察(氷室先生)
        本日より28日間投薬によるステロイド治療(ビタミン剤、胃薬含む)にはいる。病名は「多発性脳神経炎」
●平成21年1月5日(月曜)神経内科診察(氷室先生)

以上が師匠のこれまでの経過です。もし同じ症状で悩んでいる人の参考になればと詳細を書き出しました。12月8日(月曜)の診察には私も、付き添いの「年の離れた妹」として脳神経科、神経内科とも一緒に医師の話を聞きました。MRIを見ながら消去法を用いて「脳腫瘍」「脳血栓」「糖尿」などが消去されて行き、疑わしい病名が見あたりません。脳神経科の医師は院内の電話で「今から患者を送るからよろしく頼む」と脳神経内科へ行くように勧めます。決してたらい回しでは無いこと、可能性のある事は徹底して調べ、他の医師にも自分の判断が間違いないか調べてもらうのだといいます。時はすでに12時前。廊下にはあふれるほどの患者がうごめいています。ポケットベルを持たされて、それが鳴ると診察室の前で再び待つシステムなのです。

神経内科の先生も、随分と時間をかけて診察をしてくれました。「う〜ん。症状があるのに病名がないなぁ」左目の眼球麻痺があるため眼底検査用の採血をするといいます。「先生、採血は1週間前にしました」と言うと「あれは糖尿病などの総合的な検査のための採血で今日のは眼底専用の検査項目です」と説明してくれました。なるほど納得です。

髄液検査のために処置室に連れていかれました。「年の離れて妹さんは外で待っていてください」髄液検査終了後は1時間安静とのこと。すべてが終わって食事をしたのが3時30分。どこが悪いかわからないので、本人も、付き添い人もストレスが増すばかりです。「治ったらアイゼントレーニングしような」「治ったら山行こうな」「治ったら、どこでも連れてったるわな」この言葉の裏に本人の不安の大きさを測り知ることができました。

脳神経科の医師が「これが落ち着いたらコレストロール、中性脂肪の治療をしなさいよと。。。。何とコレストロール値「311」(基準値130〜219)、中性脂肪値「394」(基準値50〜149)だったのです。これを機会に治療しようね。


[1702] 【1713回 きくちゃんクライミングデビュー】 2008-12-07 (Sun)

岩登り実技「蓬莱峡」は本日第1グループとして12月7日(日)に実施し、2名の方がクライマーとしてのデビョーを飾りました。阪急宝塚駅バス停は、9時10分のバスを待つ人たちがあふれるほどになりました。リュックにピッケルを突き刺して「ひょっとして皆様座頭谷で降車?」と案じていると20人ほどが座頭谷で降車しました。ここは知る人ぞ知るロッククライミングのゲレンデです。しばらく歩いて堰堤に出ると10張はあろうテントが所狭しと場所取りをしていました。斜面には既にアイゼンを履き、ピッケルで登っている人、シートの上での転倒訓練とそれぞれが冬山に向けて猛特訓中の様子です。

足は自然に早まり、目的地でロープが垂らせるかどうか心配になってきました。蓬莱峡に到着すると案の定、私たちの目的場所にはロープが3本既に張られていました。本日の講師のサスケ先生は臆することなくロープとロープの間を縫いながら我々のためのロープを設定して下さいました(師匠ならあの空間に張ることをためらうかも知れませんね)

「さあ始めようか」と言う先生の言葉を合図にプルージックでの上昇下降のトレーニングに入りました。その間、サスケ先生は次なる場所を見つけて懸垂下降の用意をしています。遠慮をしててはロープを張り損ねてしまいます。岩場に恐怖を感じないように上昇下降を繰り返します。これが後々大事になってきますので、何度も何度も繰り返します。生まれつきお転婆であったであろう靖ちゃんは懸垂下降のトレーニングに移りました。(2回目の体験)きくちゃんは高さに慣れてもらうため上昇下降(初参加)をくりかえします。

「せんせー12時ですよ〜っ!」お腹が空いたのか淳子ちゃんが下から叫びます。「きくちゃんが懸垂下降してから飯や〜」「ふぁ〜い」食事にありつけたのは1時を過ぎていたと思います。隣でトレーニングしていた人たちは奈良の山岳会の人たちでマナーも普通。混み合った隙間を上手に利用できました。昼食もそこそこにサスケ先生が「午後からは小屏風岩に挑戦しよう」とロープの回収に移動しました。先生一人に回収に行かすわけはいかんと弟子の姫は小川を渡りかけたその時です。「あっ!」誰も見ていないことを確認して素早く水の中から立ち上がりました。強風が吹いてもいいように防水加工のジョギングスーツを来ていたのでビショビショにはならなかったのが幸い(誰も見てなかったことも幸い)

小屏風で奇跡が起きました。先生が「きくちゃ〜ん!あかん時はあかんて叫びや〜ロアダウンで降ろしたるからな〜!」登れるかどうか心配しながら、きくちゃんが挑戦します。「右足もうちょっと上〜、ちゃうちゃう、うんそこそこ」「いいよ〜手の置き方も足運びも上手よ〜」みんなで声援しながら、とうとう先生の待つトップまで登りきりました。大変失礼ながら、この年になってこんな感動は滅多にないのではと思います。(自分自身の体験からの想像)達成した喜び、これがクライミングの楽しさでクライミングに夢中になるスタートラインではないかと思います。

帰りのバスの時間を決めてトレーニングしていましたので要領よく終了し、バス乗り場に走りました。そして、そして、よく見ると12月のこの時期には走行しない時間であることが発覚し、諦めて30分後のバスを待つべくバス停に再び荷物を広げて片づけに入りましたら、何と目の前に阪急バスが停まりました。「ラッキー!」乗車できると広げた荷物をあわててリュックに詰め、入り口に行くと「貸切りで一般のお客様は、乗車できません」との事。若いドライバーは規則を盾に一歩も譲りません。交渉上手の姫もお手上げ。ならば歩いて宝塚まで帰ろうと言うことになり車道を通り抜け、トンネルウオークのコースである見覚えのある「憩いの広場」を通りJR生瀬駅に到着しました。解散式では「きくちゃんに拍手〜」今日はきくちゃんが少女の様にかわいかったです。勿論、靖ちゃんも上達が早く「クライマーの素質がある」とサスケ先生の太鼓判を押してもらいました。受講生のみなさま、おつかれさま。講師のサスケ先生ありがとうございました。お手伝い頂いた淳子ちゃんありがとう。そして孫守りのご多忙の中、快くサスケ先生を講師としてお貸し頂いたうららちゃんもありがとう。師匠には明日病院に引率の車中で報告をしておきます。20日、21日の受講生の皆様もがんばってください。(ロープ張る場所が空いていますように!)




[1701] 【1712回 これが最後の送別会?】 2008-12-06 (Sat)

5日は此花警○安全管理者部会の役員会&忘年会ということでお誘いを受けました。西九条17時40分集合です。イゲタマークの会社のマイクロバスに乗り(このバス入笠山行きに最適だよ〜)堂島の関電会館のレストランに到着しました。ここはオリオンさんに教えてもらった頃は2500円でフランス料理のフルコースが味わえましたが今では倍以上の値段となっています。署の関係の挨拶の後に、M部会長が「実は今日は久田さんの送別会、いやいや間違えました。今後も顧問として残ってもらうので退職の『おつかれさん会』をしたいと思います」と花束の贈呈をしていただきました。マイクロバスの中で花束は見あたら無かったのでどうして運んだか聞くと、何とM部会長自ら、昼間に雷と大雨の中、事前に車で運んだとのこと、なんと価値のある花束なんでしょうか。(ピンポケですがブログに掲載しました)

話題は此花の「ひき逃げ犯人」の話、不況の話、燃料の暴落(高知ではガソリン90円台)売れば売るほど赤字になる話など話題満載でした。とにかく此花管内は自転車事故が多いそうです。退職したらカレンダーの入手が困難だろうと持参して下さった専務さんの心遣いもうれしかったです。フランス料理のフルコースが終わり玄関口で別れを告げ(この会はそんなわけない!)西九条に向けてタクシーに分乗し、おきまりコースのカラオケボックスへ移動となりました。

二次会宴会部長は北港○輸の部長さんですが本日は所用にて一次会のみ。仕方がないのでみんなそれぞれに自分の持ち歌を時間の許す限り歌い続けて、お開きとなりました。人と人のつながりは企業が違っても、腹の底から笑えることもあります。部会長の人柄で、役員一同、吸い付かれるようについていきます。やまたびのリーダーは今故障中ですが、会員一同リーダーに恵まれたことが財産だと思っています。症状が大層な事にならないように祈るしかありません。

ただ歩くだけ、ただ山に登るだけならどの団体にでもくっついて行けばいいのです。しかし我々は「仲間意識」を持ち、技術の向上を望み、仲間の輪を尊み、みんなで足並みをそろえて前進したいと思います。


[1700] 【1711回 息子から届いた新幹線の切符】 2008-12-05 (Fri)

広島に転勤した息子から12/22付けの新幹線の切符が届きました。「広島市民球場が閉鎖されるので見においで」表向きはそういう事らしいですが平日に動くことのなかった母への定年退職のプレゼントだと受け止め広島に行くことにしました。(しゃあけど母は阪神ファンやし・・・)

広島の原爆ドームが核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとしてユネスコ世界遺産に登録が決まったのは平成8年12月5日「負の世界遺産」とも呼ばれ再度訪れることができると思うと広島行きも価値のある旅である様に思います。(ももちゃん達も同行しま〜す)

さてさて12月は大掃除の月となり今日は雨のため網戸の溝掃除に最適であります。天気の良い日は網戸の溝も乾燥しており、なかなか掃除がしにくいのですが湿った雨上がりは絶好の掃除日となりそうです。

●網戸掃除にはボール紙
網戸は取り外さず、内側からボール紙を貼ります。こうしておいて外から掃除機で吸えば部屋の中にホコリも入らずノズルと網が密着するので簡単に網戸掃除ができます。

●電話機の汚れには重曹&酢水で
手アカで汚れた電話機やインターホン。まずは重曹をふりかけてこすり、スポンジに酢水を含ませてから思慕ツタもので再び拭きます。(重曹の水性スプレーもあるよ)

●冷蔵庫の下には履き古したストッキング
伝染の入ったストッキングを棒に巻き付けて冷蔵庫の下を軽く拭きます。静電気でホコリを吸い取るのできれいになります。

●窓ガラスには新聞紙
ガラスを湿らせ、充分に拭き水気を取ります。次に乾いた新聞紙で乾拭きするとピカピカになります。

掃除を始める前の注意はホコリは「高い所から低い所へ」掃き掃除、ふき掃除は「奥から手前」が原則です。私の母は日本手ぬぐいで姉さんかむりし、ハタキをパタパタと障子のサンにかけていました。姑は茶殻をタタミの上にまき散らしほうきで掃いていました。茶殻が無いときは新聞紙を濡らし、ちぎっていました。掃除機のない時代の話しで笑われるかもしれませんが私は今でも玄関先のタイルの上は新聞紙を濡らしちぎって掃除をしています。いまは掃除機、ダスキンと文明の利器があるので私の様な古い掃除の仕方はもう流行らないかもしれませんね。

★広島市民球場「夢と感動、ありがとう」★
1957年、原爆ドームの北側に被爆地復興のシンボルとして誕生。数々のドラマを生み、球団とともに愛されてきた。赤一色に染まった球場の閉鎖を惜しむファン達が「壊さないで」と署名活動をしているとか。



[1699] 【1710回 ツラ〜イ二日酔いから抜け出す方法】 2008-12-03 (Wed)

年末ともなると忘年会シーズンとなり何かとお酒を飲む機会が多くなることと思います。「ツラ〜イ二日酔いから抜け出す方法」残念ながら、即効性のある対処方法はありません!次に飲むときは、そのつらさを忘れないように飲むことです。

●絶対にやってはいけないこと
二日酔いの時に、熱いお風呂やサウナに入るのは大変危険です。血圧が急に上昇したり、体内にたまっているアルコールを、より活性化させたりと、心臓やそのほかの臓器に大きな負担をかけることになります。「二日酔いには迎え酒が効く」という人もいますが、アルコール感覚が麻痺して症状を感じにくくなっているだけで、しばらくすると不快感がぶり返ります。迎え酒が習慣化するとアルコール依存症に移行することもありますので絶対にやめましょう。二日酔いでの運転は「飲酒運転」となる場合があります。運転をする時は必ずチェックを受ける必要があります。家庭にチェックの器具がない場合は「運転は見合わす」方が賢明です。

私の後輩でバイクで早朝4時出勤の途中にスナック帰りのおばさんの運転する車に激突され意識を失いました。気がつくと自宅から遠く離れた病院のベットの上だったそうです。意識が戻った時、職場の人に担いでもらい自宅近くの病院に痛みを堪えて転院しました。転院の理由を聞くと子供達がまだ幼く、長引く入院に家族のことを思い、少しでも自宅に近い病院まで戻ったそうです。スナック帰りのおばさんの言うことにゃ「朝、飲んだんとちゃうよ〜夕べのお酒が残ってるだけや」と言い訳をしたそうですが警察がそんな言い訳を信用するはずがありません。

●水分をたっぷり取ろう
お酒を飲むとトイレが近くなると感じたことはありませんか?これはアルコールに利尿作用があるためで水分をまめに補給しないと脱水症状を引き起こし、身体がカラカラ状態になります。こうなると汗や尿などで体外へ排出されにくくなります。ドロドロ血液を招いて他の病気を引き起こします。二日酔いの時は見ず、お茶、薄めたスポーツドリンクを多めに摂って下さい。

●シャワーでスッキリ
飲み過ぎた日はそのままお布団に滑り込みという人もいると思います。翌朝は汗と皮脂で身体はベトベト、おまけに二日酔いで身体はダメージを受けています。こんな時はシャワーを浴びて汗と皮脂を洗い流しましょう。多少スッキリとするはずです。

●食欲がなくても食べる
飲み過ぎた翌日は、食欲がないという人が多いようです。でも何も口にしないのはかえって二日酔いの回復を遅らせます。みそ汁やおかゆ、大根おろし、うどん等消化のよいものを食べましょう。気持ちが悪くて食事を口に出来ないときは「キャ○○ン」などの胃腸薬のお世話になりましょう。

そんなにまでして飲まなくてもというのが私の様に二日酔いとは無縁のアルコールに弱い者の言うことです。その場のその雰囲気で愉快に浴びるように飲めるらしいです。宴会の幕が下りる頃になると「シマッタ〜飲み過ぎた〜電車がない〜」となる様です。来週あたりからあちこちで忘年会となりますが、くれぐれも飲み過ぎない様にして下さい。

「ヘルメットと沢靴は忘れないで」の合い言葉覚えててくださいね。(あたいも一度でいいから千鳥足になるほど飲んでみたいわ〜多分その時は救急車の中だとおもうけど〜)


[1698] 【1709回 怪我や病気】 2008-12-02 (Tue)

リーダーが急病でクライミングの講習を控えて気になるところだと思います。「みんなに迷惑かけられない」と言う思いが結果的に「みんなに迷惑をかける」ことになるのです。いまはMRIの結果を待ってから行動に移した方がいいのではないかと私は思っています。仲間だから、みんな納得してくれますよ。

「みんなに迷惑かけられない」私も苦い経験をしました。今回の師匠の問題とは比較にならない自己責任においての怪我ではありましたが、岩登りとは全く無関係の休憩中(はじまって1時間後ぐらい)に、歩いていてアバラを骨折したことがあります。息が止まる思いで痛みに耐え、かと言って、せっかく参加した人たちに「今日はこれで中止」と迷惑をかけられず、「大丈夫だから」と冷や汗を流しながら歯を食いしばって岩場をベットにみんなのトレーニングが終わるまで痛みに耐えました。あの時「帰って病院に行きたい」と素直に言えばよかったのですが「みんなに迷惑がかかる」といらぬ気を使ったばかりに苦痛の1日を過ごしたことがあります。(環状線ウオークの時にもアバラ骨の骨折をしましたが激痛は深夜になってからでした)あの時、せめてポチが「帰ろう」と私だけ連れて帰れば両方が何事もなかったのですが、私の「大丈夫」の声を信じて最後までトレーニングをしていました。次の日、サスケ先生がノコギリを持って私がつまずいた木の根を退治しにでかけて下さったことを聞き、うれし泣きをしたものです。

今回の師匠の急病も緊急事態につき「3日も、4日も順延」と素早く決断すればよかったのですが、多分師匠もあの時の私と同じ「みんなに迷惑かかる、予定を早く消化したい」と思ったに違い有りません。迷っている最中にサスケ先生の医学的説得が効果を出し「順延」の決定を出したのだと思います。現場で万一の事(師匠は血管が破裂して、受講生は怪我で)がないとも言い切れません。ここは忠太郎、サスケ先生、うららちゃんの声をありがたい天の声と聞き、従う方がいいのではないかと思います。

登山の途中、ウオークの途中でも、限界まで我慢をして「もうあかん」と言うときに体調不良を訴える場合があります。できれば限界のちょっと前で体調不良になるかも知れないことを耳に入れておく方がいいと思います。ストックを持参の方は山の下りは「痛くなる前」に出して使って下さい。私は最近2本のストックを使う練習をしています。(なかなかむずかしいよ)膝にやさしく快適な山行ができるのです。「杖は老人の使う物」と思うのでしょうかウオークでもあまり利用しているのを見かけなくなりました。そんな中、若者が山の中をスパツツ姿でツーストックで走り抜けていく姿に居合わせることがあります。「格好いい〜!」って思うということはストックは年寄りの物ではないと言うことです。


[1697] 【1708 えらいこっちゃ医者嫌いの師匠に異変が】 2008-12-01 (Mon)

12/3と12/4にクライミングの講座を控えての一大事です。箕面ウオークの時に師匠が「空にかすみがかっている」と頂上付近でつぶやき、みんなで「そんなことあらへん〜スッキリええ天気や〜」と冗談を飛ばしていましたが土曜日の夕方から物が二重に見えたり、目が廻る症状が追加されました。「病院へ行けっちゅう証拠やで。ポチなら、とっくの昔に病院に走ってるで〜」。それでも「寝たら治る」を決めつけ日曜日を迎えました。日曜日は一緒に遊ぶ約束をしていましたが、それどころではない様子でした。

月曜日の朝、とうとう「病院へ行きたい」とのSOSを受け都島の病院へ走りました。ここは紹介状がないと診察をしてくれないのですが上司の入院の時と同じように大変さをアピールしねじ込み「脳神経科」を受診することができました。ここで色々な検査をし(MRIは後日)脳に異常がないと言うことになりました。次は眼科診察を受ける手はずをしてくれました。待つこと2時間、検査すること2時間、会計を済ませたら午後2時30分を廻っていました。薬も注射もないため不服そうですので「メリケン粉でも処方してくれたら良かったのにね」と励まし自宅へ送り届けました。

木曜日に眼科の権威の副部長の診察(看護師によると名医)を受けるようにとの事です。権威に診察してもらえて喜ぶべきか、それとも、そんなに一大事なのか少々複雑であります。緊急に脳のMRIの予約をしてもらえました。この際徹底的に調べてもらった方がいいのではないかと思います。

気になるのは12/3と12/4のクライミング講座ですが緊急事態につき、明日、師匠から受講生の皆様には直接何らかのお知らせがあるかと思います。日程変更もあるやも知れません。連絡がなければ予定どおりです。師匠が言いました「姫が定年になっていて良かったわ〜」ひとりで受診が苦手の様子です。私の緊急入院の時に世話になった分しっかりと看護しまっせ〜


[1696] 【1707回 おだやかな日曜日】 2008-11-30 (Sun)

退職してから「曜日」に対して無頓着になりつつあります。「今日は何日?」「今日は何曜日?」と会社時代では考えられない日々です(呆けんように気を付けようっと)金曜日から、ももちゃん達を預かっていて気がついたのですが行動範囲が広くなり(いままでは2階まで)3階まで上がってくるようになりました。私の部屋は窓辺に机を置いており、子供達が机の上に乗り落下しては大変と、出かける予定のない今日は、模様替えをすることにしました。半日かけて納得の行く模様替えをすることが出来ました。「時間が勿体ない」から「時間は、たっぷりある」に変わった精でしょうか。

退職以来、自転車とバイクに封印をして「歩く」ことを徹底していましたが、急用でバイクを出しました。「プルッルッ」何か嫌なエンジン音です。しばらく乗ってあげていないので、どうもバイクがストライキを起こしてしまった様子です。何度もエンジンを調整してやっとのことでエンジンがかかりました。「封印もいいけど、たまには乗ってや〜」そうバイクに言われてしまった気がします。

我が町「高見」は銀杏並木が黄色一色に変わり、強風の今日は随分、葉っ葉が落ちてしまいました。日曜参観を終えた子供達が、落ち葉をかき集めて遊んでいます。田舎なら落ち葉や枯れ木を集めてきて火をつけて燃やしながら焼き芋をしましたよね。都会では出来ませんがなつかしい光景です。


[1695] 【1706回 我が家でOL同窓会】 2008-11-29 (Sat)

結婚退職をし、今ではりっぱなママになっている昔の後輩達が我が家に集合してくれました。全部で大人6人、子供達7人大集合です。子供達は2階に置いてあるジャングルジムに群がっているのですが、どの子がだれの子かわからないほどに鈴なりです。在職中には考えられなかった主婦のゆとりの時間でした。

じつは金曜日の夜に嫁が「日本にホメオパシーを広めた方の講演」があると言うことで、ももちゃんとかずくんがお泊まりとなりました。西宮名塩を出るとき電話があり海老江駅まで迎えにいきました。海老江駅隣のヤマダ電機は1時間駐車料が無料のため大助かりです。小さなからだが抜けるかも知れないシートベルトを一応締め「ママ〜ママ〜」と小声で叫ぶかず君をなだめすかし連れて帰りました。あきらめたのか、それからはとてもよい子で食事、風呂、就寝とママの書いたレシピ通り順調でした。

しかし孫守りはそう簡単ではないと言うことが夜中に起きてしまいました。豆球が災いをして午前1時に、かずくんが薄目を開けました。真っ暗だとママだと勘違いしてまた寝たと思うのですが婆ちゃんだと確認したのか「ママ〜、ママ〜、ママ〜」と救命救急の時に呼びかける「もしもし、もしもし、大丈夫ですか」の様にだんだん鳴き声が大きくなりました。その声で熟睡中の、ももちゃんも目覚め、それからは午前4時まで絵本「ピノキオ、したきりすずめ、いっすんぼうし、かさじぞう、みにくいあひるのこ」と何冊も読み、私だけがいつの間にか眠ってしまい、ももちゃんの「おしっこ〜」の声に我にかえりました。

土曜日の午後1時、後輩達が来てくれて積もる話をするつもりでしたが7人の子供達の声にかき消されて、何を話したのかサッパリわかりません。懐かしかったということだけでも充分だとうれしく感じています。会社の全盛期時代には女子社員が20人ほどいて、活気のあった時代のOL達で、ママになった現在でも子連れで交流しているらしく、とてもほほえましく、うれしかったです。もう一人臨月の後輩もいて、本当は今日も参加の予定でしたが「生まれるかも・・」で自宅待機となったそうです。「ツーと言えばカー」時代の後輩達で、今後も娘の様に接していけたらうれしいなぁ


[1694] 【1705回 おばあちゃんの知恵袋】 2008-11-28 (Fri)

私の家の裏の植木が台所付近に伸びて、網戸が曲がるほどになっていたためポチが長い手を利用してチョッキン、チョッキンと無断で切っていました。「やめとき」と言うと私のいないときにまたチョキチョキやっています。「どうせ切るなら証拠を残さないように完全に切り落とした葉も拾っとき!トラブルは嫌やで〜!」仕事に行ってた時には気がつかなかった日々の暮らしのひとコマです。昨日テレビを見ていたら同じ内容の問題をやっていました。

@となりの伸びてきた枝を無断で切ってはいけません。この旨を持ち主に言って切ってもらうか、それでも改善されない時は裁判所に言うと、持ち主に伝えてくれるそうです。

Aではその伸びた枝に実がなっている場合。(柿やミカン)これを黙って取ると「窃盗罪」に問われるそうです。

Bお歳暮の贈る相手は本来は親に贈る習慣だったそうです。元気で長生きして下さいと言う意味をこめて「魚、米」など健康食品だったそうです。今ではお世話になった目上の人が主流になっています。そしてお歳暮をもらったら3日以内に電話や手紙で礼を言いましょう。喪中の人にも贈ってもOK(お祝い品ではなく感謝の品だから)

C靴下などを買ったときハサミが無くて取るのに困るのがタグピン。そんな時はタグの三角の部分を手に持ち、靴下やシャツをグルグルと回して見てください。簡単にはずせます(試してみてね)

D三角おにぎりをきれいに作る方法は牛乳パックを使います。これは作ってみて、お昼休みに公開します(うまくいくかどうか試してから)これは登山に出かけるとき、そのまま携行できるし便利なのではと思います。


[1693] 【1704回 応急手当実施に伴う法的問題】 2008-11-27 (Thu)

外国で広く採択されている法律に「善きサマリア人の法」があります。窮地の人を救うために、勇気を持って善意の行動をとった場合、救助の結果につき重過失が無ければ責任は問われないと言う趣旨の法律です。

『ある人がエルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われました。強盗どもは金品を奪いその人に大怪我をさせて立ち去りました。たまたま通りの反対側を通っていた祭司やレビ人は見て見ぬふりをしました。しかしあるサマリア人は怪我人の傷の手当てをして、自分の家畜に乗せて宿屋に連れていき、介抱し、翌日そのサマリア人は銀貨2枚を宿屋の主人に渡して介抱を頼み、もし足りなければ帰りに私が支払いますのでと言い残して立ち去りました。世の中の模範たる祭司や法律に詳しいレビ人は、多忙や、あるいは強盗に襲われるかも知れないと言う理由で怪我人と関わり合いにならなかったけれども、サマリア人は誰にも強制されず、何の見返りも求めないで他人のために尽くしました』この話しが基になって「善きサマリアの法」が制定されました。

救助行為を含む救命手当を実施した人(救助者)に対して、その手段、手技において重過失が無く、かつ意図に反して傷病者の症状が悪化した場合における救助者の免責、救助行為の擁護を保証した法律です。従来の「善きサマリア人の法」にはAEDの使用が含まれてなかったため、これを保護するために「心停止発生時の緊急医療に関する法律」が制定されました。日本においては民法698条に緊急事態管理に関する規定があり、これによると身体、名誉又は財産に対する急迫の危害を免れさせるために事務管理をしたときは、悪意または重過失がある場合でなければ、損害賠償責任を負わないとされています。

要するに、善意であること・応急手当の手順通り実施することにより、民法698条の緊急事務管理が成立し、刑法第209条過失傷害罪、第210条の過失致死罪、第211条の重過失致死罪に問われることはありません。

今回は法律の問題が出て、すこしややこしいかと思いますが万が一、救命手当中あるいはその後に死亡したとしても法律で守られていると言うことを皆様にお知らせしたかったのです。見ているだけで命の灯が消えるよりも習得した救命手当を実施して下さい。勇気はいると思います。「善きサマリア人の法」を思い出して欲しいと思っています。

「強く、早く、たえまなく」(強くは5センチの深さ、早くは1分間に100回、たえまなくは10秒以内に次の行動)


[1692] 【1703回 まもなくスノーシューの季節だなや】 2008-11-26 (Wed)

もうすぐスノーシューの季節となるために「雪山教室」をしようかと言う事になっています。ウオーキングの会の白馬岳の事故の時も何のトレーニングもせずにアイゼンを履き、まるで旅行に行く気分で参加をし、リーダーに「頂上まで連れてってくれるよね」的な発言があったことが今でも忘れられません。そのためにヘリコプターを要請しました。この事を教訓に「トレーニングは必ずしよう。その後にアルプス」が合い言葉となりました。

白馬岳で雪崩がなかったから、立山で吹雪きにならなかったから何事もなかったけれども、万一に備えて知ってるのと知らないのとでは命にかかわめこともあると思います。白馬岳の雪渓で休憩しようとリュックを置きかけるとパトロール隊の人が「すぐにここを通過しなさい!」落石と雪崩の危険性があるため休憩なんぞもってのほかだと言う顔付きでした。だから葱平まで一気に駆け上ったのです。今は「自己ビレイ」の方法を学びましたので休憩時には、木や岩に安全のための自己ビレイを取り、休憩することを学びました。のどが渇いて無くても、水分の補給と行動食は必ず口にする。これも学びました。

スノーシューを履くと、思う様に足運びができず自分で踏んで転倒したり、人のスノーシューを踏むこともあります。手袋にはゴムを入れる。風で帽子を持って行かれないようにストッパーをする。うん。これも学習済み!何も難しいことを学ぶのではなく、いま出来ていることの再確認みたいなものです。気楽に考えて参加しませんか?

加藤文太郎の(ひさしぶり〜)雪山登山ほどの技術はないものの(あたりまえ〜)スノーシューシーズンに入る前に雪山登山に取り組みたいと思っています。手袋の材質、靴下の材質などリーダーの持ち物を公開することで、みんな準備の参考になるのではないでしょうか。金剛山、入笠山と雪山がすぐそこまでやってきています。ぜひ、みんなで楽しく雪山登山について語り合いませんか?




[1691] 【1702回 2005年版改正部分】 2008-11-26 (Wed)

「心肺蘇生法の改正部分」
従来の心臓マッサージが15回から30回になったのは、すでにご存知の方ばかりだと思います。2005年改正部分の講習に行ってきました。以下はその内容です。

@AEDは心室細動・無脈性心室頻拍だけに反応
A1歳未満には適用しない(使用禁止)
B小児用パットは成人に対しては使用禁止
C電源を入れた後はメッセージ通り(器械によっては回数も変化)
Dパットはイラスト通り
E救急隊に引き継ぐまで電源は入れたまま。

★パット装着について
「素肌に貼る」「ペースメーカーを確認したら3センチ以上離す」「ブラジャーはワイヤー入りがあるので取り除く」「ネックレスは顔にかける」「濡れていたら拭く」「間違って貼っても貼り直しはしない」「小児に成人用のパットは代用可」

★呼吸の確認について
正常な呼吸の確認をする。(あえぎ呼吸、下顎呼吸、疑わしい呼吸は呼吸無しと判断する)

★人工呼吸について
@1秒かけて2回、軽く胸が膨らむ程度
Aうまく出来てもできなくても胸骨圧迫を実施
B実施出来ない場合省略してもよい
C口から出血、嘔吐があれば人工呼吸はしない

★胸骨圧迫について
@循環のサインはしない。反応なし、呼吸なしは心肺停止
A圧迫位置は胸の真ん中、乳頭と乳頭を結ぶ線の胸骨上
B強さは成人で4〜5センチ
C1分間に100回
D30回(以前は15回)

などなど盛りだくさんの改正部分がありました。今まで覚えていた内容から上記の内容を入れ替えて頂き、あらたな、そして正しい心肺蘇生法を身につけましょう。

「強く、早く、たえまなく」これが基本です。この「強く」は5センチの深さを言い、早くは1分間に100回を言い、「たえまなく」は次の行動に移す時間は10秒以内を言います。次回は応急手当実施に伴う法的問題についてお話したいと思います。


[1690] 【1701回 日程変更は大当たり〜】 2008-11-24 (Mon)

24日、午前8時現在カンカン照りならば、再度昨日のコースを歩くつもりで、朝、窓の外を見ました。ところが天気予報どおり、どんよりと曇り空、すでにポツリポツリと雨粒が落ちているのを確認して、再びベットに潜り込みました。よかった〜!昨日に変更してて本当によかったと思いました。しかしそうするには会員の皆様のご理解があっての事と肝に銘じてはいます。変更したがために参加できなくなった人もいました。この人たちには、ひたすら謝るしかありません。そして家族の用事をキャンセルしてまで参加して下さり、しかも柿のごちそうまで持参して下さった方もいました。この方にもお詫びと感謝でひたすら頭を下げるしかありません。

ウオークや登山の参加年齢は60歳以上が相場です。今からの雨は冷たくて風邪引きの原因になります。避けれるならば避けるにこした事はありません。アルプスなどの高山では途中で雨に降られることは、常に覚悟をして登っていますのでその山に登るためのトレーニングだと雨でも変更はせずに強行実施致し、いかに早く途中で合羽を装着できるかの訓練もします。昨日の場合は「お花見モード」でしたので、そこのへんをご理解頂きたいと思います。

12月になると納山祭を予定しています。みなさまが参加して下さると想定して1棟まるまる借りています。12月3日、4日のクライミング教室の際にも、ご案内をさせていただきますが、里山を歩いて「飲んで、食って」の忘年会も兼ねてご参加頂ければうれしいです。1棟は孤立して建っていますので歌っても踊って騒いでも大丈夫です。ハハハ

アドベンチャーさ〜ん。正ちゃ〜ん、忠太郎〜!酒が飲めるぞ、焼酎飲めるぞ〜日頃ご無沙汰のこの皆さんは顔を忘れられないために、ぜひご出席下さい。雪山の相談も計画も話し合えるチャンスです。場所等は「やまたび」のホームページの会員のみの情報をご覧下さい。「チャンス」どこかの偉い人がチャンスの使い方を間違えて国会で大問題となりましたが私たちの年齢になると「チャンス」は逃がさないで参加をする。そうすれば今までの違う人生が見開いてきます。ポチが沢は絶対嫌!衣服を濡らしてまで滝登りは嫌!と断固として参加しませんでしたが、今ではどうでしょう。「沢に行こう」と自分から進んで口にする様になりました。

ポチの座右の銘(笑)「新たなる挑戦は夢をつかむことができ老いを遅らせる事ができる」


[1689] 【1700回 箕面へ紅葉トレッキング】 2008-11-23 (Sun)

連休最後の24日は雨模様のために、急遽23日の日曜日に実施することにしました。私たちと同じ思いなのか箕面の滝に通じる道は混雑でごった返しています。両側から「もみじの天ぷら」を揚げる音と、こおばしい匂いが漂ってきます。午前9時30分に阪急箕面駅を出発し、滝道を通り、姫岩、唐人戻り道、箕面大滝へは1時間ほどで到着しました。

ここで、しばし紅葉見物のための休憩。係員の人が昨日「Fグループ」の猿の群れ600匹が暴れたので見張りをしているのだと説明をしてくれました。滝の中央に大きな蜂の巣を見つけカメラに納めましたが撮れたでしょうかね。

滝道合流地点へ引き替えし箕面山から三国岳に向かい、三国岳で休憩です。この時、おもむろに、くろねこさんがリュックの中から庭で実った柿をすぐ食べられるように剥いてみんなに配ってくれました。大勢の分なので、さぞかし重かったことでしょう。甘くて、みずみずしくて、ちょっと暑さでバテ気味だつた私たちに潤いと、真心と、元気を頂きました。ごちそうさまでした。

柿をごちそうになったことでみんな元気復活し、「ようらく園地」で丁度12時となったため、長めの昼食タイムとなりました。今回からお昼の歌はありませんのでロープの勉強をしたり有意義にすごすことが出来ました。前回に歌の終了をお知らせしていましたので「歌はないの?」と言う声もなく、次回の昼の時間からはリーダーの「ちょっとためになる登山のお話」などをお話しして頂ければと思っています。

午後からは少し引き返し、大けやき、箕面ゴルフ倶楽部横を通り、猿の腰掛け、桜公園、そして朝に通った箕面公園滝道を通り午後2時30分阪急箕面駅にゴールしました。滝道はものすごい人混みで私たち山族は自然の中を気持ちよく歩いてきましたので、人混みに、すこし圧倒されつつも電車も満員〜。あ〜あ山はいいなあ!

うららちゃんは今日は慧君と光ちゃんと滝道をゆっくり歩くために別行動となりました。あとで息子さん達も合流の様子です。大滝を折り返して歩いていると、血相を変えた慧君が泣きながら登ってきます。「慧くん、慧くん、慧くん!」と呼び止め、じいじが上の道にいることを教えて安心させました。「お猿さんに涙をペロペロされるから拭こうね」と言うと素直にうなづきました。そしてサスケ先生がギュッと抱きしめてあげて一件落着〜。(下から登ってくる、うららちゃが先に行ってしまったと思ったのでしょうね)



[1688] 【1699回 応急手当普及員更新講習&テスト】 2008-11-21 (Fri)

救命救急普及員の更新講習とテストを受講するため肥後橋の地に立ちました。この地は私が「乙女時代」に初めてOLとなった地で、とても懐かしく開催時間まで、かなり余裕があったのでブラリと歩いて見ることにしました。昭和40年代とは随分変わっていました。OL時代、お昼のチャイムと同時に食堂へ走り、早々に食事を済ませるとフェスティバルホールへ駆けつけて「てなもんや三度笠」と「スチャラカ社員」の公開録画を見るのです。曜日は忘れましたが1週間に2度フェスティバルホールへ通いました。30分間楽しんだあと走って会社に戻ると午後の仕事に間に合います。息を弾ませしばらくは仕事にならなかったのではないかと振り返ります。同期に入社した人たちも定年を迎え、今では誰も知る人はいなくなりましたが時々OBの会の誘いを受けることがあります。あの頃の「あこがれの君」は見る影もなくショックで二度と参加することはなくなりました。(向こうも同じ思いかもね)

今日の講習は(財)大阪市消防振興協会で行われました。普及員の資格を取ろうとする方はここで24時間(1日8時間を3日間)受講料8000円を払って受講することができます。応急手当普及員の資格を得れば、蘇生人形の借用や独自に講習を開くことができます。

ウオークの途中や、登山の途中で応急手当の手順を知っている人が、一人より二人、二人より三人と多い方が救命のために役立ちます。私が一生懸命になるのは「私を助けて」と言う思いからです。私が知っていても私の命は救えません。しかし救命救急講習の話をすると「またかぁ」と思われるのが現実です。企業においても今まで毎年講習会を続けて来て消防署から優良企業として表彰を受けてきました。私の後任にもこの普及員の講習を受けてもらい資格を取得し、企業で続けてほしいと願っています。受講しても人に伝達をしないと「ペーパードライバー」と一緒でいざという時に現場で役立ちません。何度も何度も講習を繰り返し伝達して行くことで自分がマスター出来るのです。今日の講習のあとは認定試験があり3分間蘇生手順を繰り返し70点以上が合格点でした。私は換気92点、心臓マッサージ98点で合格です。「たった3分か」と思うかも知れませんが2;30を5回繰り返しAEDとセットで終えるともうヘロヘロになります。実際に心臓停止の人と遭遇すると緊張感と恐怖感でもつと大変なんでしょうね。2005年改訂版はまた後日、ここに書き込みますね。


[1687] 【1698回 後輩との再会】 2008-11-20 (Thu)

私の退職を知った後輩(阪神大震災の時に行方がわからなくて、震災の翌日バイクで探しに行った、もと阪神の社員)がランチに誘ってくれました。私は淀川駅、後輩は三宮からなので阪神電車福島駅で合流し、ホテル阪神のランチと相成りました。ホテル阪神のランチは期間限定で2000円のフランス料理がフルコース(11月30日までOKよ)で頂くことができます。11時30分から、積もる話しが山ほどに出て、料理が出終わってコーヒーを飲み干しても、まだまだ話しのキャッチボールです。その間スタッフが水のお代わりを何度も、何度も入れ替えに来ましたが、お構いなしで退職されてからの2年分ぐらい、おしゃべりをしました。

新しい職場に移ってからの話、阪神を辞めて外から見つめた感想、私に口うるさく言われたけれど妙に嬉しかったこと、同僚達の消息などなどお互いが様々な話しをすることが出来ました。スタッフがテーブルクロスを敷き変えはじめ、あきらかに「もう出てよ〜」と感じ取れましたので席を立ちました。表の看板は「クローズ」となっておりました。ハハハ

午前11時30分から午後2時30分の3時間もいたのですねぇ。しかし、さすが「ホテル阪神タイガースです」。お客様は命です。嫌な顔ひとつせず相手にそれとなく「迷惑サイン」を送ってくれました。帰り際に、後輩が「永い間おつかれさまでした」とかわいいお花をプレゼントしてくれました。プリザーブドフラワーと言ってドライフラワーや造花ではなくて生花のうちに加工をし、いつまでも生花として楽しむ事ができるそうです。ブログに実物を載せました。

何らかの事情で退職して行った後輩達が今まで以上に幸せであって欲しいと思っています。ある後輩はご主人が交通事故に遭い入院中だと知らせてくれました。ある後輩は、もうすぐ結婚するから式に出て欲しいと言ってくれます。私の腹を痛めた息子は二人だけですが、それ以外にもたくさんの息子や娘達がいることを、しみじみと振り返られる自分が幸せに感じている今日この頃であります。


[1686] 【1697回 いい夫婦の日】 2008-11-19 (Wed)

11月18日、木枯らし1号が吹きコートの襟(まだコート着てない人はあわてたでしょうね)を立てたり、イチョウの葉がハラハラヒラヒラと舞い落ちてスーパーの前はイチョウのじゅうたんを敷きつめた様になっていました。(お〜さむっ!山から木枯らし降りて来た〜♪♪)金剛山ではうっすらと初冠雪が確認されたそうです。冷房から暖房に切り替え試運転しなくっちゃあね。そう言えば「ゆ〜きやこんこ〜ん」と灯油売りのトラックが巡回しだしましたよね。

11月22日は誰が名付けたか知りませんが「いい夫婦の日」だそうです。夫婦円満と答えた人は78%、生まれ変わっても今の相手を選ぶは35%。結婚までの交際期間は半年未満が12%、半年以上1年未満が24%、1年未満のスピード婚が役3分の1を占めています。相手を選んだ理由は「性格」が56%、あとは優しさ、思いやり、フィーリングなどが多かったそうです。夫婦関係は「とても円満」が78%、円満の秘訣は「話をする、聞く」が53%、1日の会話は30分から1時間未満が多かったそうです。みなさまのお宅ではいかがですか?では姫の家はどうなんですか?そんな質問を受けそうですが我が家はひ★み★つ★です。

生まれ変わったら勿論、今のパートナーを選ぶと答えた人は35%で、考えると答えた人は47%もいたそうです。私たちの時代は妻が働いていたとしても家事、育児は妻の仕事と相場は決まっていました。亭主は「オレは仕事をして来て疲れているんや」と言わんばかりに晩酌、食事を済ませた後はゴロゴロとテレビを見て過ごすことが多かったです。私は子供が小さい間は、姑と同居をしていましたのでポチに育児を手伝ってもらった記憶はございません(べつに記憶喪失でもありません)しかし長男も、次男も育児には協力的で何事もパパを中心に軸を回している感じです。ももちゃんにかわいいお洋服を褒めると「パパに買ってもらってん」と必ずいいます。あれーっそれこの間、婆ちゃんが買ってあげた服だよねと思うこともありますが、どの嫁もパパを立ててくれていることが伝わって来て、母としては感謝の気持ちでいっぱいです。

今の若いパパ達は「共同生活者」として出来る事は家事も育児も分担をし、保育所、学校の行事は会社を休んででも参加するの傾向にあります。休暇理由届に「子供の運動会」と書いているのを見ると時代は変わったんだなぁとつくづく思います。私が昔、長男が熱性引きつけを起こしポチの会社へ電話をしたら「ひきつけで死ぬ事はないだろう医者にまかせておけばいい」と言われたことがありました。今後どんなことがあっても、親が死んでも連絡はしないでおこうと悔し涙を流した若かりし日を思い出しました。この事があってから会社に電話をしたのは2回だけ。後の1回は登山の途中で無事を知らせようと電話をかけたら「ご主人様は本日休暇をとっています」だって!。この夫婦いったいどうなってんや?と会社の人は思ったはずです。いまは携帯電話の普及で会社に電話をする人はいなくなりましたね。

時代の流れに逆らうよりも、流れに身を任す方が生きていくにはとても楽です。しかしこれも性格で、放っておけない場合もあります。この間のコーナンの話でも、わずかな傷なので、そのままにしておけば何てことはありません。しかしもし我が孫が目でも突いたらと思うと黙ってその場を去れない時もあるんです。この性格は多分、死ぬまで治らないと思います。


[1685] 【1696回 お買い物はダンベルを下げて】 2008-11-17 (Mon)

退職後、やっと生活のリズムが安定してきました。自転車もバイクも車も封印し、出かけるときは「歩いて」を実行しています。最初は両手を大きく振って歩いていましたが最近はダンベルを両手にさげて歩く習慣をつけています。買い物をして荷物が出来たときは、空っぽのリュックの中に買い物の品をいれて、再びダンベルを持ち、歩いています。今日は銀行に用があり警備員に呼び止められないかヒヤヒヤしました。これは使い方を間違えば凶器にもなるんだものね。

ダンベルは女性特有の両腕のタルミを取る効果もあるし、岩をつかむのに手の筋力が鍛えられる(?)そんな効果をねらっています。すぐに効果を期待していませんが日々努力だと思っています。買い物の帰りにコーナンに寄り植木鉢を買いました。この植木鉢はリュックに入りませんのでリュックの上にくくりつけて帰ります。(へ〜んな格好〜)ダンベルをリュックの中に入れると重たくて・・・・・

コーナンの材木置き場付近を通過中に「イタッ」と手に何かが刺さった様な気がしました。よく見ると商品の針金網が棚から大きくズレて右手の甲を引き裂いた様になっています。植木コーナーのレジ係員に傷を見せ、説明したのですが何の対応もしません。せめて「大丈夫ですか?バンドエイドお持ちしましょうか?」と言えないのかなぁ。この係員に説明しても無駄と諦めていたら、横を男性の店員が通ったので、もう一度事情を説明し、現場まで連れていきました。「子供だと丁度、目の高さで危ないよ」と改善を指摘して帰りましたが、まずお客様の訴えに「お怪我は大丈夫ですか?」のおもいやりの声掛けが大切ではありませんか?マニアルなかったら作ったろうか?!

私がもしヤクザの姐御だったらどうすんねん?こんなもんでは済まされませんで〜。


[1684] 【1695回 ツリークライマー】 2008-11-16 (Sun)

「ツリークライマー」ってご存じでしたか?天高く80メートルをも伸びる樹木をロープで登っていくスポーツだそうです。車椅子生活の重度障害者の方がツリークライミングを終えた後、自力でトイレにいけるほどに回復したという実話があるそうです。何がそんなに身体にいいのかしら?

アメリカ、カリフォルニア州のシェラネバダ山脈の森に立つ樹高80メートルのジャイアントセコイヤの話です。子供の頃、木登りが好きだったという人は多いのではないでしょうか。私も学校から帰ると家の裏山に行き、格好の枝振りを探しバスごっこをするのです。母親に買ってもらった車掌さんセットの黒いカバンを腰に付け、葉っぱにパチンパチンと穴を開けて「車掌さんごっこ」をし、それに飽いたら「ターザンごっこ」をして木登りやら、かずらをロープ代わりに利用して、木から木へ飛び移ったりして遊びました。木の上からの景色は何かしら優越感に浸れり、登れない下級生のお尻をもちあげてはターザンになった気分でした。木登りが癒しを与えてくれるのなら、岩もまた達成感を与えてくれ、ツリークライミングとロッククライミングの共通点があるように感じました。

ツリークライミングは手足で登るのではなくて、樹にかけたクライミング用のロープを使い、足止め用の結び目に片足をかけて、けるように体を引き上げていく。力の弱い女性や子供、高齢者でも安全に登れるような道具を使って登っていきます。ツリークライマーのジョン・ギャスライトさん(46歳)は小学3年生の時に両親が離婚し、1年間施設で生活をし母親の再婚で米国からカナダへ移住したそうです。学校で、いじめに遭い、新しい父親にもなじめず落ち込んでいた時、それを見かねた祖父がツリークライミングを勧めてくれたそうです。

最初は祖父と一緒に10メートルほど登りましたが怖くて枝と幹しかみれなかったそうです。祖父が「外を見てごらん」の声に振り向くと、海、山、川、街が見え、毎日逃げて帰っていた学校が小さく見えました。「人生は学校だけじゃない。海も森も山も、みんな、にこにこしてボクを待ってくれる」と考える様になり立ち直ることができたそうです。

なぜ木に登ると気持ちがいいのか調べて見たら家庭環境が厳しい子供ほどツリークライミングのセラピー効果が大であることがわかりました。しかし、そんな子供達は森に連れて行ってもらう機会が少なく、だから公園や学校の校庭で木登りをすることが大切だとツリークライマーのジョンさんは言います。「辛いこと、悲しいことがあった時、樹の上から世界を眺め、生きることの素晴らしさを感じてほしいそうです。

「危ないから木に登るのはやめなさい」「危ないから岩登りなんてやめなさい」と頭から否定せず、どうすれば安全に、怪我のないように登ることができるかを勉強した方が、人生の癒しになるのではないでしょうか。この祖父の様に、いきなり木登りをして人生観を変える方法もあります。私は「土佐中村」という自分の生まれた環境に60歳のこの年になって初めて感謝をするようになりました。自然とは心を病む少年達が立ち直るのに格好の教材ではないかと最近の少年問題に触れて、しみじみと・・・・


[1683] 【1694回 第二期クライミング講座始まりました】 2008-11-15 (Sat)

日曜日に零くんの七五三詣でをする予定でしたが「雨模様」と言う予報のため急遽土曜日の今日、お詣いりに行きました。着物と袴を身につけ、はき慣れない草履は神社の近くまで爺ちゃんのお手々の中に。(先週の、よそ様のお宮参りで草履で歩けない子供を下見したため、神社付近までは普段の靴を履いて行くのがいいですよ)お祓いをしているときも神妙な顔つきで静かにしています。宮司さんによい子だったねと褒められると「ありがとうございました」と言いながらも目は神棚に並べられた千歳飴に釘付けでした。雨に遭わずにホッとしました。

午後からは第二期のクライミングの座学を実施しました。2回に分けて行いますが、ほとんど個人レッスンの様な中身の濃い講座でした。市販の教科書を使いロープの結び方、器具を使う方法などを勉強しました。ロッククライミングは3000メートル級の山々を制覇する時に避けて通れない岩場を「安全に」通過するために知識と技術を習得するのです。「知らないより知ってる方が安全」これが基本です。なんかむずかしそうと後ずさりしないで、ぜひ受講して頂きたいと思います。1年前の第一期を受講した私たちでさえ「あ〜ぁなるほど、そうだったんや〜」と再認識する場面もあります。まだ間に合いますよ〜!但し、教科書の準備が必要ですので必ず事前のお知らせをジョンリーダーまでお願いします。そしてこの会場は「飲食OK」のため、お弁当を持ち込んで食べることが出来ます。また隣には大きなスーパーが並んでいますのでおにぎりや、おやつを買うことができます。ご利用くださいね。

七五三詣りと座学の様子をブログに載せました。見てね〜


[1682] 【1693回 今日もまた「送別会」】 2008-11-15 (Sat)

「一体いつまで送別会してんねん?」そんな声が聞こえてきそうですね。11月14日は私が所属する総務部の送別会をして頂きました。10月は決算業務のためと、氷上工場からの出席者がいるため金曜日でなければならない事、その金曜日がぜ〜んぶ埋まっていたことで2週間経った本日と相成りました。

2週間ぶりにみんなに会うと「いやーっ久しぶり〜!」と懐かしさが沸き上がってきます。本社総務部、氷上総務部、食堂のおばちゃん、警備員のおじさんも同席です。ほんま、ありがたいことです。会社の状況報告をみなさんに教えて頂き、たった2週間の間に、さまざまな出来事があることに目をまあるくしました。

宴たけなわとなり、みなさんから絹のショールを頂きました。とても素敵な色で気に入りました。どこかお出かけ場所を作って、さっそく使いたいと思っています。福子ちゃんから花束も頂きました。我が家は今、花がとぎれることがありません。それから「これはボクが焼きました」と男性社員から手作りのチーズケーキを頂きました。零くんの七五三詣りが終わったら零の年齢に合わせてローソクをたてて頂きます。

話は尽きないのですがK部長が隣でグーグー寝息をたてて来たのと、夜も更けてきたためお開きとなりました。またいつかお目にかかることがあると思います。その時には「あんた誰?」って言わないで欲しいと思っています。みんなで力を合わせて、意見はお互いが出し合って解決しながら頑張ってほしいです。いまだに社員から「久田さんをお願いします」と電話がかかるらしく笑っちゃいました。99lの皆さんにお別れのご挨拶をすましたはずですが、ついつい口癖なんでしょうかねぇ。わずか2週間しか経過していないのに、後輩達がずいぶん成長し、まばゆく輝いていました。命令系統ではなく協調性のもとに仕事を進めて行けば、うまく行きますよ。期待してますからね〜

本日を以て送別会の予定をすべて終了しました。全部で8回・・・それぞれに工夫があり、私への真心が伝わりました。みなさんのお心づくしに感謝をし60歳で卒業できたことに改めて喜びを感じています。いよいよほんまもんの専業主婦になりま〜す。あっ土曜日は出かけるで〜。だってクライミング楽講が待っているんだもん。


[1681] 【1692回 駅前の自転車置き場】 2008-11-13 (Thu)

どこの駅も、駅前の自転車の不法駐輪で頭を悩ませています。歩行者が駅周辺を歩けないほどに自転車で入り口をふさいでいます。車椅子の人や、目の不自由な方は、どんなにか、お困りだろうと自転車を見ると腹立たしくなります。

ところが・・・ところがです。歩道いっぱいに自転車があふれていた阪神電車淀川駅(本線)の駅前に不法駐輪が1台もなくなりました。不思議に思って、すこし駅前を取材したところ12時間駐輪百円(バイク200円、60分以内なら無料)と言う有料駐車場ができたのです。「停めないで下さい」「駐輪禁止」だけではいかんのです。駐輪場を設置し、そちらへの駐輪を促した結果、ブログに写真を載せましたが、見事にきれいになりました。

取材を終えて戻って見ると、何と1台の自転車を見つけました。いませっかく褒めたところなのにと犯人探しをしたら、係員のおじさんが巡回中だったみたいです。制服を着ていなければ、きっととがめていたと思います。ゴミひとつ落ちていない場所にゴミが捨てられないのと同じで整理整頓が行き届いていれば不法駐輪はなくなります。同じ阪神電車でも西大阪線の千鳥橋駅は、足の踏み場もありません。明日は千鳥橋に出かけて撮影してこようと思っています。

会社でも「整理整頓」は年中のテーマですが、これは命令系統ではなく、自分自身が毎日仕事をする机の上はきちんと片づけて帰る、翌日の朝は、新たな気持ちで仕事ができる事が大切です。私は在職中は限りなく自分の机の上はきれいに片づけて帰る習慣を身につけていました。仕残しの仕事は極力無い様にしました。なぜならば、どんな事で翌日お休みを頂くことになるかも知れません。そんな時「あいつ偉そうなこと言うて、汚い机の上じゃのぉ」と言われることの無い様に39年間、習慣づけていました。机の上、下、後ろなどに書類を山積みしている人がいますが、こんな人に限って「整理整頓に心がけましょう」とお経の様に唱えます。その前に、まず自分の身の回りを片づけて、それから人に提案した方が説得力ありますよ。

ポチは物を出したら、仕舞うことをしません。次に使う時に困るだろうと思って見ていると案の定「あれがない、これがない、おまえがどこかにやったんだろう?」と人の精にします。出てくるのは決まって犬小屋からです。そんなとき私は飼い主として「一番最後にどこで使ったのか思い出してはいかが?」(こんなやさしい口調ではありませんが、ワンワン)

「小物入れ」「クライミング道具」「沢の道具」「合羽、スパッツ」「手袋。マフラー」「登山用小物」と分別して収納しています。目的地に合わして、その引き出しを出せば、忘れ物の無いように工夫をしています。それでも忘れた時は笑ってごまかしま〜す。


[1680] 【1691回 出産の立ち会い】 2008-11-12 (Wed)

我が孫でも出産に立ち会いできなかったのに、今日は知り合いの女性の出産に立ち会うことができました。既に男の子3人の母なのですが、この子供達に命の尊さを教えたいと付き添い役を仰せつかりました。お産の時刻は潮の満ち引きと関係ありと言いますが午前3時30分、携帯電話が鳴りました。「陣痛が始まったみたい。子供達をお願いします」合点承知の助とはいかないまでも、乗りかかった船の船頭役として子供達を車に乗せて病院到着。

廊下から母親のうめき声が聞こえ、子供達に緊張が走ります。最初は頑なに拒んでいましたが母親の手を握らせると涙をポロポロと流していました。お母さんの一大事が伝わったみたいです。「あんた達も、こうして生まれて来たんやで。叱ってばかりかも知れんけどみ〜んなかわいいんやで!」母親の必死の訴えが届いたかどうかは私にはわかりません。医師の診察時には廊下で待機し、また病室に入ります。「おばあちゃんもどうぞ〜」あ〜あ私のことかと、私も立ち会い出産に加わることとなりました。

午前7時、子宮の入り口が7a開口し「もう待てない、生まれる」という妊婦に「10aまで、まだまだ」と言う助産婦。入れ替われ立ち替わり医師と助産婦とベテラン看護師が出入りします。いま出産時のたらい回しがあるというのに、とても手厚い、手当が行われています。母親のうめき声が大きく、間隔も短くなり、命をかけて最後のきばりが続きます。「オギャッー!オギャッー!」元気に産声を上げました。2600cの男の子です。いつ聞いても生命の誕生は、神秘的で母親の力の凄さを思い知らされる場面です。(窮地に立たされたとき、お母ちゃん助けて〜って言うはずです)

「弟が出来た、弟が出来た」と大はしゃぎの3人の男の子達は大喜びです。立ち会い出産がよかったかどうかは、この家族の今後の課題ですが私は出産に間に合うように子供達を連れて行くという大役を果たせてホッとしています。

私は昭和45年11月10日の夜明けに陣痛が来て入院しました。昼間は医師、夜間は助産婦というシステムで医師との交代前の助産婦さんが「初産やしまだまだや」と申し送りをして10日の夜を迎えました。病室はほかのお産を終えた妊婦さんに支障をきたすと分娩室の隣の部屋に移動させられます。朝、病室に戻ると夜中にかつぎこまれたであろう妊婦さんがお産を終えてケロリと歩いていました。11日も昼間は姑に付き添ってもらって陣痛促進のために公園を歩いて、歩いて、歩き回りました。しかしまだ生まれる気配はなく、その夜も分娩室の隣の部屋に寝かされました。3日目の朝、最初にかかわった助産婦さんと出会い「エーッまだなの?そりゃいかん」と医師に連絡をし診察すると胎児の心臓の音が聞こえにくくなってしまっていたそうです。今ほどにエコーだの何だのと言う時代ではありませんでしたので手遅れ寸前で「帝王切開」の決断をされ3日目の11月12日午前10時手術となり3100cの男の子を出産しました。

「オギャーッ」と産声もあげず弱り切った赤ん坊の鼻を助産婦さんが一生懸命吸います。どうも羊水を飲み込んでいる様です。しばらくして「オギャー」と蚊の泣くような産声をあげたそうですが私は3日3晩の睡魔が襲って来て、我が子の産声を聞いていません。よそ様の赤ちゃんではありましたが奇しくも11月12日は私の長男(零パパ)の誕生日です。これも何かの引き合わせと健やかな成長を祈りました。


[1679] 【1690回 家事は肉体重労働】 2008-11-10 (Mon)

何となくバタバタと10日間がすぎ、家事のタイムスケジュールも板についてきました。退職1日目はガレージの、中二階の大掃除。その次は階下の押入の片づけをしました。包装紙も「いつか使うかも・・・・」のこの「かも」が無駄なスペースを占領していることに気がつき片づけました。ご近所では「引っ越しするの?」と声をかけられるほどにゴミ収集車の来る日はゴミの山です。

今日は1階の模様替えです。のれんを冬用に掛け替え、テーブルを仕舞い、掘りゴタツにします。簡単にテーブルを仕舞いと書きましたが3階のサンルームまで、エッチラオッチラウントコドツコイと椅子4脚、デーブル板1枚、諸々の部品などを運ぶと腰痛を引き起こします。どなた様も、ポチと二人で仲良くすればと思うでしょうが・・・・ワンワンです。重たくても、しんどくても、腰痛になっても、一人でする方が快適に作業が進みます。(ほんまワンワンです)

しかしここに来て問題が発生しました。掘りコタツが収納している床下から出て来ません。うんこらしょ、どっこいしょと私の力ではどうしようもありません。今夜の夕食はテーブルなし、コタツなしでインド人の夕げの様に床に並べて食べなくてはなりません。キャハハハ

あっもうすぐ銀行に行く時間です。任意保険料を納付しないと新しい保険証が送付してもらえないのです。バイク?いいえ勿論、徒歩です。少し遠回りをして歩いて買い物もしてきます。ジャスコの階段を登って、降りて、速度を気にせずに姿勢よく歩きます。ラジオ体操のテープが入手できたので明日の朝からはラジオ体操を、ご近所の方達と広めます(エーッ6時30分から老人会主催で公園でやっているけど仲間に入るにはちょっと若いよ〜。だ〜れ似たり寄ったりだという人は)


[1678] 【1689回 まだまだ続く「送別会」】 2008-11-09 (Sun)

氷上工場の現場のおじさん達から送別会のお誘いを受けていました。しかし10月は先客多しで11月に入ってからということになり8日の土曜日の夕刻、千鳥橋付近に集合しました。5人と聞いていましたので「感謝の品」を予備も入れて6人分用意して行きましたがもうすでに6人集まっているのに、まだ誰かを待つ様子で内心(シマッタ〜足りないぞ)!

定刻になり10人の席が用意されていました。一人は遅れてくると言う辻君(広場に書き込みをしてくれた若者)で在籍している人は勿論ですが5年前に退職した方達も入っていました。「久田の姉ちゃんが辞めるって聞いたら、飛んで来んといかんやろ!」そして直属の上司もメンバーの中に入っていたのには驚きです。(14日も総務部の送別会あるのに申し訳ない)

乾杯のあと、思い出話に花が咲き、社員旅行とキャンプと言う共通の話題で賑やかになりました。社員旅行は夜の宴会のハチャメチャぶりをおもしろおかしく回想します。そして今は休止となってしまった社員旅行の事を嘆きます。職場は違っても共通の話題があると言うことで話しは尽きません。日光への旅行の際、中禅寺湖でひとり酔っぱらいの行方不明者が出て、呼び出しをしてもらうことにしたことがあります。「忙しいからあなたが呼び出しなさい」と言われ、久田の姉ちゃんの声が中禅寺湖に響き渡り、工場の中におるのかと勘違いしたと言うこと、フェリーの中で久田の姉ちゃんに怒られた事など、何故かいつも私が鬼のように怒っている場面ばかりで盛り上がります。船員さんに「責任者は誰だ」と言われ船長室に連れていかれ、何度も謝ったこと、今日のメンバーの順さんが船から消え、下船時に大騒ぎをしていたら、若い婦人会の中に混じっていたことなどで話題は尽きず、時間の経つのを忘れました。

酔っぱらっての帰りに仲間の家に泊まりに行くと「お前の家はクーラーもないんか!こんなクソ暑い所には寝れん!」とベランダに出て新聞紙を掛けてもらったことなど、とても温もりのある話も出てきました。ここで誤解を解きたいと熱弁「ベランダに布団を敷くと布団が汚れるので新聞紙を敷いたのだ」と言うと「そうか〜ワシャぁ新聞の上に寝かされたと今迄ずーっと思っていた。すまん、すまん」と15年ぶりに誤解が解けた様で、ゆたんぽの様にホコホコとする温もりのある仲間同士の会話に心地よく酔いの回るのも早かったです。

お開きの時間が迫ると、幹事さんが花束をさげてこられ「ごくろうさんでした」と手渡されたときは胸にジーンとこみあげるものがありました。そして再会を約束して「おじん&おばんの会」を立ち上げる話になりましたが私が強行に却下し「ゆたんぽ会」と命名しなおして、春の花見の頃に同じメンバーで再会することを約束して、みんなと別れ家路につきました。心のこもつた送別会をありがとうございました。「感謝の品」は追加準備をして、後日お渡ししたいと思っています。


[1677] 【1688回 小學國語讀本】 2008-11-08 (Sat)

『稲むらの火』
「これは、たゞ事ではない」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで經驗したことのない不気味なものであった。

五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られ、さっきの地震には一向氣がつかないもののやうである。村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまった。風とは反對に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。

「大變だ。津波がやって来るに違ひない。」と五兵衛は思った。此のままにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出来ない「よし」と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出して来た。そこには取り入れるばかりになってゐるたくさんの稻束が積んである。

「もったいないが、これで村中の命が救へるのだ。」と五兵衛は、いきなり其の稻むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。かうして。自分の田のすべての稻むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めてゐた。

日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。稻むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見つけて早鐘をつきむ出した。「火事だ。莊屋さんの家だ。」と村の若い者は、急いで山手へかけ出した。續いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。

高臺から見下ろしてゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やっと二十人ほどの、若者が、かけ上って来た。五兵衛は大聲で言った。「うっちゃっておけ。大變だ。村人の人に来てもらふんだ」村中の人は、追々集まって来た。五兵衛は、後から後から上って来る老幼男女を一人一人數へた。集まってくる人々は、もえてゐる稻むらと五兵衛の顔とを代わる代わる見比べた。其の時、五兵衛は力一ぱいの聲で叫んだ。「見ろ。やって来たぞ」

たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなった。廣くなった。非常な速さで押し寄せて来た。「津波だ」と誰かが叫んだ。海水が絶壁のやうに目の前に迫ったと思ふと、山がのしかかって来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとどろきとを以て、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかった。

人々は自分等の村の上を荒狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高臺では、しばらく何の話聲もなかった。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下してゐた。稻むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明るくした。始めて我にかへった村人は、此の火によって救はれたのだと氣がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。
          (文部省 尋常科用より)

http://聲


[1676] 【1687回 高野山 町石道】 2008-11-07 (Fri)

春先、友人から高野山・町石道を誘われていてスケジュールが合わず、じゃあ涼しくなってからねと言いつつ、これもスケジュールが合わず、遂に退職後の平日にということで、やっとお互いの時間の都合がつき行ってきました。新今宮から南海電車に乗り「九度山駅」で下車します。この九度山と言う地名は弘法大師が1ケ月に9回も御母公が晩年移り住んだ慈尊院に通ったことから「九度山」と命名されたそうです。

世界遺産となった「町石道ちょういしみち」の道しるべに沿って歩くとすぐに慈尊院のなが〜い階段があります。町石道を歩く人はかならずお参りを済ませてから行きなさいと書いてあり、素直に手を合わせて出発しました。すぐ山道に入り、たわわに垂れ実る柿を横目で見ながら進んでいきます。九度山町を語るのに欠かせないのが富有柿。明治43年に植えられた1本に始まって増え続け、今では日本一となっています〈2位は奈良県吉野〉柿の木まるごと1本が自分のものになる「柿の木オーナー制度」もあるらしいですよ。

高野山町石道は九度山町の慈尊院から高野山へ至る、約24キロメートルの参詣道で、五輪塔の形をした町石は高さ約2メートルの石造で高野山の壇上伽藍まで180本、伽藍から奥の院まで36本が立ち並んでいます。今回は伽藍から奥の院までは時間切れのためコースに入れていません。1町〈約109b〉ごとの道標で、人々が参詣登山するのこの道は、まさしく祈りの道、信仰の道そのものの感じがしました。24キロと言えばダイトレの3回分を一度に歩くのですから距離はありますが町石180からスタートをして160、150と弘法大師の足跡を歩くのも、また意義のある登山ではないかと「やまたび倶楽部」のコースにぜひお勧めしたいと思っています。

慈尊院でお参りをすませ柿のたわわに実る道を通り六本杉、古峠と土の道を快適にすすみます。二ツ鳥居という箇所があり鳥居がふたつ並んでいるのです。ここに東屋があり昼食をここでとることにしました。眼下には九度山の町並と紀ノ川をはさんで、かつらき町でしょうか、雨上がりのためにとても美しく見えます。3日前の産経新聞に高野山の紅葉はいまが最高と出ていましたが、まさにその通りで赤や黄色の錦絵の様な素晴らしい光景でした。ゴルフ場の側を通り、世界遺産に登録時に作られたであろう新しく清潔なトイレもできていました。

ふたたび杉の木立の中を歩いていく頃になると、少々疲れも出て冬時間のためか3時だと言うのに、薄暗くなつてきました。少しピッチをあげ町石の数の減るのを励みに120、110・・・・ゴール近くなると10、9、8、となってきました。大門に到着した時は日はすっかりと落ちバスの時間もまばらではありましたが何とかケーブル駅まで到着し橋本で乗り換えてなんばに到着した時は午後7時を過ぎていました。

「教訓です」
このコースは日没の早い時期はむかない
ヘッドランプはいかなる場合もリュックにいれておく


[1675] 【1686回 無口のバスガイド】 2008-11-05 (Wed)

今日は公安委員会の研修で和歌山県広川町の「津波防災センター」に出向きました。警察の方が行き先に困っていたため私は2度目ではありますが、この地を推薦し決定しました。濱口梧陵生誕の地で過去にこの話をしたことがあると思います。20人乗りのバスに13名〈此花の推進委員全員〉で午前8時30分西九条を出発しました。

高速に入ると、お決まりの会長挨拶、此花署の挨拶と連絡事項がありました。12月1日から施工される
@携帯電話等で通話をしながら自転車を運転する行為の禁止
A大音量で音楽等を聞きながら車両を運転する行為の禁止
この2点について罰則は5万円以下の罰金〈赤切符〉の説明がありました。ガイドさんが乗っていて「右に見えますのが関西国際空港でございま〜す」と進行方向に向かって座っての説明がありました。やっぱり座ってあっちむいてホイなんやね。

和歌山に入っても広川町に入っても濱口梧陵さんの説明どころか、産物であるみかんの説明、醤油発祥地の説明は一切ありません。丁度、飲み物を配りに来たので「ねぇ稲むらの火」の説明はいつするの?もうすぐ着くよ!?」とやさしく言うと「勉強中ですのでわかりません」と言い、目的地に到着しました。前方に座っているお客さんとはマイクを通してキャッキャッ笑っているのに、全くの勉強不足!

昼食を終えての帰り道、おまわりさんが「本職の昔のガイドさんが乗ってるぞ〜しっかり仕事しぃや〜」と皮肉を言うと「緊張しま〜す」と悪気のない返事。もうがまんがならず私が濱口梧陵さんの資料を持っていたのでガイドさんに進呈しそれを読むように言うと・・・どうも漢字が多かったみたいで「吉良上野介をヨシラウエノスケ」と読んだのと同じレベルで声を出して案内をしたのは関西空港の説明とトイレ休憩の案内だけでした。

このおまわりさん来年は定年のため観光バスを頼む時は「ガイド不要」と申し送りをするとカンカンでした。バスを降りるときに「小學國語讀本」尋常科用の教科書を進呈しておきました。旧仮名使いのため勉強になると思いますよ。


[1674] 【1685回 主婦業開始】 2008-11-04 (Tue)

会社に出勤している時は時間の経つのが、やけにゆっくりなのに家にいるとアレよアレよと時間が急に進んでいる気がします。朝寝坊が夢だったのにいつもの時間に目覚めいつもの様に化粧をしてしまいました。朝7時41分にウオークのお友達からのメールで『二度寝してませんよね、退職してもいつも通りに起きて、化粧して、家事もしてゆっくり片づけ様、出かけ様、しゃべろう、スーパーの時間制限のあるチラシを切り抜いて走ってください』というありがたい檄が飛びました。1パック98円の卵をゲットしましたよ〜

ご近所さんも今までは時間に限りがあるために朝夕の挨拶だけでしたがバイクがあり、ドアが開いていると、みんな寄ってきます。少しだけ井戸端会議をしてご近所の仲間入り。

明日は公安委員会の会合があり終日出かけますが、化粧は毎日する、身綺麗にする、太らない、自転車にのらない、ジャスコの階段を5階まで上り下りする、おやつは買わない、そんな努力をします。〈ここで公言しないと意志よわいからね〜〉

夕方ポチが帰り三つ指ついて「おかえり〜お風呂にしますか?それともごはん?」と言ってみたらキョトンとしていました。言われる方も、言う方も身にそぐわないと言うことがよ〜くわかりました。

この花会館梅香殿での11/2日のパーティの司会も滞りなく、失敗もなく終了しました。2部はカラオケタイムで事前にエントリーしている人を優先的に歌って頂き残りの時間を、当日希望者に歌って頂きました。300人は優にはいるホールに120人が入っていますので声量不足、音響不足、酒によるざわめき等で課題は残しました。出席者のたっての希望で〈強制的〉司会者に歌えということになりましたが、今日はスタツフに徹しているので勘弁して欲しいと丁重にお断りしましたが、それでも〈強制的〉に脅しをかけてこられ、やむなく「相撲甚句」で幕を閉じました。120人が一斉に舞台に注目する気配は心地よかったで〜す〈やはりギャラリーは多いほど熱唱できるね〉


[1673] 【1684回 ダイトレ最終回 終〜了〜】 2008-11-03 (Mon)

11月1日土曜日春先からシリーズで企画しましたダイトレウオークを終了しました。

第1回目  4月29日屯鶴峰〜平石峠
第2回目  5月10日平石峠〜水越峠
第3回目  6月 8日水越峠〜伏見峠
第4回目  9月 6日伏見峠〜紀見峠
第5回目 10月11日紀見峠〜滝畑ダム
第6回目 11月 1日滝畑ダム〜槙尾山〜施福寺

峠の多い、体にやさしい土の道ばかりで大阪にもまだこのような自然が残っていたのかとうれしくなるコースでした。葛城山で冷たい春雨に降られましたが、あとは季節の潤いを感じながら楽しく歩きました。全回を通してポチが先頭を歩かせていただきましたがみなさん、よく我慢をされましたこと!ごめんね。

最終回は滝畑ダムの吊り橋からスタートです。バスを降りて、くろねこさんがもぎ取ってくれた柿の配給をし(本当は昼の休憩までポチのリュックに入れておくつもりでしたが重さに耐えきれずスタート前に出した様です)くろねこさん、ごちそうさま。

寛子ちゃんも最初は「キャー吊り橋〜」と叫んでいましたが最近では、当時の恐がりはどこ吹く風で平気で通過。寿ちゃんとずいぶんトレーニングを積み重ねてこられた成果が見受けられました。集落を抜け「ダイトレはこちら」の看板を無視して道なりにすすむ先頭ポチに「ワン!」軌道修正し木立の中に入りました。最初の休憩は「ボテ峠」水分補給と行動色を体内に入れパワーの補給をしました。

番屋峠は休憩をせず通過、木戸院跡をぐるりと巻き、きつい上り坂をのぼります。やまたび倶楽部の会員であるという証の様なきつい登り坂ですが足並みをそろえて上って行きました。途中でPL塔が見えてきました(今頃忠太郎は仕事かな〜)登り終えたところが槇尾山頂上です。ここで昼ご飯かと思いきや、風もなく暖かいのでもう少し先のクライミングのメッカ「蔵岩」の上で食事をすることにしました。蔵岩に行く道をポチが再び「ワンワン!」こっちやこっちと飼い主の姫が先頭に蔵岩に向けて軌道修正をしました。

蔵岩の上には先客が1名、クライミングをしようかどうしょうかと迷いながら休憩をしていました(クライミングするにしてはリュック小さいぞ〜?)私たちの弁当はカレーです。何故なら前の晩に送別会で朝帰りをしたため前夜のおかずを温めて詰め込んできました。案外、山の上のカレーもいけるね。お昼の歌は「紅葉」と「旅愁」です。旅愁の歌詞の持つ意味を説明した後に歌うと、歌に心がこもり非常に美しいコーラスとなりました。先客の若者もコーラスに参加してくださり「いいですねぇ、久しぶりにこんな懐かしい歌を歌いました。この歌詞カード頂きたいです」と大変感心してくださいました。

午後からは下るのみですが、きつい下りに木の根につまづかぬように細心の注意を払いながら降りていきます。このような場所に出会ったとき私は「絶好の練習場」と考えて今迄、習ってきたすべての山登り方法を使うことにしています。「後ろ向き」に下るのもそのひとつです。「後ろ向きだと足下が見えない〜!」という人がいましたが、肩越しに足下を見るのも訓練のひとつです。持っている荷物の中のシュリンゲを出して利用するのも訓練のひとつです。

「ダイトレゴール」のプレートを確認し、トイレ休憩を終え施福寺を後にして一気に山門まで下りました。ここはアルファルト道で急な下りが膝に負担が、かかります。いかに土の道が足にやさしいかよ〜くわかりました。下り終えて、14人乗り(最大18人)のシャトルバスに乗るため時間を見たら2時間待ちとなるため4キロの車道コースを歩こうということにしました。さすが歩けの皆様でだれも反対する人はなく「満場一致」で徒歩決定。

大型バスの走り交う「槙尾山口」のバス停に到着するやいなやバスが来て全員ラッキー乗車です。打ち上げ会場のお好み屋さんに電話をして宴会時間を30分早めてもらいました(バスの車内で携帯電話してごめんなさいね)

和泉中央駅構内で全コースを完歩した人たちへ記念の名前入りタグの贈呈式が行われ大きな拍手が沸き起こりました。その後、時間調整のため構内で「ミニ講座」を開きました。和くんがリーダーの大きなリュックの中身を知りたがっていたためリュックの中味を公開し、みんなのための荷物の多いことを再認識しました。(いつもごくろうさまです)

お店に着くと私たちのために「貸し切り」の看板の粋なはからいがしてあり有り難かったです。21名で「かんぱーい」下見時にメニューを頼んでいましたのでスムーズに料理も運ばれて楽しい宴となりました。私は退職の日に女子社員達から贈られたアルバムを見てもらい彼女たちを誇りに思っていることを自慢しました。みんな我が身に置き換えて感動してくれました。あっそうそうお店に行く道を間違えたのはポチではありません。(ここは弁解してあげないと、もうポチが散歩に行くのを拒否しかねないのでネ)

またひとつ私の宝物が増えた気がします。


[1672] 【1683回 メッセージ】 2008-11-02 (Sun)

おだやかな朝を迎え、舅と姑の写真に手を合わせ感謝の祈りを捧げました。午前7時11分、広島に転勤した息子から労いメールがはいりました。健保組合の方からもメールや会社にはキティちゃん電報が届いていました。先日は東京支店の大きな息子から登山服とメッセージをもらいました。このサイトを読み続け、応援して下さった皆様、ありがとうございました。私は39年ぶりに卒業します。そして私は旅立ち新しい朝を迎えることができました。

皆様から頂いたメッセージです。この感動を忘れないために個人情報云々は抜きにして書かせて下さい。

●総務職に就く前には労働組合で労働歌の指導をしていた事、社員旅行ではみんなが楽しめるように細やかな気配りがあった事、相撲甚句を聞かせてくれた事、運動会は東京勤務のため出席できず残念であった事、東京支店に転勤になった時、母親の様に励ましのハガキや手紙、ダンポールに詰めた食べ物も届き、親戚も近くに居なくて、うれし涙を流しながら読んだ事、淡路島の台風嵐キャンプは青春の思い出であった事、自分の女房が入院した時、幼い娘にぬいぐるみを持ってきてくれた事、両親の葬儀にロケット発射の地の遠い海を越えて、しかも普通の顔をして現れたとき、自分の目を疑った事、最後は話をしなくても顔を見るだけで心が通じている仲間をまた一人失う寂しさで一人取り残された孤独感が一杯であると締めくくってくれていました。 (ありがとう)

●今日が最後日ですね。長い間お疲れ様でした。私はあと少しだけ頑張ります。貴方の様に何事にも正面から向かっていける女性に近づくのが目標です。  (ありがとう)

●長い間のお勤めご苦労様でした。また健保組合にも多大なるご協力を頂き、ありがとうございました。明日からは唄って登れる主婦ですね。末永いゴタゴタ・・ではなくご多幸をお祈り申し上げます。          (ありがとう)

●おはよう!いよいよ最終出社日ですね。長年本当にお疲れ様でした。色々思いがあるとは思うけど働く母の姿、そして参観日にはヘルメットを抱え一番に駆けつけた姿などは、息子の誇りだし、今、自分が親となり働く身となると、こんなに長く働き続けられる事に、ただただ敬服しています。ここから先は身体に気を付けて好きな事だけをして毎日楽しく過ごしてね。引っ越して遠くなったけどいつでも遊びに来て孫を抱いて下さい。広島へ転勤の息子より

★そして昼休み「娘さんが面会に来てますよ〜」警備室からの連絡で下に降りてみると大きな花束を持った嫁の純ちゃんが立っていました。「お母さん長い間、ごくろうさま」思わずキューンと抱きしめてしまいました。今夜から3泊4日の信州の旅に出かけるそうです。夫婦が仲良く暮らしていることが何よりの母へのプレゼント(いってらっしゃ〜い)

●言葉にすると、勤務39年で収まるけど実際は簡単じゃない事をとても感じます。ほんとにお疲れ様でした。これからは好きな事いっぱい楽しんでね  姪っ子より
                    (ありがとう)


[1671] 【1682回 おわった〜】 2008-11-01 (Sat)

平成20年10月31日(金曜日)おだやかな朝を迎えました。定年の日を迎えたのです。もう私の足跡は会社には何も残っていません。黒板シール、ロッカーシール、勤怠カードetc「久田美智子」と名前の付く物を全て片づけ、机の中もゴミひとつ残さず片づけました。花束や電報も沢山頂き、かかえきれない花束を持ち帰るために3回も自宅と会社を往復しました。有り難いことです。

39年間ありがとうございました。お世話になりました。私は卒業します。

最後の日の就業時間の5時を迎え、女子社員のみなさんに「送別会」をして頂くためにみんなでバスに乗り、会場となる「出入橋」まで移動しました。会場で楽しい宴がはじまり、私も飲み過ぎるほどに心地よく酔い、一人づつにメッセージを言ったり、写真撮影をしたり時の過ぎゆくのを忘れるほどでした。「ではここらへんでプレゼントを」と分厚くてズッシリと重いアルバムの贈呈式がありました。いつも贈呈する側でしたので頂く側のうれしいことと言ったら表しようがありません。開けてびっくりです!!制作にかなりの時間を費やしたであろう力作で顔写真とメッセージがギッシリと詰まっていました。

社長から大阪の社員は勿論のこと、氷上工場や東京支店、福岡駐在所、警備室のみなさん、食堂のおばさん、出入りのトラックのドライバーさんまで素敵な笑顔と私へのメッセージが書いてありました。これが「心のこもったプレゼント」と言わずに何といいましょうか。

11月1日の登山の会に持参してみんなに見てもらうことにしました。こんな素敵な贈り物を考える社員がいることをみんなに自慢したいのです。

一次会の会場を出て二次会会場に移る時、地図を広げ場所がわからないというので私も必死に東西南北を確認し探していると目の前に「やぁやぁ偶然ですなぁ」と言う聞き覚えのある声と見覚えのある顔!!!何と何と5時に仕事を終え、この二次会のために氷上工場から駆けつけてくれたのです。私は自分の目を疑いました。ほんまに偶然なのか、いやいやそんなはずはない、これは女子社員のみんなに一芝居喰わされたな!「偶然ですなぁ」なんてさりげない挨拶もまた心をくすぐりました。種明かしをしてもらい二次会会場でまたまた大盛り上がり。運動会の事、社員旅行の事、私が霊感(?)があるほどにみんなの行動を把握している事など、楽しく話していると「看板です〜」の店員の声に追い立てられ店をでたのが午後11時を過ぎていたと思います。11月1日は出勤日なのに大丈夫なのかと心配しつつ、名残惜しくもお別れをしました。記念品のクリスタルの写真盾は、うららちゃんが「いい顔してるね」と褒めて下さった送別会の写真を入れて飾ることにしました。

みんなみんなありがとうね。退職後は頂いたメッセージ集をここに載せたいと思います。とりあえずここで会社人の私に幕を引かせて下さい。沢山のみなさんからの、ねぎらいの言葉に感謝申し上げます。ありがとうございました。


[1670] 【1681回 定年退職まで  ★★ 1 ★★】 2008-10-30 (Thu)

いっ〜ちぃ〜  ★★あと1★★


「同期の桜で送別会」

10月29日「集合時間1分前男」と同期の桜による送別会をしてもらいました。お初天神入り口に6時30分の待ち合わせです。その前日メールが入っていました。彼はドタキャンの常習犯につき「ま。た。か。」最後の最後まで私を落胆させるのかと腹立たしい思いでメールを開けました。何と「必ず行きます!」の内容でした。ビックリ!

四貫島からバスに乗り終点の大阪駅までいくのですが「出入橋のきんつば」屋を窓ガラスから遠くに見ていたのは覚えていたのですが不覚にも眠ってしまいました。「もしもし終点ですよ!」ドライバーさんが折り返しの「酉島行き」になることを教えてくれました。(どこでもよぉ寝るやっちゃ〜)お初天神待ち合わせ場所の珈琲の老舗「にしむら」で待っていると何と4分前に「集合前1分男」がやってきました!思わず時間を疑いました。バスウオークの発車時刻でも「平塚のサッチー」と「1分前男」はやまたび倶楽部でも有名です。しかし今日は私の送別会と言うことで気を使ってくれ4分前の到着です。長い付き合いですが初めてのことです。全員集合したので、そこから阪急グランドホテル28階の土佐料理「司」へ。

私の故郷が土佐であることから苦労して探してくれたそうです。なつかしい皿鉢料理、ドロメ、土瓶蒸しなどのコースが出てきます。アルコールのメニューから「無手無冠の栗焼酎」を見つけました。「お湯割りにしますか?水割りにしますか?」の仲居さんの質問に「ロックで」と、まるで呑兵衛みたいな返事をしてしまいました。(笑)栗焼酎はロックに限ります。土佐の寿司も手長海老も、勿論、鰹のタタキもありました。「ラストオーダーですが・・」暫くすると「もう看板にしたいのですが・・・」すまん、すまんと店を出て「もう一軒行こう」と言うことになり北の新地を徘徊しやっと、お目当ての店に到着。時の過ぎるのを忘れ、会社の歴史を語り、熱が入りすぎて喧嘩モードに発展しはじめました。しばらく自由に口論させていましたが「ちょっと〜今日は私の送別会ちゃうの〜?喧嘩してる場合とちゃうで〜」その場を盛り上げるためにカラオケをジャンジャン挿入。

それで気が付いたら午前2時過ぎ。アッチャーもう電車はないし、朝帰りはコリゴリのため、お店でタクシーを呼んでもらい1台は此花経由伊丹。もう1台は反対方向へと別れて行きました。もし翌日沢登りに行くとしたら「ヘルメットと沢靴は忘れないでおこうっと」


[1669] 【1680回 定年退職まで  ★★ 2 ★★】 2008-10-29 (Wed)

いち、にぃ  ★★あと2★★

我が社には故郷を離れ、寮生活を強いられる社員が多数います。年末になると寮のお部屋掃除度チェックなるものを寮生立ち会いのもとに長年実施してきました。近年、個人情報云々が問題となったため廃止しましたが「久田さんのチェックが済んだら帰郷する」これが恒例でした。

チェック度リストを事前に渡して、ここと、ここをチェックするよと教え10点満点で採点をして行きます。新年初出のパーティの席で清潔度上位3位までを発表し記念品を渡していました。(これはポケットマネーで)1年に1度でも総務の立ち入り検査があると言うことだけで、しかも記念品付きとあって立ち入りの前だけきれいにしています。本来は常時その状態であってほしいのですが男子につき無理な要求で母親が「きったないなぁ!片づけなさい!」そんな母親の役割をしていました。退職の際も退寮に立ち会い見送ります。

最近「加齢臭」が話題になっています。匂いを消すサプリメントや柿石鹸などの商売も派手になってきています。家族のためにと汗水流して働き、疲れて帰ると「お父さん臭い!」という言葉を浴びせられる(特に女の子かな?)世のお父さんたちも大変ですね。その名前から、カレーのにおいと勘違いしている人も多いでしょう。(おるか〜そんな奴)しかし、本来「加齢臭」とは中高年特有の体臭を意味します。この体臭成分は青臭さと脂臭さを併せ持ち、男女ともに性差なく40歳代以降に増加が認められます。自分自身はもちろん、衣服などからチーズや古本のような臭いがしたら加齢臭と考えて間違いないでしょう。

世のお父さんたち、自分は臭くないから大丈夫なんて思っていませんか? しかし、それは単なる思い過ごしかも知れません。先にも述べたように40歳を過ぎると、中高年特有の体臭いわゆる「加齢臭」が姿をあらわします。そう、男性にとって40代はまさに「ニオイの曲がり角」なのです。中高年いわゆる「おじさん」「おばさん」と呼ばれる人たちから発せられる独特なニオイを「加齢臭」といいます。

お父さんのパンツは臭いから洗濯物を別にすると聞いたことがありますが、お母さんはその時、どのように子供達に説明しているのでしょうか。仕事で汗をかき臭うこともあります。加齢臭なんて言葉、昔はなかったと思います。我が家は男の子でしたのでポチに対して「親父!くさ〜い」なんて言ったことはありませんでした。言えば私に叱られることも承知していたみたいです。汗が臭うと気になるときもありますがこれは運動による不廃物の排出臭なのでそう気にしなくてもいいのではないでしょうか。自分が気にするほど周りは気にしていませんよ。

ウオークではゴールで汗をかいた衣服は着替えるといいかも知れませんね。リュックにいれても「500c」ほどしか重くなりません。リトル比良に行ったときはゴールで流れる汗と雨に濡れてトイレにかけ込みパンツまで履き替えました。いつでもお風呂に誘われても行ける様にリュックには入れています。


[1668] 【1679回 定年退職まで  ★★3 ★★】 2008-10-28 (Tue)

いち、にぃの さん  ★★あと3★★

周りも一段と騒々しくなってきました。生命保険会社の「代診担当者」としての長年の任務に敬意を表して頂き関係者の方がご挨拶に来て下さいました。アポなしのため外出していたら「お帰りになるまで待たせて頂きます」とのことで10分少々を待たせてしまいました。この方はJR駅の階段で、後ろから来る人混みに押され、残り3段残して転倒、脊椎骨折で3ケ月療養、2ケ月リハビリののちに職場復帰されたそうです。医療保険を掛けており有り難かったと自社製品のPRも忘れない(あっぱれ〜)みなさんも階段を下る時は手すりのある端っこを利用しましょう。出来れば手すりを利用して下さい。災難はどこで待ち受けているかわかりません。明日は我が身と気を付けましょう。

午後からは運動会開催時に、いつも無理を申し上げてグランド確保に協力を頂いた鈴○運送の社長を訪ねました。私の会社の運動会が成功した陰にはこの社長のお骨折りがあったことを退職にあたってきちんとお礼を申し上げたかったのです。グランド使用については1ケ月前の抽選というルールになっています。しかし会社行事というのは1ケ月前どころか1年前から計画し日程を組み、予備日まで決定した上で準備を進めていきます。プログラムも完成した後に「グランドが借りれなかったので別の場所で」あるいは「中止」ではなりたたないのです。鈴○運送の社長には地域の有力者ということで便宜を計っていただきました。本当に感謝申し上げます。

運動会でも他の行事の時でもですが(株)ジョン様の会社にも大変お世話になりました。ジョンさんも、息子さんも娘さんも総出で協力をして頂きました。私が健保組合の準職員扱いであったように、この3人は阪神の準職員いいえ正社員を越える働きぶりでした。彼たちの働きぶりを知らない新入社員も多くなってきましたが工場の中で共にキャンプ、運動会を過ごした社員もいて、私とともに感謝している者も残っていることをここで改めてお知らせし、お礼の言葉と致します。長年にわたるご協力ありがとうございました。私が総務職を全うできたのは、理解ある上司と(株)ジョンのご協力があったからだと思っています。

★ジョンは昔は、私が転ぶ前に必ず手を差し伸べると言うのが口癖でした

ひとりでは何もできません。多くの皆様の協力があって福利厚生、会社行事は成立します。「これなんぼ?」とあまり細かい計算ばかりしていては成功しません。普段はつつましく、ある時はメタボ・・じゃなかった太っ腹で行きましょうよ。そして成功の暁には、協力してくれたもので盛大に打ち上げをしてください。打ち上げ大好き人間としては「最後の打ち上げは行事よりも大事」を忘れないでほしいと後輩達に伝えたい。なぜならば必ず次のエネルギーに繋がるから!!ガンバレ残された私のかわいい息子達、娘達よ!!


[1667] 【1678回 定年退職まで  ★★4 ★★】 2008-10-27 (Mon)

★★あと4★★

泣いても、笑ってもあと4日を残すばかりとなりました。今日は会社に祀る「お稲荷様」のことを書いてみたいと思います。

当社の屋上にはお稲荷様が祀られています。6階建てのビルを建設する前は工場の端に鎮座しており、信仰心のある社員は、朝となく夕となく手を合わせていました。しかし場所が屋上となると11月(現在は10月)の稲荷祭以外は訪れる者もなく、私が毎月1日に榊を替えるために訪れるだけとなってしまいました。お稲荷様は五穀豊穣と商売繁盛、大漁の守護の神様としての御利益があるため大切にお祭りし、当社の「商売繁盛」を祈り続けてまいりました

狐と赤い鳥居がお稲荷様のシンボルですが、狐は神の使いとして、赤い色は豊年を象徴する色として信仰されているからだそうです。昔、在籍していた女子社員が「宝くじが当たりますように」と稲荷神社に油揚げをお供えしてお祈りしていたことがありました(笑)

この神事は平成20年10月の稲荷祭で私が係わる最後の仕事として、後任の社員に引き継ぎを行いました。お供え物については、全て写真撮影をして保存、海の幸、山の幸などのいわれを説明し、提灯のお狐様の左右を間違えぬ様に、御神酒の入れ物は間違えぬ様に、鯛の尾の方向、野菜の頭の方向など、こと細かに伝授致しました。

私が入社した昭和44年頃は11月の創立記念日(土曜日の休日に実施)にはお稲荷様に通ずる道には、のぼり旗を沢山立てて、社員の家族も得意先も近所の人達も呼んで盛大にお祭として実施していました。毎月1日にはお饅頭をお供えし、3時のおさがりを全員で頂くと言う風習もありました。工場からビルの屋上に移動する際には宮司さんによる魂の移設式(正式には何というか忘れました)を厳かに行いました。私も立ち会わせて頂いたことを懐かしく思い出しています。それくらい大切に大切にお祀りしています。これを鼻で笑うものは必ず報いがあると思っています。(そんな言い方をすんなと怒られそうですが、それくらい大事にしてよと言う意味です)私は無神論者で信じる神は自分の父母先祖だけと思っています。しかし創立者から受け継いだお稲荷様については別格の扱いをさせていただきました。これからもそうしてほしいと思っていますし、そのように引継ぎを致しました。31日は私が榊を買わせてもらい、いままでのお礼を申し上げたいと思っています。


[1666] 【1677回 定年退職まで  ★★ 5 ★★】 2008-10-26 (Sun)

★★あと5★★

土曜日の鼻からの「胃カメラ」を終えたその足でプライベートでキャンプに行きました。行き先は雪彦山の西麓にある「鹿ケ壺」というキャンプ場です。事前に予約を入れると「この時期、あなた達だけですから自由に使って下さい」とありがた〜いお言葉を頂きました。退職5日前にして顔などをすりむかないように細心の注意が必要です。ハイキングも出来る「千畳平コース」もあり約2時間でゴールができそうです。ほかに雪彦山周回コース約5時間半などがあります。私は「滝壺コースを選ぶ事にしました。

キャンプ場に手続きを済ませ、テントを張ります。今回のトレーニングの目的は、新調品のテントをいかに手早く張り、撤収するのかを学ぶためです。北鎌尾根などの縦走ではひとりに負担がかかることなく参加者全員が同じ力を出すことが必要です。テントが張れたら日暮れ前に食事の用意をしました。

途中のスーパーですき焼きの買い物をし、あれもこれもカゴに入れたい坊やを監視しながら必要最小限の買い物を済ませました。今回は「山中でする食事の仕方」も含まれています。野菜はゴミを出さないためにカット野菜と、豆腐、肉、卵、朝食の芋がゆ用に芋と梅干しとめざしを買いました。薄アゲとミョウガも酒の肴に買いました。

「ごくろうさんワイン」はワインではなくてシャンパンだった様でパーンッと威勢の良い音を山に響かせキャップは遙か彼方に飛んでいきました。「とりあえずかんぱ〜い」それから油揚げの中に細かく刻んだミョウガを詰め、フライパンでやきます。焦げ目が出来たところで醤油をかけて頂きます。うまい!さあ今度はいよいよすき焼きです。鍋奉行「佐介守」の手際の良さに圧倒され美味しい肉をまず食べそののちに野菜を入れて肉の旨みをたっぷりと味わいます。極めつけは「すきやきおじや」です。完食です。雪彦山から疲れ果てて戻った登山者達がうらめしそうに匂いだけかいで帰っていきました。

さあ寝ようかと時計をみれば、まだ5時30分。こりゃ早すぎるということで翌日のコースを焼酎を飲みながら検討し、午後7時には寝袋の中に入りました。翌日はさわやかな朝を迎えました。朝がゆと白ご飯を炊き、白ご飯は昼食用のおにぎりにしました。めざし、梅干しと豪華ランチです。デザートは管理人さんの庭先でもぎ取ってくれた柿です。

キャンプ場をでるとすぐ尻壷、五郎在壷、鳥のシコミ、雑桶壷、五郎田壷、駒ノ立洞、底無、オハグロ壷、鹿の寝姿に似た「鹿ケ壺」など、短い距離の間に形の異なった滝が沢山ありました。夏はここで「滝滑り」を楽しんでいる場所の様です。今年はこれで「滝登り」シーズンオフ。あとは、やまたび倶楽部の皆さんと一緒に沢登り講習に参加をして「黒部の赤木沢」に行きたいと思っています。


[1664] 【1676回 定年退職まで  ★★ 6 ★★】 2008-10-25 (Sat)

★★あと6★★

私にヨイショしても、取引量、仕事量には全く関係のない業者様から送別会をして頂きました。「お気持ちだけで充分です」とお断りをしたのですが「まあまあいいじゃありませんか」と言う事になり、西九条の私の好きなお店(私はあまり飲めないので料理がめっちゃ美味しい店)こんなうれしい事はありません。一度は断って二度目ですぐOKしちゃいました(笑)どうしても仕事で都合がつかないお客様は、わざわざ会社を訪ねて下さり、「ごくろうさんワイン」を頂きました。夏の研修会の中で色々経済の話を聞いたが一番印象に深かったのが「歯の健康」の講義だったそうです。あの時は私が講師を見つけて来たのでうれしくなっちゃいました。何を隠そう、その印象に残る講師とは、サスケ先生のことだったんです。お別れに頂いたワインは25日から行く「安富キャンプ場」のテントの中で乾杯したいと思っています。三重のお客様からは「伊賀牛」が届きました。言っておきますが「牛」が届いたのではありませんよ(わかってるって〜)

還暦の時は「祝いムード」だけでしたが今回は「寂しさムード」があります。24日は東京支店の皆様が労働組合の行事で本社を訪れ、全員が一列に並び「長い間、おつかれさまでした!」と花束をくれました。思いがけない「銀座の花束」に感動しました。退職した次の日から同じ時間に起きて同じようにバイクで出社するのではないかと心配しています。ビルの5階までの階段登りも急に中止して体力が衰えたら夏山に行けなくなるためカリュキラムを組み、規則正しい生活をしたいと考えています。が、しかし、退職後私がしたいことは「朝寝坊」です。ポチを送り出したら「二度寝」をして、太陽が顔を出したら洗濯をして蒲団を干しての、ごく当たり前の主婦業がしてみたいです。勤めていると雨であろうが嵐であろうが、とりあえず夜の間に洗濯をしてサンルームに干す。乾こうが乾くまいがそれは、二の次なんです。蒲団なんて、いつ雨が降るかわからないために干せません。だからいつも我が家は蒲団乾燥機仕様なんです。お日様ポカポカがしてみたいのです。

こう考えると私の希望なんてちっぽけでしょ?朝寝坊に太陽待ち、ちっともお金がかかるわけじゃないしいつでも受け入れてもらえそうです。そのかわりポチが変貌しそうでこ〜わ〜い。今までは仕事で遅くなって食事が遅れても、粗食でも、文句ひとつ言いませんでした。しかしこれからはそうも行かなさそうです。

来年の春からは家庭菜園をするつもりです。今年はナスビを一度も購入せずに自家製ですませました。採っても採っても花が咲き、実がなり楽しかったです。しかし種が多いのはどうしてだろうか(誰か教えて〜)土地がなくてもプランターでもペットポトルを工夫してでも出来るんですよ。早く春がこないかなぁ


[1663] 【1675回 定年退職まで  ★★ 7 ★★】 2008-10-24 (Fri)

★★あと7★★

23日は氷上工場へ最後の挨拶にでかけることにしました。途中で昼食タイムを西紀サービスエリアで取ることにしました。ここには「限定30食」の名物弁当があります。(以前にもたしかご紹介しました)大阪から舞鶴方面に向かうSAしかなく午前11時からの販売です。今日のメニューは

●野生の猪肉(丹波で獲れた野生肉)
●百日地鶏(唐揚げ、虹鱒の素焼き)
●市島桜卵(桜海老の彩の焼き、舞茸の天麩羅、黒豆の甘煮)
●丹波篠山コロッケ、菊花蕪、菜の花、焼き栗
●市島 合鴨米の八穀ご飯、蓮根饅頭の餡かけ、メロン
●柚子釜 黒豆入りプリン

以上がヤナギゴオリの器に所狭しと入って出てきました。今日限りで、もう氷上へ足を運ぶこともないのかと思いながら丹波名物をしみじみと味わいました。

食後は工場に向けて車を走らせます。ひとりひとりの社員の皆様に、お別れの挨拶の声をかけ記念品とメッセージを手渡しました。我が社は製造業につき、現場の人が最優先というのが私の信念でしたので最後まで現場から先に挨拶を済ませました。設計、事務所、社宅と、ほぼ全員の挨拶を済ませ、やっと大きな「一区切り」を終えました。(正ちゃんだけ出張でした〜最後までお騒がせ〜の同期の桜です)同期の桜とは29日に一献を傾けることにしています。(またギリギリに到着なんでしょうか?)

往路は若葉マークの後輩の運転で、復路は私が交代しました。若葉マークをそのまま貼って帰ろうとすると事務所の中から「お〜い、お〜い」と大声で呼ぶ声に忘れ物でもあるのかとブレーキを踏みました。何事かと降りてみましたら「マークが違う〜!マークがっ!若葉じゃなくて紅葉やろ〜!」そんな事で車を停めないでよ〜。でも、美味いこと言うじゃありませんか〜!こんな冗談を飛び交わせるのも今日限りかと思いながら後輩と二人で爆笑しながら阪神高速の混雑にも遭わずスムーズに戻ることができました。


[1662] 【1674回 定年退職まで  ★★ 8 ★★】 2008-10-23 (Thu)

★★あと8★★

18日の若者達による送別会の写真を「姫ブログ」に載せました。肖像権がどうのこうのと言う悪質な参加者はいないため私の喜びのしるしとして載せました。先に帰った人は映像に残らずごめんね。それから花を贈ってくれた靖っちゃん、奈津っちゃん、久美ちゃんも花束の中に映っている気分でハイパチリで〜す。

警察関係のM部会長から「完投勝利おめでとう」という内容のメールを頂きました。私を役員会議の結果「名誉顧問」で残すことになったらしいですが、有り難いお言葉として頂いて、静かにそっと社外の会は引くことにします。いまなら惜しまれて汚点を残さずに去っていけそうです。安全管理者部会の中で受けた皆様からの温かいご指導と応援は生涯忘れることはありません。

社員からうれしいお便りももらいました。新入社員時代に慣れない寮生活もあり、不安な日々の中、声をかけて貰ったことがとても心強かった事、会うたびに身体のことを(メタボ?)気にかけて頂いた事、社員旅行の時にシュークリームロシアンルーレットでわさびや辛子を食べさされ楽しい思い出となった事を書いてあり、私も思い出してプッと吹き出してしまいました。(あったなぁ〜楽しかったなぁ〜)最後に私の身体の事を案じて文を閉じてくれています。お世辞にも達筆とは言えませんがパソコンやメールの時代の中で温もりのある手紙で、とてもうれしかったです。この手紙を書き上げる間は私のために時間を割いてくれたことに感謝をしています。私自身「書く」と言うことが苦になりませんので「筆マメ」の部類に入ると思います。社員の結婚式の時、列席者ひとりひとりに手書きのメッセージが添えてあったとき感動し今回の退職挨拶に100人の社員にそれぞれ思い出をメッセージに残しました。相手に心を伝える時は器械に頼らず「手書き」がいいですね。

ひとりづつメッセージを渡した成果で、お互いが忘れていた絆を取り戻した様に思います。特に、入社時のことはご本人は忘れていることが多いです。あの時、もう少しやさしい言葉をかけてあげていたらと悔やむ事もあります。「規則、規則と、うるさいばっかりで早く辞めたらいいのに!」と思っている人も沢山いると思います。それはそれとして真摯に受け止めます。もう少し、あと8日もすれば晴れ晴れとしたリラックスした平和な会社になりますよ。それまで辛抱してね。番犬ポチが言います「11月からは普通のおばはんになるんやから会社と言う肩書きでは、もう生きていかれへん。会社という組織があったから声かけてくれたんや」と。ポチの言葉は理解に苦しみますが11月からそう言う場面に出合うのかどうか期待しています(苦笑)とにかく私の中で何かが変わろうとしています。みなさんに迷惑のかからないように生きていくつもりはしていますが時々、軌道修正のアドバイスをお願いします。

23日は氷上工場に出向き、お別れのご挨拶をしてこようと思っています。


[1661] 【1673回 定年退職まで  ★★ 9 ★★】 2008-10-22 (Wed)

「阪神とタイガース」

阪神タイガースが優勝した年は当社の景気はどん底だと金庫番がいいますが、昨夜の試合は何かが物足りなかった気がします。試合の詳しいことは「トラ吉」に任せておきますが「野球は9回から始まる」を証明した様な試合でした。さぞかし焼酎のピッチが早かったのではないでしょうか。丹波の黒豆を肴にして飲みましょうかね(勝っても飲むし、負けても飲むやんなぁ) 

ちょっと目を離したスキに岡田はんが胴上げされてたので「えっ優勝か?」と思わず勘違いをしてしまいました。な〜んや、優勝やなくて感謝の胴上げやったんや。クライマックスシリーズのカレーライス付きの切符はいりませんかとホテル阪神の営業マンが聞いてきたけれど球場まで行って応援する気はなかったです。やっぱり何かが足らんかったんや。

巨人に最大13ゲーム差を逆転されて優勝を逃したリーグ戦やもん、岡田はんは辞めても仕方ないなぁ。藤川の悔しそうな顔・・・・見てるのつらかったわそう言うたら阪神の社歌を相撲甚句で作ったことがありました。結構、場末のスナックで歌いましたが忘れないためにも書きとめておきますね。

♪♪コロリコロコロあっさり負けて〜おでんやないねんタイガーでんねん♪♪この歌知ってますか?石川さゆりが歌ったタイガースの応援歌です。なんで流行しなかったかと言うとタイガースファンに「縁起でもない」と嫌われたとか嫌われなかったとか・・・ほとんどのタイガースの選手の首にかけてる健康器具、あれ効果あるのんかなぁ。あったら9回で2点もいれられへんで〜中日の選手はしてなかったように見えたけどなぁ

♪♪阪神動力 甚句に詠めばよ〜 ハァ花の浪花を廻るよに グルリと廻るは環状線 大阪駅より内廻り〜福島、野田駅すぐ過ぎて〜 西九条駅に降りたなら〜阪神電車に乗り換えて 2分足らずで千鳥橋 千鳥橋駅に降りたとて〜 右も左も解せぬなら 犬猫小石に聞いたとて 阪神動力 すぐわかる〜誰でも教えてくれまする〜(中略)とまぁこんな社歌でした(笑)

そんなわけでタイガースが優勝しなかったということは当社の景気は上向きだということになりますね。今日は真弓と面接やなぁ!


[1660] 【1672回 定年退職までのカウントダウンあと10日】 2008-10-21 (Tue)

とうとう残すは、あと10日となってしまいました。昨日20日は会社の支払い日で多くの業者さんが集金にお見えになりました。どこからか耳にしたのでしょうか、退職の話をみなさんがご存じの様子です。ある人は「そりゃいかん!儂が社長はんに掛け合ってやる。そりゃ困る!」と言ってくださいました。退職を決めたのは社長ではなく「私自身」ですから。ある業者さんは「23日に伺いまっさ〜」うれしいお話なんですが23日は私は氷上工場行きですからと丁重にお断り申し上げました。あんまり周りに騒がれると別れがつらくなります。最近私の上司も無口になり、何やらご機嫌斜めです。いつも冗談を飛び交わせる仲なのですが妙に無口で、上司の中にも「カウントダウン」が始まっているように感じました。

再雇用制度という国が決めた制度の施行で本人が働く意志があるならば65歳まで継続雇用をしなければならないと言うことになっています。(61歳から65歳までは1年毎に契約更新)私は自分で60歳で退職をしたいと早くから決めていました。辞めて何をするのかと皆さんが聞かれますが、わかりません。しかし今が潮時だということは自分自身が一番よく知っています。私達の時代のように「義理人情」を優先したやり方は今の景気不安定な時代にはついて行けないのです。「1円でも安いところで買え!」そんな時代についていけないのです。会社の不景気な時代に業者さんに無理を言って協力をしてもらって生き延びてこれたご恩は忘れないで欲しいです。

もう引き継ぐ事は全て終わりました。後輩が言います。「久田さんのいる間に何かアクシデントが起きれば、それがまた勉強になりますから」とアクシデントを期待します(笑)そうそう。その心がけがあれば大丈夫。乗り切っていけますよ。机の中を整理し、制服をクリーニングし、ロッカーの名前シールを剥がし・・・・と着々と最後の日を迎えるべく穏やかに過ごしている今日この頃です。故郷の母なる川「四万十の筏羊羹」を取り寄せました。ひとりひとりにメッセージをつけて退職の日に渡したいと用意しました。ほぼ99%の社員の皆様に行き渡ると思います。

さあ!明日からは9★8★7★6★5★4★3★2★1★と声を揃えてカウントダウンに参加して下さいね。


[1659] 【1671回 定年退職までのカウントダウンあと11日】 2008-10-20 (Mon)

パソコンへの対応

私が入社した昭和44年頃は、ほとんどの書類が手書きで当社には、唯一「邦文タイプ」の器械がありました。文字盤は反対文字で字列は覚えるしかなくポッチン、ポッチンとひと文字づつ探して打っていくのです。直接その仕事には携わってはいませんでしたが担当の女性が休んだ時、急ぐからと見よう見まねで打ち始め、スピードを上げていきました。このころ会社には給与システムのパソコンがたった1台しかない時代でした。

あれよあれよという間に設計の図面は手書きの製図板からキャドに代わり、パソコンが導入され、ひとり1台の時代になるまで、そう時間はかかりませんでした。大卒の女性達は学校でマスターをして入社していますので、とても順応性があり見事でした。ついて行かれないのは今まで手書き100%時代の我々でした。かと言って部下に教えてもらうのも気が引けて定時終了後に手引きをみながらポッチン、ポッチンと練習を始めました。

来る日も来る日も練習を重ね、何とか「電源をいれて立ち上げて文章作成し消す」ことができるようになり、そこからは罫線を引く、枠組みを作るなどのこまかい仕組みを若い女性社員に教えてもらいました。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と心に決めパソコンに関しては私の方が新入社員となったのです。私の一生懸命さが教える若い女性社員に伝わったのか「私が先輩に教えたってる」という姿勢も見せず、親切に手ほどきしてくれました。そのときに教わった事は一冊の大学ノートにしていますが今開いてみると「こんな事書かなくても・・!」と思うことが所狭しと書かれています。しかしその時は必死だったことが伝わってきます。このあっちゃん先生は今は退職してしまいましたがその後に後任として「千鶴先生」のおでましです。SOSを何度出しても、笑顔で対応してくれました。「一太郎」しか対応できない私に「エクセル」のてほどきを教えてくれました。つい最近結婚して幸せな家庭生活を送っていますが、今も我が社の戦力として勤めており、私が退職した後は一番の古株として頑張ってもらえると信じています。

経験年数や年齢などを気にしなければ不得意な者が得意な者へ指導を受ければコミュニケーションも深まりますし会社のためにもなります。採用基準に「エクセルはできますか?」「表計算はできますか?」などに重点をおくより「人間性重視」の方がいいと思います。入社して少し時間はかかりますが若い人の飲み込みは優れています。     

仕事を伝授する時は、教える側が「書いて説明」また教わる側も「さらに自分のノートに書いて覚える」これが一番の近道だと思っています。パソコンの画面を見せながら口頭で仕事を伝授するのは教える側も「この前教えたでしょ」が出て、教わる側も「覚えていません」が出てしまいます。職人さんでも「オレの仕事を見て盗め」はもう古い伝授のやり方の様です。「文書で伝達、それから見て盗め」だと思っています。真心もつけて下さいね。


[1658] 【1670回 定年退職までのカウントダウンあと12日】 2008-10-19 (Sun)

「久田さん24日空いてますか」
「別の送別会の予定があります」
「じゃあ突然ですが18日は空いてますか」
かなり強引なスケジュールの問い合わせでしたが熱意が伝わって来ます。ありがたいことですので18日を氷上工場メンバーの送別会の日と決めました。とにかく西九条の駅でひとり迎えに行かせるので弁天町まで移動しろと言うことでした。西九条で待ち合わせをし、久しぶりの再会を喜び、何の疑いもなく4番線に入った電車に乗り、次の駅で下車しました。(弁天町駅のつもり)

予定時間がすぎても誰も来ません。集合時間が過ぎると携帯電話に着信があり、そこで初めて弁天町駅ではなく安治川口駅にいることに気が付き、20分遅れで弁天町へ到着しました。「どうしたんすっか〜?此花の人間が〜!」とあきれて物が言えないらしい。(だって〜4番ホームは弁天町方面行きだもんなぁ)会場に到着すると何と見覚えのある顔が大勢並んでいました。私は3人で飲み会と聞いていましたのでびっくりです。現役の社員は勿論、2年前に辞めた元社員、5年前にやめた元社員、なかには姑に子供を預けて参加の元女子社員もいました。安治川口駅に間違って降りたことを詫び、乾杯がはじまり色々な思い出話に花が咲きました。

「ボクはキャンプの時に場所取りに先発隊で行かされましたが今となっては良い思い出です」「久田さんが現場の中を通ると緊張した」「辞めたいと思った時に、間髪入れずに辞めたらあかんと説得されて今の自分がいる。何でオレの心の中がわかったのかなぁ」「妊娠中に、やさしい言葉をかけてもらった」とか、まあまあ今日は私がゲストですからお褒めの言葉も酒の肴になり、心地よくほろ酔い加減となりました。

幹事が席を立ち「本日のスペシャルゲスト登場〜」と一人の青年を連れてきました。この青年は12年も前に退職したにもかかわらず私の退職を聞き、家族と旅行に行っていた所を、旅先からひとりで帰ってきて合流してくれたとのこと。胸の熱くなる思いでした。「さあもうひとつのお楽しみ〜」と合図をすると店の人が、抱えきれないくらいの大きな花束を持ってきてくれました。すでに退職してママとなった女子社員が、どうしても子育て真っ最中で参加できないこと、ごくろうさまでしたのメッセージを添えて、ねぎらってくれました。

しばらくすると手品師までもが来て(この人は有料で営業のため)風船を使って手品の数々を見せてくれ宴会を盛り上げてくれました。店を出たのが午後10時30分。斜め前にあるカラオケボックスに全員なだれ込みました。歌う者、おしゃべりする者、居眠りをする者と広い部屋はリラックスムードで盛り上がること、盛り上がること。

翌日が仕事だという氷上在住の元社員が帰り、姑に子供を預けているというママが帰り、あとは時間も忘れて、深夜まで歌い続けていました。曲目は新しすぎて私にはついて行くことはできませんでしたが、時折入れてくれる演歌にも静かに耳に傾けてもらいながら、気が付くと終電車はもうとっくにありません。私はタクシーを利用すれば、あっという間に帰宅できますが、堺、羽曳野、富田林、住吉と、てんでばらばらの帰宅場所につき始発電車を待つことにしました。60年と6ケ月生きてきましたが「朝帰り」は生まれてはじめてです。

「腹減った〜」という声を合図にカラオケボックスを出たのが午前4時30分、ラーメン屋をさがしましたがどこも空いてなくて午前5時06分発西九条方面、午前5時12分発天王寺方面と、それぞれに別れを惜しみながら車中の人となりました。19日の朝8時から氷上で野球の試合があると言ってた社員もいましたが安全運転でお願いしますよ。

心のこもった送別会をしてもらい本当にうれしかったです。11月になったらいつでも暇だから急がなくてもと言いましたが「10月31日付けの退職なら、何が何でも10月31日までにしたかった」という幹事の並々ならぬ気合いと努力と熱意に感謝をしています。私自身も11月に入ってからのお誘いだったら「その気持ちだけで充分」と丁重に断っていたと思います。私が会社を去るのは、あくまでも10月31日ですから!。幹事の青年は、こんな私の性格をよ〜く把握していたのに感心しました。だから余計にうれしかったんですね。短期間でこんなにも多くの社員やOBのみなさんに連絡をとってくれたことに驚きと感謝の気持ちでいっぱいでした。ありがとうございました。

「鬼の久田の目にも感動の涙あり この青年達に幸多かれと祈る 感謝」


[1657] 【1669回 定年退職までのカウントダウンあと13日】 2008-10-18 (Sat)

●(富士山その1)
終末の休みを利用して「富士山」登山に行く途中、東名で燃料切れしたことがありました。ジョンさんとポチが交代で運転をしており、ポチが運転していた時に音もなく停止してしまいました。あれよあれよと言っている間に燃料切れとわかりJAFを呼ぶのですが、待つ間の恐かったこと!車は走行中の車の風を受けて大揺れに揺れるし、JAFはなかなか来ないし・・・やっと到着したとおもったら、わずか何リットル分しか給油がありません。次の給油装置のあるSAまでの燃料しか補給しないという事らしいです。無事給油をし次のSAで満タンにし、霧ヶ峰付近で車中泊を決めました。車を端に寄せた途端「ガタンッ」と後輪が溝にはまってしまいました。脱輪です。夜中のために通行車両もなくどうしたものかと思案に暮れていたらバリバリバリと暴走族の車が走ってきました。これは連れの車もまた来ると踏み。車道に出て人間バリケードを張り、暴走族の車を停めました。停まってくれなければ曳かれてしまいます。停まったとしても何をからまれるか生きた心地はありませんでした。脱輪をしたことを話しても、無言で去っていきました。やっぱりあいつらは暴走族なんやとあきらめて途方に暮れていたその時です。大勢の暴走族の車が何台も私達の車を取り囲みました。「キャ〜犯される〜」

無言でライトを当てる車、ロープを取り出す車、と手際よく、何と助けてくれるではありませんか。あっという間に脱輪をした車はもとに戻りました。「ありがとうございましたお名前と住所を聞かせて下さい」と言うと「オレ達何もしてないっすよ」と急にオドオドして名前も告げずに暗闇に去っていきました。きっと私達が警察に暴走行為を通報するために名前と住所を聞いたのだと勘違いしたようです。その後にブルルンブルルンと闇の中で聞こえていましたが「事故らんように気をつけてや」そんなやさしい気持ちになれたのが不思議です。外見で人を判断してはいけないという教訓でした。

●(富士山その2)
「久田君!あれは富士山だよ!」
年末に忘年会の誘いを受け新幹線で箱根に行ったこともありました。ある日東京支店の有志の皆様から新幹線の切符が郵送されてきて「ぜひ箱根の忘年会に参加を」とのありがたいお誘いでした。ふたつ返事で東京支店の人達と合流し、2台の車で箱根に行くこととなりました。見る物すべて新鮮で旅行気分でした。夜の宴会までの時間を散策することとなり、目の前にそびえ立つ大きな雄姿の山に見とれていると当時の所長が寄ってきて私が「素敵な山ですね」と言うと「久田君、あれは富士山だよ」と大笑いされたことがありました。私の中では、頂きに雪が積もり雲がかかったのが富士山だと思いこんでいましたので恥ずかしい思いをしました。勿論まだ山登りもウオークも知らない時代の話しです。

●(おまけの話)
会社の立会い検査のお客様が富山県から来られて、急遽、宿泊することになりました。どこに電話をしても満室で、電話帳をめくりながらやっと1軒見つかりお客様をご案内することができました。翌朝も立会検査に来られ「久田さん昨日のホテルはとても愉快だったよ」と人の良さそうな笑いで昨日の出来事を話ししてくれました。何とラブホテルだった様子!!あっちゃあと平謝りすると「富山県では味わえないい刺激的な夜でよかったよ」とくったくのない笑いをして私のミスを許して下さいました。その後、総務に配属替えとなった後も、当社を訪れる時は必ず私にお土産をことづけて下さり定年退職の挨拶状も会社宛と私宛に届いていました。人と人の出会いには不思議なこともあるのですね。


[1656] 【1668回 定年退職までのカウントダウンあと14日】 2008-10-17 (Fri)

私の上司のことはすでにご紹介しましたが、とても人間味のある人物で、私が快適に39年間を過ごせたのもこの方のおかげと言っても過言ではありません。お世辞や人の嫌がる余計な事は一切言わず、こよなくお酒が好きで、仕事中は無口ですがお酒が入ると、とても愉快に変身されます。会社で私をうまく使いこなせる唯一の人物です。ご自分で飲酒量を決めておられ、毎日まずは「ビール大ジョッキ1杯、日本酒5合、仕上げにビール小ジョッキ1杯」だそうです。その上司が私の義母の葬式の後「長い間の看病ごくろうさん。しばらく、ゆっくり安め」と、やさしく言って下さりお言葉に甘えました。数日後に出社すると仕事が山の様にたまり大変だったとこぼします。「だってゆっくり休めとおっしゃって下さったじゃありませんか」と言うと「あれはなぁ、社交事例やないか〜」と言われたのには苦笑しました。だからと言うのではありませんが、それからは休暇は取らずに、黙々と働きました。8月の北鎌尾根行きのために初めて盆休み前に4日間もお休みを頂きました。上司は退職前のご褒美と思ったのでしょうか。休暇願にも快くハンコを押して下さいました。

その上司が去年の4月突然「血液感染症」にかかり緊急入院を余儀なくされました。病院は私の薦めで都島にある「大阪市立医療センター」です。ご家族もいらっしゃらないので何かと大変そうでした。緊急入院のため仕事に支障をきたし入院期間中の土曜、日曜を除く44日間は毎日業務連絡係として通い続けました。計算機にソロバンなどを持ち込み、同室の患者さんには、うさんくさい眼差しで見られました。(ごめんなさい)併せて椎間板ヘルニアの治療も受けるつもりでしたが「手術以外に治療方法はなし」と言われたそうです。血液感染症で安静にしている44日間で持病の椎間板ヘルニアが驚くほど快方に向かい、歩行姿は、ひらがなの「つ」の字状態で歩いていたのですが退院時にはまっすぐ歩けていたのには驚きました。44日間通い続けたことで、いままでの恩返しができたことにうれしさを感じます。退職後も病院への送り迎えやSOSがあれば私の出来る範囲でお手伝いをしようと心に決めています。御年67歳バリバリの現役の金庫番で〜す。

病気や事故も沢山ありましたねぇ。社員が出張先の静岡県清水市で労災事故を起こし怪我をし入院したとの報告をうけました。出張先の会社にも、さぞかしご迷惑をかけた事、社員の怪我の症状も把握したいことなどで清水市まで見舞いに行くことになりました。おかげでたいしたこともなく戻ってきたこともありました。社員の母上が駅のコンコースで大事故に巻き込まれ死亡したこともありました。福岡県で行われた葬式に駆けつけました。何とも悔しくて悲しい告別式でした。また種子島に住む社員の親が亡くなったときにも駆けつけました。大阪発種子島行きの飛行機はひどく揺れて、手帳を出して、思わず「遺書」めいたことを走り書きもしました。地元の人達は決して大阪発の便には乗らず鹿児島発の便を利用するのだそうです。それほどに恐ろしい空路なのだそうです。

私の中で社員の親、兄弟のお別れの時は会社の総務として参列するべきだと思っていましたので、場所が近くても、遠くても、必ず参列することにしていました。退職間際まで貫けたことが私の中の誇りです。これも上司の理解があった上での話しですが大切な家族を失ったときの悲しみは担当者として一緒に悲しみ、お見送りしたいと思っています。

姉がバイク事故を起こし頭蓋骨を負傷し入院した時は、姉の子供達も小さくて、私が会社を終えて付き添い、しばらく東大阪の病院から通勤した事がありました。仕事で疲れていたのでしょうか。病人の姉よりも付き添いの私が熟睡してしまい「美智子は付き添いの役目を果たしてへんっ!」と叱られたこともありました。その姉も私が入院した時によ〜く眠っていましたよ〜。


[1655] 【1667回 定年退職までのカウントダウンあと15日】 2008-10-16 (Thu)

阪神淡路大震災での被害は神戸だけでなく此花区にも大きな打撃を受けました。自宅の被害もなかったことからすぐ会社に出向いて見ますと6階建ての当社ビルの壁にもヒビが入りテレビの崩壊、本棚の崩壊、台所の食器類の破損と大きく被害を受けました。上司に連絡を取り会社の状況を報告しました。上司は電車が不通のため出社できないため、私が代理で社内の整理をすることとなりました。

神戸に住む部下が消息不明となりました。電話連絡も出来ない状態で、とにかく気がかりなため、翌日、神戸中央区の部下の家に行かせてほしいと上司に頼みましたら、後にも先にもこの時だけ「ダメだ」と反対されたのです。説得に説得を重ね、やっと許可がおりましたのでミニバイクに帰りのガソリンをペットポトルに確保し、カイロ、水、インスタントラーメン、生理用品、パン、缶詰など思いつくままに詰め込めるだけリュックに詰め込み、バイクに載せ神戸へ向かいました。勿論ジョンさんにも同行してもらいました(何で勿論なんやって?ザイルパートナーやからハハハ)

途中の道路は穴ポコだらけで陥没しており、婦警さんが手旗信号で配置され、丁度芦屋あたりに来たときに阪神高速道路が崩壊していましたが何が何だか解らず、目の前にぶら下がる白線が高速道路のセンターラインだと解るには、かなりの時間がかかりました。

火煙の立ち上る中を3時間かけてやっと神戸中央区あたりに到着しました。学校の校庭にはブルーシートで覆われたご遺体がたくさん横たわっていました。自宅に到着し、いくら声をかけても出てきません。家も斜めに傾いていました。近くの学校に避難しているかもしれないと小学校を訪ね呼び出しのアナウンスをしてもらい、やっと安否確認ができました。アンパン2個だけは帰りの食糧として残し、差し入れの品々を渡して帰ろうとした時酒に酔った老人がジョンさんにからんでいました。我々の差し入れの品を眺めてフラつき寄ってきましたので、「おっさん!こんな時に酔っ払ってどういうこっちゃシャンとしいやシャンとっ!」と叫ばずにはいられませんでした。あとで考えるとこの老人は悲しさのあまり酒の力を借りなければいられなかったのかも知れません。

神戸からの帰り道も、迂回をしながら4時間を費やして戻り尽きました。私が緊急入院した時は、部下の女性とお母様が病院にお見舞いに来てくれて「あの時のご恩は一生忘れません」と言って下さったことに胸熱くしたことがありました。奇しくも10月7日に消防署の研修で、西区にある消防本部を見学し(境川の交通局跡)その後、阿倍野防災センターに出向き「防災体験」をしてきたところです。震度7がいかに恐ろしい揺れであるか、消化器はいざと言うときに使えるか、消防車、救急車を速やかに呼べるかの訓練を受けてきました。近い将来かならずやって来るという大型地震に備えて日々家族で避難訓練をする必要があると痛感した次第です


[1654] 【1666回 定年退職までのカウントダウンあと16日】 2008-10-15 (Wed)

「会社のユニフォーム」

私が入社した時は幼稚園の上着のような何とも言えないユニフォームでした。(スカートは私服)まだこの頃は役所では「腕カバー」をした人が大勢いる世の中でしたから、恰好が悪くても「貸与された制服」として何の抵抗もありませんでした。それに入社して間もないために、口出しが出来るキャリアでもありませんでした。3年経ち、5年経ち女性が職場を占める割合も拡大されてきて、少し私にも意見が言える立場となってきたのです。ある日、ホットパンツで出勤した女性がおり、これでは風紀が乱れると一大決心しスカートも、ついでに上着も変えプラウスとベストという出で立ちに改革していきました。高校は制服で選ばれるという時代になってきていましたので上司にもスンナリと意見が通り、鉄工所にしては最新のユニフォームにしたと自負しています。それからは機能性を考慮しつつ、流行を考慮しつつ変えて行きました。だいたい女性の制服の買い換えは3年がサイクルらしいです。(これは作業服屋の言い分)

このところ大手では経費節減の関係で会社のユニフォームは「私服」が主流になってきていますが、私は断固として制服派です。「自由」というのは、常識の持ち合わせがないと大変な事になります。それぞれが会社員としての常識の度合いが違い、それこそホットパンツで仕事をしても注意が出来なくなってしまいます。「ホットパンツのどこが悪いねん」と言われるかも知れませんが、痴漢が多発するのは我々女性が肌をあらわに出したファッションでうろうろするから問題が起こるのではないでしょうか。鉄工所のオジサン達の前をホットパンツでウロウロされたら事故のもとです。またロングスカートでも機械に巻き込まれる恐れがあります。安全のためにも制服は必要なんです(笑)

最近は化繊によるアレルギー反応を訴える者もいまして、100%木綿の事務服が要求されるようになってきました。これも昔では考えられない事なんですが、その都度対応して問題解決をしてきました。洗濯が効き、清潔で、ほつれが繕われていたら誇りをもって着用したいのが制服ではないでしょうか。そう言いながら私も制服を脱ぐ日が一日、一日と迫ってきました。名札も含めて、私が社員として誇りを持って過ごした39年間に感謝をこめて静かに去っていけたらと心の準備をしている今日この頃であります。


[1653] 【1665回 定年退職までのカウントダウンあと17日】 2008-10-14 (Tue)

「キャンプ」

1984年(昭和59年)会社の福利厚生の一貫として青年婦人部時代にキャンプに行こうという提案をしました。道具類は何もなく、捨てられそうな古い大きな釜とブルーシートと大きな鉄板をトラックに積み、淡路島の佐野港へ行きました。私の子供がまだ10歳の時の話しです(姫ママも若かったなぁ)
30人がブルーシートの中で寝たのですが周囲からみたら「難民」と思われたかも知れませんね。夜は大きな釜でご飯を炊き、おかずは定番の焼き肉です。おじさん組が、残ったご飯の中に焼き肉をいれ「焼き肉にぎり」を作ってくれましたがジャリジャリと砂も入っており、お世辞にも美味しいとは言えませんでしたが親父の温もりを感じることができました。いまでは貴重な思い出となっています。子供達には海水浴は勿論の事「スイカ割り」や「宝探しゲーム」などをして大いに楽しんでもらえました。夕食が済んだあと、天気が一変し台風接近で浜辺は危険と言うことになり、民家の軒先を借りて避難しました。その後も明石の江井ヶ島、再び淡路島の富島、奈良の笠置など回を重ねました。子供達にどこが一番楽しかったかと聞くと「台風のキャンプ〜!」と答えます。思い出はアクシデントがある方が大きいようですね。

いつまでもテントの代わりにブルーシートというわけに行かないため、毎年予算立てをしてテント5張り、簡易椅子20個、食器20個と増やして行き最終的にはテントも15張り以上を蓄えることができました。新入社員の男子は先発組として前夜発で場所取りに出発します。新入社員の場所取りが恒例となると先輩達が後輩達にテントの張り方などを伝授して育て、仕事以外でも親睦を深めていくことができました。キャンプや運動会に参加する若者の中から「実行委員」を任命し、常に私のサポートをしてくれるメンバーがいたことが全ての行事の成功の基本となっていると感謝しています。キャンプも現在は時代の流れで「バンガロー」が流行しテントを張ったり、先発隊で出かけたりすることはなくなってしまいましたがキャンプ行事を続行してくれていることに発案者としての喜びを感じています。

登山の途中で見かけるテン場にはカラフルなテントがひしめき合っています。軽くてコンパクトで20年前のテント素材からは想像が出来ません。私の家のガレージの中2階にもアウトドアの道具一式入っています。いつでもどこへでも出かけて行くことができますが七輪などの古めかしい道具ばかりで見劣りはしますがりっぱに使えますよ。
私達がテントを張り、ご飯の用意をする頃には別のテントの子供達が寄ってきて七輪の中をのぞき込み「おばちゃん何してるの?」と聞きます。隣のテントを偵察に行くと、何と自宅の台所がそのまま引っ越してきたようなりっぱな道具が揃っていて、子供達にとってはキャンプというイメージが湧かない様子でした。この七輪で焼く「へしこ」がジョンさんは大好きなんですが鼻がへし折れるくらい臭いです。テント場に到着するとまず子供達には薪拾いに行かせ、その間に迷子にならないようにテントの周りを万国旗を張り巡らせます。運動会でもするような賑やかなテン場となり、あとは野放し状態で子供達は大喜びで夏の大イベントを楽しみました。姪の子供が高校に入り、キャンプの体験をみんなの前で発表したら、ほとんどの生徒が「キャンプ未体験」だったと驚いていました。(うちの孫の時は姪達が連れてってくれ〜よ!)

岡山にキャンプに行ったときの事です。村祭りがあり、神社で餅投げがあるのでどうぞと村の人に案内され餅拾いに参加しました。ポチもジョンも立ったまんまで投げてくる餅をつかもうとしますが私は子供時代にスカートを大きく広げ座って地面スレスレに落ちてくる餅を拾った覚えがありました。子供の時の体験が甦り、誰よりも沢山拾えたことが思い出されてきます。やまたびの来年の企画は「私には無理かな?」って思わないで、まず参加をしてみましょうよ〜。きっと何かいい思い出が作れるはずです。チャンスが与えられたら逃がさないで参加しましょうね。


[1652] 【1664回 定年退職までのカウントダウンあと18日】 2008-10-13 (Mon)

「創立者の野辺の送り」

創立者である会長が長く入院生活を送っている間、病院と会社との連絡係を仰せつかりました。訪れるたびに衰弱していくのがわかり、帰りはとても気分の重い足取りで京阪電車に乗ったことが思い出されます。会長の生誕の地は丹波篠山で現在の工場のある場所です。故郷に錦を飾る気持ちで最初の工場移転に踏み切ったのだと思います。最初は規模も小さくて社員数もわずかでした。工場の溝からはマムシが出たり、イノシシが工場の中に入ってきたりと自然もいっぱいでした。工場が活気を帯びてきたら、1棟増やし、2棟増やし、社宅を新築したのを会長は見ないまま旅立っていかれました。まだお元気な頃、下請け業者の会の宴会でカラオケの順番が待ちきれず「久田くんワシの歌はまだかいなぁ」とせかし舞台の階段に座って待っていました。歌う歌はきまって「デカンショ節」で、私が「よさこい節」を歌うのと同じ感覚なのでしょうか。こよなく故郷を愛しておられました。

明治、大正、昭和、平成を生き抜き、我が社がここまでの規模に成長したのは、会長の私財を投げ打ってまでもの精神のおかげだと思っております。1909年ー2003年(明治42年〜平成15年)享年94歳の御年でありました。前立腺癌で亡くなる前に「久田君ワシはなぁ、小便する機能と、前と後の見分けをするためのオブジェみたいになったもうた情けないわ〜」と笑っておられ、「会長!前と後ろが解ればズボン履くのに便利じゃないですか」と言うと「お前も言うのぉ」とカンラ、カンラと笑ったことが昨日の事のように思い出されます。もうダメかも知れないと言う段階で「家族葬&社葬」と決まり、準備に取りかかりました。そして従業員代表で弔辞を読むことになり、会長との思いでを弔辞として仕上げました。新しい工場が見たかったであろうこと、デカンショ節を一緒に歌いたかったことなどをお別れの言葉としました。後にご家族の方から「家族の知らない父のことを教えて貰ってありがとう」とご丁重なお礼状をもらいました。

もうこんなエピソードを知る、社員も数えるほどしかいなくなりました。でも、私の中ではいつまでも貴重な思い出として生涯、忘れないでおこうと思っています。社歴を語るのに創立者のことを抜きでは語ることができません。60周年の式典が2年先にやって来たときは、ぜひ創立者のことを祝辞の中に入れて欲しいと思っています。
    (平成15年2月2日没)


[1651] 【1663回 定年退職までのカウントダウンあと19日】 2008-10-12 (Sun)

「社員旅行」
2年に1度の社員旅行の行き先は職場の代表者が集まり、みんなの意見を持ち寄ります。決して幹事の独断で決定することはありませんが「自分が行きたい場所」から選出します(笑)行き先の方向が決まったら旅行会社を決めます。「行く」と決まった時から旅行はスタートしています。私は夜行列車、フェリーが大好きで時間かけて行くことによりコミュニケーションが深まると思っています。コミュニケーションを連発する人がいますが、真のコミュニケーションとは、酒を酌み交わしながら、ああでもない、こうでもないと時間をかけて親交を深めることだと思っています。やまたび倶楽部でも、乗り合いバスや列車を極力使わないのは、貸し切りの良さがあるからなんです。

夜行列車を利用して青森に行く途中、真夜中に停車する駅毎に酔っぱらった社員がフ〜ラフ〜ラとホームに出て危険なため幹事が出口を見張ったことがありました。またフェリーで九州に行ったときはまだ出航のドラの音が鳴っていないのに酒盛りがはじまり大宴会、踊ったりしゃべったりと大騒ぎとなり船員さんに「幹事さんはどなたですか」と叱られたこともありました。さあ寝ようとした時には下船準備がはじまつていたこともありました。その時はいつも「すみません、私は入社してまだ間がないので気が付かずでごめんなさい」と謝りましたが、団体の時は団体専用室が欲しいですね。山ほど積み込んだアルコールは神戸港に停泊する頃には底をついていたと思います。

50周年記念の時は外国組と国内組とに別れグアム、指宿と二分しました。私は勿論温泉派ですから指宿2泊を選択しました。指宿組はバス1台で和気あいあいと、知覧を周り砂風呂に入り、夜は大宴会とこの時から「合羽からげて三度笠」の出で立ちが始まり宴会やカラオケには必須の道具となりました。恥ずかしいという気持ちは衣装を着ればどこかへ飛んで行きます。要するにいかに観客を楽しませ、そして自分も楽しむかと言うことだと思います。わがやまたび倶楽部でもこの衣装を持ち回り、更に新しい衣装を増やし、どこかで披露する場所があればと小道具やを見つけたら入って物色している自分がいます。シラケ鳥が飛ぼうが飛ぶまいが今のところ健在です。

こうした社員旅行も年代の差が大きく開き「観光派」と「テーマパーク派」にハッキリと別れ、社員旅行の最大のイベントである宴会でら、うっとうしいと言う声も聞かれます。しかし全体の30%の人達が「おもろかった」と言ってくれる限り幹事として事務局として張り切っていままで実行してきました。今後はどうなるかわかりませんが臨機応変に上からの命令ではなく下からの意見を聴き意義有な行事にしてもらいたいと願って止みません。


[1650] 【1662回 定年退職までのカウントダウンあと20日】 2008-10-11 (Sat)

ダイトレ「紀見峠から滝畑ダム」に行ってきました。朝6時には雨はジャジャ降りで、お茶漬け弁当からおにぎりに変更して雨の中での昼食対策を取り玄関のドアを開けたら、もう雨は止みつつありました。よっしゃ!ラッキーにも雨に遭わずに行けそうです。南海電車の新今宮駅でサスケ先生とうららちゃんと一緒になり紀見駅へ。同じ列車に他のメンバーも乗っていて1ケ月ぶりの再会を喜びました。今日から千恵ちゃんも元気に復帰です。

ダイトレはポチが「通し」でリーダー(たよりな〜)ではありますが、元気に紀見駅を出発しました。紀見峠までの道すがら、すでに曼珠沙華は花の時期を終えており深まりゆく秋を告げる明光菊が可憐な花を咲かせていました。下見の時は青かった栗も、イガから出て「ちょっとだけ遅かったね」と言わんばかりに大きな口を開けていました。「紀見峠」の看板の前で記念撮影をし、いよいよ本日のコースに突入です。ここまですでに50分経過しています。

下見情報どおりに最初の休憩は「ボ谷ノ池」時折薄日は差すものの木立の中はうっそうとしています。1時間歩いて10分休憩を今日もベストタイムキーパー係のマーちゃんにお願いしました。根古峠で、もう一度休憩し岩湧山頂上でお昼の予定でしたが、誰かれとなく根古峠で「腹減った〜」の大合唱となり仕方なく昼食としました。臨機応変の効くのが「やまたび倶楽部」のいいところでしょうか?

昼食を終えるといままでたっぷりとかいた汗がぞく〜っと寒さに代わり、準備が整い次第出発としました。岩湧山頂上の手前のりっぱなトイレで用を足し、ススキの中を秋を満喫しながら頂上到着です。ここでお昼のうた「赤とんぼ」「丘を越えて」を歌い、最終回の案内と来年の「黒部の赤木沢」の案内をしました。今日お休みの方達にはご自宅へお送りしますね。

ツアーに乗っかっても、なかなか行くことが出来ないコースですのでトレーニングを積み楽しく参加をしませんか(楽しいばかりの会ではいかんと今日リーダーから説明があったなぁ)曽爾高原のススキの様に、上から見渡すことは出来ませんでしたが、それなりに岩湧名物のススキを味わうことができました。下りもうっそうとした、まるで夕闇に迫られた様な木立の中で、先頭を歩くポチが帽子を脱いで「自家発電サービス」をしていた様でしたがアンカー付近に光りが差し込むことは有りませんでした。

「カキザコ」で休憩タイムをとり一気にゴールの滝畑へめがけて下ります。雨上がりのため木の根を踏むとかなり滑ります。木の根で転倒してアバラ骨を骨折した経験者としては慎重に足運びをして下りましたが、今日はジョンさんも転倒したとか・・・危ないよ〜

バス停に到着したのが3時48分だったと思います。4時09分のバスの発車まで、わずかの時間待ちで済みました。ミーティングでは「タイムキーパーのまーちゃんに拍手〜」「千恵ちゃんの元気な復帰に拍手〜」「みんな元気にゴールしたことに拍手〜」をしてバスに乗り込みました。

♪♪「富田林のバスは値段が〜た〜か〜い」♪♪530円でっせ。ほんなら歩けと言われたら530円払ってでも乗りますが何とかしてよ忠太郎〜と思い出し、車中で忠太郎に「みんなヘロヘロです」とメールをしたら「ヘロヘロの意味を教えて」と言われ何度か交信している間に前の席から「ゴンゴン」とガラスを突っつく音が気になりました。見ると、美里ちゃんが爆睡をして頭を窓ガラスにゴンゴンしている音でした(笑)

河内長野駅に到着した途端に御神輿の「廻し」を見物することが出来、長い時間この瞬間を待っていた人達に申し訳ない気がするほどのグットタイミングでした。祭りの熱気に酔いしれながら無事、ほどほどに疲れて、戻ってきました。千代田の駅で下車はしませんでしたがハイバラさんの情報があったからこその祭りの見学に感謝をせずにはいられませんでした。ありがとうございました。


[1649] 【1661回 定年退職までのカウントダウンあと21日】 2008-10-10 (Fri)

あとわずかとなると少しだけ寂しい気分になるものですね。女子社員の方が「お母さんの様な存在でした」とメールをくれ送別会の話しが持ち上がった時は、退職を現実のものとして受け止めなければと自分自身に言い聞かせています。一人一人にメッセージも書き終えました。名前を覚えていない社員も、それなりに将来に期待するメッセージにしました。書きながら顔を浮かべて見ると、色々な思い出が浮かんできます。

運動会の第1回目は青年婦人部の組合活動としてスタートしました。「成功するはずがあるかっ」と言われて、なにくそっとハッスルした事は言うまでもありません。全て手作りで奥小路工業の跡地で千鳥橋の向かいのグランド(現在は此花中学校のグランド)でトイレは千鳥橋の駅と市営住宅に住む社員の家のトイレを借用して行われました。しかし家族連れの社員が多く参加をして下さり弁当が足りなくて走り回った事を思い出しました。「成功するはずがあるかっ」と言った人は前社長に「あれは表彰者でっせー」と言ったらしいですが丁重にお断りしました。第2回、第3回と持続こそ力なりをモットーに少しづつ規模を大きくし、第4回目からは、母体を「共済会主催、組合共催」と変え、グランドも西九条の塩水港を借り、トイレも不自由しなくなりました。運動会と社員旅行を交互に行い社員の福利厚生に情熱を燃やしました。(少々、燃やしすぎやで)

運動会の途中、大雨となりマイクを持ち「15分で止みますからお待ち下さい」本当に15分でピタリと止んだのです。この年に限ってジョンさんの知り合いの業者さんからドーム型のテントの設営の協力を得たので濡れずに済みました。しかしこのドーム型のテントは居心地が良すぎて運動会の応援そっちのけで身が入らず、宴会中心となったため1回だけの試みで幕を閉じました。前日がドシャ雨でグランドがプール状態の時もありスタツフが鉄の棒を持ち、グランドへ水抜きに行ったこともありました。「阪神の運動会は雨の方が怖がる」のうわささえも出てくる始末で平成19年4月、第9回目の運動会の実施まで一度も雨天中止になったことはありませんでした。

弁当の数で悩まされ続けた苦い経験からグランドに業者さんの屋台を設置してもらい「うどん」「タコ焼き」「カレー」「おでん」等のメニューを用意し食い放題、飲み放題の宴会色豊かな運動会として定着さすことができました。一般の通行中の人も屋台の列に加わることもあり「会社の運動会です一般の方はご遠慮下さい」という看板も作りました。氷上工場からは観光バスを借りて移動し、円満退職した人達は運動会の日を同窓会の日としてグランドに集合し、近況報告するようになりました。今回、私は定年を迎える事となりましたが、阪神名物となったこの運動会の灯を後輩達が消すことのないように祈っています。準備をする段階でコミュニケーションも生まれ、ギスギスした職場での上下関係も同じ汗を流すことで緩和することができるのではないでしょうか。

「消さないで 運動会の灯 いつまでも」


[1648] 【1660回 定年退職までのカウントダウンあと22日】 2008-10-09 (Thu)

私の性格は仕事面でも何でも「ブレーキ」を掛けられるより自由に動かしてもらう方が能力を発揮できます(たいした能力ではありませんが)私の上司は私の性格を十二分に把握して下さり、何事も何時でも自由に容認してくれました。そのかわり上司の顔に泥を塗る事の無いように細心の注意をしてきました。社内の仕事以外に地域活動にも企業として参加しました。異業種の団体の工業会、警察、消防、健保組合、防犯と大手企業は担当がそれぞれ別の人ですが私の会社の窓口は全て私が一手に引き受けました。ビルの横の溝が詰まったと聞くと、すぐ走り近所の人と一緒に溝掃除をしました。会社と民家の間にゴミがたまっていると聞くと、軍手とセンバを持ちゴミ掃除をしました。そうしていると、ご近所の皆様とも顔なじみになり住宅地のど真ん中で鉄工所として共存していくことができました。繁忙期には遅くまで機械の廻る音や、シンナーの臭いでご迷惑をかけましたがご近所の皆様の暖かいご理解を得ることが出来ました。地域活動なんて「仕事以外に必要ない」と言われればそれまでですが私の上司は「ごくろうさん」と全てを受け入れてくれました。そんな居心地の良い職場だったからこそ39年間も続いたのかも知れません。

地域活動の会合は全て男性で、しかも部長職以上の方達ばかりでした。社内で学ぶことの出来ない色々な事をこの方達から教わったりもしました。使い走りもしんどい時もありましたが必ず評価をしてくれました。人間誉められると悪い気持ちはしません。私の後任の引き継ぎも焦らず、書類上でまず説明をし、次は実践して説明し、その次は独り立ちしてやって見させ、失敗したら3回までは許容範囲、4回目からは注意を入れる事に徹しました。任すということは簡単な様で結構気がかりなものです。自分がすれば早いとわかっていても、じっと「忍」の一時で任すことが大切です。お陰で今では立派に独り立ちして、もう私はいてもいなくても良い存在となり、安心して卒業して行けます。

クライミングの場合でも最初は座学をし、実技の指導を受け、3回以上の練習をし、それ以後に教えた事を覚えて無い時にはリーダーの注意が入ります。命がかかっているので失敗は許されないために厳しい口調になる事もあります。仕事の流れも遊びの流れも、全く同じで、後は本人が覚えようとする意欲と努力にかかわってきます。サスケ先生も最初は我々と同じラインに並んで受講しました。しかしその後の努力と熱意は並大抵ではなくトレーニングを一人で積み重ね続け、「地獄谷」という地名を「サスケ谷」と、名前を変えるほど通い続け努力をされました。いまではリーダー格にまで昇格されました。(但し危険ですのでひとりで行かないで下さいね)仕事も遊びも一生懸命が一番だと言うことですね。

11日に実施する岩湧山のコースの下見に一人で行ったとき、道迷いすることはないくらい標識はしっかりしていたのですが「ガサガサ」と音がするとおびえ、対向者が来るとビクッとし、昼間だと言うのに雨の精で、木立の中のうっそうとした暗さに一刻も早く抜けたいと走り、このまま転倒して動けなくなったらどうしようと考えると見覚えのあるゴールの滝畑ダムの民家の屋根が見えたときは「着いた〜っ!」と叫びました。あ〜あこわかった。


[1647] 【1659回 定年退職までのカウントダウンあと23日】 2008-10-08 (Wed)

「 弁 当 」
ウオークの時は、スタッフは集合時間より1時間前に集合となると朝早すぎて弁当を作る時間があわただしくなります。ならばコンビニでおにぎりやラーメンを買って行こうということで長年そうしてきました。ところが最近素敵なお弁当箱を頂きお弁当作りにはまりました(昔、高峰秀子がホームパーティで宣伝していたタッパウエアーです)お弁当作りに、はまりましたが豪華な中味ではなく、夏の暑い日に「暑うて何も喉を通らん。茶漬けが食べたい」との一言で白いごはんと、お漬け物と梅干しという、とてもシンプルな内容ですが夏バテして何も入らないときにでも、お茶で米粒を腹にかけ込む事により炭水化物の補給が出来て午後からの行動がスムーズになります。行動食にも小さなおにぎりを持ち、休憩毎に少しづつ食べると元気が出てきます。休憩時、水分の補給だけよりも行動食をお腹に入れる方が疲れが和らぎます。「いやぁ疲れて何も食べる気にならん」とどこかの番犬が吠えますが私達のアドバイスを素直に聞いて、もっと楽しい里山歩きをしてはいかがですか?ワンワン!

持って行った行動食が家に戻っても残っているときは、量が多かったか行動食としてふさわしくなかったかのどちらかですので、もう一工夫したいものです。夏に行った北鎌尾根でパートナーと私の行動食の残りが同じ種類(甘い菓子、飴、ビスケツトなど)で、お互いが手を出す気にもなりませんでした。水気の多い、喉ごしの良い行動食も充分持ってはいたのですが「重い食べ物から先に食べてリュックを軽くしよう」という発想から、疲れの軽い初日時期に水分の多い行動食を食べて失敗を招きました。何日も山の中を歩くときは重くても水気の多い行動食を平均して持ち「第1日目」「第2日目」「最終日」ときちんと袋に入れて分けておく方がいいと思いました。今後の参考にしたいと思います。日帰りウオークと違い、縦走などの連泊の時は、重くても「食料と水」は余剰分も持ちたいものです。そのためにも日頃から荷物に慣れておかなくてはと、いつも「最低8キロ」を持つことにしています。先日、岳人との会食の時に「縦走中は女性でも13キロは持たなくては。そのためには日々のトレーニングでは10キロは持ちなさい。まず第一に「体力」第2が「技術力」だと話して下さいました。

そうは言っても荷物が重すぎて疲れていては何にもなりません。人のおやつ分まで持つ必要はありません。行動食と非常食は違います。加藤文太郎の「片方のポケットには甘納豆、もう片方には乾いた小魚」がとても印象的で、ダイトレの最終日には真似をしてみたいと思っています。白山行きの時の荷物のチェックを思い出して必要最小限を上手に詰め込みましょう。そしてリーダーやサスケ先生のリュックには、自分の荷物以外に共通の荷物が入っていることも忘れないでおきましょう。


[1646] 【1658回 定年退職までのカウントダウンあと24日】 2008-10-07 (Tue)

ウオーキングでも沢山の宝物を得ました。立山、乗鞍、御岳、木曽駒、石鎚、白馬と毎年歩けの会にもかかわらず山に連れて行ってくれました(だから入会したのですが)ウオーク中に山好きの仲間も見つけました。1年に1度では満足できず、じゃあ山好き仲間で山に行こうか?そんな誘いをもらったり、誘ったりしているうちに山から抜けられなくなりました。高校時代の友達には「何や、福ちゃんはそんなチョロい山に登っているのか」と言われましたがチョロい山で結構。楽しく一緒に登る仲間がいれば、たとえ天保山登山だって楽しいよ〜

何故ウオーキングを始めたのかと申しますと、健康保険組合の会合で各事業所からけんぽれん主催の「100キロ歩こう」のイベントがあり初回につき担当者も出席してほしいという条件付きでした。箕面の滝までの往復のコースで、完歩すれば箕面温泉がついてくる(割引券付き)ということで温泉好きの私にとっては、超うれしいおまけ付きでした。ドシャブリの雨の中を千人以上が滝にむけてゾロゾロ歩いており、速い人では折り返している人も見かけました。雨に濡れたチラシに「立山へ行きませんか?」の誘いを見つけいつの間にか「あるチュー」になったわけです。

乗り合いバスに揺られ立山に立ちました。山の美しさに魅せられました。ポチを留守番させずに参加してもらうのに、かなり苦労をしましたが心臓が悪いと言うことを忘れさせるくらい元気復活です。やはり「病は気から」で自分で元気になりたいと努力をすることが必要なんだと痛感しました。今でも自分から進んで参加することはありませんが(沢登りは積極的〜!)病気に負けるのではなく、精神面で強く、積極的に生きてほしいと思っています。ダイトレはポチがリーダーということで、みなさん、はがゆい思いもあると思いますがあと2回お付き合い下さい。

私は常々、スタッフの仕事はみんなで分担すべきだと思っています。順番に先頭を歩いたりアンカーを歩いたり、無線を使ったり、いつどこでも担当を変われる様にした方がいいと思っています。しかしタイムキーパー係のマーちゃんの横に出れる者はいませ。「あと3分でしゅっぱつで〜す」と大きな声でみんなに知らせてくれます。元気をもらいます。適材適所と言う言葉がありますがほんまピッタリのはまり役です。いつもありがとう。みんながスタツフを体験することによって前後左右にも気配りが出来るようになります。快適な里山歩きは「全員がスタツフの気持ち」でいることかも知れません。


[1645] 【1657回 定年退職までのカウントダウンあと25日】 2008-10-06 (Mon)

姑の病気のことは「仰げば尊し」として出版いたしました。いかに素敵なお姑さんであったかをひとりでも多くの人に知って貰うために文芸社から出版致しました。おかげさまで友人知人にご購入頂き手元に10冊ほど残して完売となりました。この中の3冊は孫達が結婚するときに「偉大なひい婆ちゃん」を知ってもらうためにプレゼントしようと大切に保管をしています。

「妻が死んだあとは3回忌までには迎えが来て連れ合いは逝く」と世間で言われていましたが何とポチの爺ちゃんは妻の死後8年も長生きしました。毎朝、朝食の味噌汁をタッパーに入れ夕食のおかずも作り出勤の前に立ち寄り、朝の挨拶をし生きていることを確認しました。(笑)病気知らずの元気なおじいちゃんでした。簡単に朝の味噌汁と夕食のおかずと書きましたが8年間は結構長く、時にはメニューが決まらずイライラをポチにぶつけることもありました。その元気なお爺ちゃんが次男の結婚式の1週間前に転んで大腿骨を骨折し1週間ばかりの入院の後に他界しました。あっけない最期の報は尾瀬からの帰り道の宴会の最中に訃報として耳に入りました。最期に立ち会えなかったことでポチの立場が兄弟の中で逆転してしまいましたが息子達の良きはからいで裁判沙汰にはならずに済みました。(財産がなくても、もめるね)バスの運転手さんが事情を察知して休憩も取らず走り続け大阪着は予定よりも1時間も早く着き、私達は助かったのですが他の皆様は始発電車までの時間待ちを余儀なくされたのでした。ごめんね

入社同時は技術部検査係に配属されましたが62年の6月に総務部に配属替えになりました。会社での配属替えはあまり良い印象はなく「ああ、この会社に私は必要ないんだな」と悲観し退職を考えましたが、前社長が自宅近くまで説得に来られ、前向きな配置換えであること、会社の再建にどうしても君の力が必要だとの熱い説得に耳を傾けました。前社長の素早い対応と温もりのある説得で思い留まり、現在に至っています。「久田君、シャンシャンシャンと行こうじゃないか」と自宅近くのスナックに連れていかれ、カラオケなるものを初めて体験したのです。その時の曲は「長良川演歌」で、自分でも「こりゃいける」エコー効いてるし狭いスナックだもん上手に聞こえたんですよ。 (ギャハハハハっ)カラオケの味を知ってからは酒は飲めぬが歌は歌えると自称「此花のひばり」として歌いまくりました。その合間を縫ってウオーキングの途中で「季節の唱歌」を歌うことを思いついたんです。「ウオークに歌はいらん」と陰の声も耳に入りましたが「これが楽しみでウオークに来ている」との声に励まされ100回以上も歌集を配り歌い続けました

唱歌を声に出し、口ずさむと、季節、風景が浮かび、心豊かになります。アルツハイマー予防にも効果大です。孫達に好評なのは零君は「ウルトラマンの歌」カー君は「線路は続くよ」、ももちゃんは「ももちゃんが自分で歌うから婆ちゃんは聞いてて」です。ハイわかりました。


[1644] 【1656回 定年退職までのカウントダウンあと26日】 2008-10-05 (Sun)

「病気と怪我」

39年間の勤務の中で病気で休んだのは産前産後休暇を2度と6年ほど前に子宮筋腫で40日間入院していたことでしょうか。あっそうそう産まれて初めての骨折もありましたわ。でも骨折では会社は休んでいませんから、病気でとなると子宮筋腫だけですね。この時もシクシクと腹痛が長引き午前中の勤務を終えるのを待てず急遽、病院にいくことにしたのです。歩くこともできず、自転車にも乗れず、車で行くことにしました。しかし駐車場を探す時間も惜しいため近くにいたジョンさんに電話をして車を持ち帰ってもらうことにしました。しかし顔面蒼白となっている私を見捨てられず付き添ってくれたのです。緊急にもかかわらず順番を待ち、時間にして僅かかも知れませんが私にとっては1時間も2時間も待った気がいたします。あまり待ち時間が長いので、とうとうジョンが暴れました。「こんなに痛がっているのに何とかしろ!」この一声で病院側は慌てて対処し始め車椅子を用意し2階にあるエコー室に移動するのですがジョンさんの押す車椅子は速度違反でこ〜わ〜い〜のなんの!ここで教訓です。車椅子を押す時はゆっくりね。下り坂は滑り落ちそうな気分になるので方向を変えて押してあげてね。

エコー写真を見た医師が走り回り、病院が救急車を呼び、ドクター付きで別の病院に転送されました。ストレッチャーを押す看護士さんに付いてジョンさんも一緒に走るのですが、待合室には大きなお腹をした妊婦さんだらけで恰好悪かったらしいです。まあそんなこんなで手術となり、そのことをポチに連絡したら「ジョンさん何でそんな病院に運んだんや?尼崎の病院の方がよかったのに!」と言われたそうです。ジョンさんにも失礼だし、この病院にも失礼でしょ。この病院は産科と婦人科は超有名で遠くの嫁ぎ先からでもここでお産をする妊婦が多いらしいのに、ほんまポチは天然やわぁ。

怪我はお正月明けの環状線ウオークのお立ち台を踏み外しアバラ骨(お乳の上)2本折っちゃいました。えらいお年玉でっせ〜。その年の11月にも木の根につまずきアバラ骨(背中側)2本折っちゃいました。翌日に小松空港に出かける予定でしたが痛くて痛くて小松行きは中止しましたが会社は休んでおりません。ハイ。「遊びに行った翌日は這ってでも出勤すべし」が私のモットーなもので苦痛に顔をゆがめながら仕事をしました。そのあとサスケ先生が「憎っくき木の根っこめっ!」とリュックにノコギリをいれ四方八方枝分かれしていた木の根退治に地獄谷に行って下さったそうです。後日傷が癒えキャッスルウオールに言ってみると、見事な丸裸となって安全に通行できるようになっていました。感謝、感謝の出来事でした。


[1643] 【1655回 定年退職までのカウントダウンあと27日】 2008-10-04 (Sat)

長い年月の間に姑、舅、義兄と次々に大切な人を失ってしまいました。そのかわりにと言っては何ですが二人の嫁を迎え3人の孫にも恵まれました。失ったものは大きかったですが得たものも大きかったです。姑や舅を送ったあとは大きな穴がポッカリと空いた様で、また息子達も独立してポチと二人だけの生活になりハッと気が付いたら自分のために費やした時間のないことに気が付きました。会社関係で旅行はしても必ず「幹事」が付いてきます。姑や舅、義兄を連れて全国の温泉に浸かりましたがすべて誰かを喜ばすためが条件となっていました。自分のためにお金も時間も使いたいと思うようになったのはこの頃だったと思います。

私はケチではありませんが(自分で言うか〜)倹約家です。必要な物は買うが衝動買いは一切しません。岩登りを始めた頃、仲間達はみんな「ハーネス」を買い岩登りのトレーニングをしていました。私とポチは長めのシュリンゲをハーネスの代わりにしトレーニングに参加しました。近々、第2期の岩の講座が始まりますが最初は誰かれのある物を借用して「よっしゃ!おもろい!」と感じた時に買えばいいと思います。私がハーネスを買ったのは随分と後からでした。購入したその日は好日山荘のクライミングコーナーでハーネスを装着し店の天井からぶら下がっているロープにハーネスをかけうれしそうにはしゃいでいたことが昨日の様に思い浮かんできます。それから少しづつ必要最小限の道具を買いそろえました。クライミングを学ぶと世界が違ってきます。ヘッピリ君ことポチこと敏くんこと我が夫もおっかなびっくりではありますが楽しんで岩にかじりついています。(おっとっとっ)岩の講習を終えると来年の夏には黒部渓谷の世にも美しい「赤木沢」が待っています。

ここに到達するまでにはウオーキングで指導してもらったことも大変役に立っています。最初は参加するだけのウオークも先代の女性副会長に魅せられ、いつの間にかスタツフに、次はガイドもどき、次は救命講習、次は歌のおばさん、次なるはと色々な出で立ちでのバスウオークと自分なりにハードルを上げていきました。人と人のふれ合いも楽しかったです。白馬山登山以降の夏山登山は中止という指針が出て、丁度、山の魅力に目覚めた頃でしたので悩み悩んだあげく本格的に登山を目指そうと心に硬く誓いました。これはヘリコプター要請という白馬山登山で得た貴重な体験が中高年の事故の多さは山へ登る前の訓練が不足しているのだと痛感したため、きちんと基礎を教えてくれるリーダーを探し、現在に至っています。河内長野駅でのバス停の割り込みも我が倶楽部では想像もできません(でもおしゃべりは凄いよ〜)スタッフが怒鳴るのではなく一人一人が山のマナーを身に付けていなければ到底アルプスはおろかどこででもトラブルを起こしてしまいます。

クライミングのトレーニングの時にも、バスを降り岩場に到着し、さあロープを張ろうとした時に別の山岳会のスタッフがあっちにもこっちにもロープを張り巡らせて「場所取り」をしたことがあります。限られた岩場ですので先着順だと思うのですが色々あるのよねぇ。


[1642] 【1654回 定年退職までのカウントダウンあと28日】 2008-10-03 (Fri)

●「同じこと何回も書いてからに!」と配偶者が怒る。よく考えてみると還暦のカウントダウンでも同じ内容だったと思います。何故なら還暦までの人生と39年間のサラリーマン人生は同じだからです。いま必死で自分に区切りをつけているのです。辛抱してお付き合い下さい。

嫁に来て一度だけ辛くて姉の家に帰ったことがありました。今から思うと取るに足りないことだったと思うのですが舅、姑、小姑の同居生活の中で張りつめた物が限界だったのでしょうか。トイレの中で思い切り泣き、鴻池新田の姉の家に遊びに(表向き)行ったのですが姉が昼を過ぎた頃もう帰ったほうがいいと促します。せっかく来たのだから、もう少しゆっくりしたいと言っても帰った方がいいと言いました。仕方なく姉の家を出るのですが後から姉に聞いたら「何かあったに違いない」とすぐわかり、ここでやさしくすればえらいことになると4階の窓から涙ながらに見送ったそうです。それとは知らず、何と冷たい姉なのか、もう二度と来るかと嫁ぎ先にしか居場所のない決意を固め序々に強い強い嫁に変身していくのであります。(ハ ハ ハ)

会社にも慣れ、生活のリズムも安定し子供達も成長し、忙しい思いもしましたが充実した日々を送っていました。ジョンさんとの出会いは会社の取引先ということで顔見知りとなりました。ある日ジョンさん家族が海水浴に出かけるのに欠員が出来たので「どや?」と誘いを受けましたが子供達とポチは淡路島にキャンプに出かけており、ポチと息子達が帰るのを待ってその足でジョンさんの故郷である鳥取に海水浴に出かけることにしたのです。子供達にとってはハードでも楽しい夏休みを大いにはしゃいでいました。ジョンさんとの出会いはまあこんなところでしょうか。

鳥取に行く途中の浜辺で海水浴を楽しむため車を広場に停めていたところ車上荒らしに遭い荷物のほとんど盗まれてしまいました。大喜びしたのは我が家の息子達で「ヤッター!゛夏の友゛も盗まれたんやて!宿題せんでええなぁ!」到着した鳥取では連日雨で海水浴を楽しむどころではありませんでした。車の中のほとんどの荷物は盗まれていましたが黒いゴミ袋に無造作に突っ込んでいたジョンさんの商売道具のカメラは盗難に遭っていませんでした。ドロボーはゴミだと勘違いし持って行かなかったんでしょうね。教訓です。旅先で高価なカバンに高価な物を入れると盗難に遭います。高価なものは粗末な紙袋がいいかもね〜。帰宅後、教育ママゴンは学校に連絡をして「夏の友」の再交付を依頼し息子達に与えたことは言うまでもありません。


[1641] 【1653回 定年退職までのカウントダウンあと29日】 2008-10-02 (Thu)

昭和49年に次男を出産し、またまた産前産後休暇を頂きました。長男が4歳くらいの時、ポチが急に高熱と震えが来て町医者に診察してもらうと「寝冷え」だといいます。寝冷えで震えがくるものかと阪大病院に走りました。「急性腎盂炎」で即入院なのですがベツトが無く塚口にある近畿中央病院に紹介され入院しました。1ケ月ほどの入院生活を退屈したのか、何を血迷ったのか「建て売り住宅を仮契約した」と言うのです。そう言う大事な事は家族に相談してもらわないと、いかにも嫁が姑との同居を拒んでいるような険悪なムードで「空気の読めないポチ」でした。ある日、住宅屋から電話があり早く本契約しないと次のお客様が待っているという内容の電話があり姑にバレてしまいました。私はポチから全然聞かされておらずオロオロしていると姑が「一度一緒にその家を見に行きましょう」とやさしい言葉をかけてくれました。あんちくしょうは入院先で私の気持ちなんぞはちっとも理解しておらず「これはどういう事ですか!子守も引き受けているのに、この家が気に入らないのですか!」と言われたらどうするつもりだったのかと今思い返してもドキドキします。ローンの設定に「入院していることは絶対に内緒にして下さい。でないとローンがおりません」と言われ、何故いま家を購入しなければならないのか理解に苦しみました。あとでわかったことですが心臓病や腎盂炎と病気ばかりするのは家の方角が悪いのだと信じていたようです。(病院で患者さん同志でそんな会話があったかも)

新居に移り、次男をおんぶし、ママチャリの後ろに長男を乗せ、姑の家まで通う毎日が始まりました。雨の日は傘をさしてサーカスの様な恰好でした。商店街の真ん中で濡れた服を着替えさして幼稚園バスに乗せます。今のように車があるでなく、運転ができるでなく冬は結構つらかったです。ポチは、子育て、家事の手伝い等は今の若者の様にするでなくいつも一人でバタバタと会社、育児、家事と気が狂いそうな毎日を過ごしていました。家の方角が悪いから転居したはずなのに今度は心臓の手術またまた「網膜剥離」になって入院、手術とポチから病魔は去ろうとしませんでした。息子には父親が死んでも大学はお母さん一人でりっぱに出してやるからと親子の決意を強めました。この時ほど働き続けていてよかったと思ったことはありませんでした。


[1640] 【1652回 どえらい怪我】 2008-10-01 (Wed)

日本の山は勿論の事、海外の山々を走破している私の高校時代の山好きの友人がいます。彼もまた「加藤文太郎」に憧れ「孤高の人」は3度も読み返したそうです。私が登る山々は必ず2回以上は登っており土日は金剛山を散歩道の様に駆け下りている様子ですが北鎌尾根だけは未踏の様子でした。その彼にお互いの還暦を祝うメールを交換したところ、えらい事故に遭遇していた様なので「明日は我が身」と警告を発するために事故の状況を説明させて頂きます。

平成20年1月、北海道のアンヌプリに登っていたときのことです。登山を終えスキーゲレンデまで降りてきて山スキーを履き35度のゲレンデに入り滑り始めたころに林の中から突然ボードが飛び出し同行していた友人は頚椎捻挫、私の友達は足を骨折、3ヶ月間、北海道の病院に入院、その後自宅近くのリハビリ病院に40日間入院しました。怪我の様子は左足の膝から下の腓骨、脛骨、足甲が亀の甲羅のようにグチャグチャになりました。10日間の牽引の後に4時間の手術となりました。手術前にビッコになっても山だけは登れるようにしてほしいと担当医に懇願したそうです。一時は障害も覚悟したそうですが、担当医が北海道大学の名医で手術成功。足の中は鉄人23号となりチタンプレートだらけだそうです。来年の4月にはプレートを抜く手術が待っていますが、現在は、もとどおりに歩けることを神様に感謝をしていると書いてありました。後は歩いたり、登ったりして落ちた筋肉を鍛えなおすのだと前向きな姿勢でした。飛び出して来たボーダーはそのまま去って行ったそうです(自動車事故ならひき逃げ)登山をしている時には落石などに細心の注意が必要なことは勿論ですが人災によるこのような怪我もあるという事をお知らせしたかったのです。


[1639] 【1651回 定年退職までのカウントダウンあと30日】 2008-10-01 (Wed)

10月に入り、いよいよ定年退職の日が近づいて参りました。得意先の皆様が「いつまでだったか」の確認の電話が入ると決まって言われます「何や!うれしそうやなぁ!?」そりゃあそうです。小学校と中学校と高校の卒業式を一度にするみたいなものです。21歳の時に会社の窓に「女子社員募集」というベニヤ板で書いた求人表を見てポチのママが「近くて良いから」と勧めてくれました。近いですとも片足ケンケンで10歩ほどですからね。それまで勤めていた会社に退職の意思表示をしましたがなかなかうんと言ってもらえず面接を受けたから5ケ月ぐらい経過しました。嫁姑問題に発展してはと社長の奥様が仲に入り円満退職することができました。退職金の代わりだと軽トラ満載の電化製品の嫁入り道具を社長が用意してくれたのにはうれしくて泣きました。5ケ月前の面接でしたので空席確認に行くと「待ってたよ」と総務係の愛想の良いおじさんが返事をしてくれ入社に至ったのです。昭和44年10月15日のことでした。

電話応対、接遇マナーは大手企業で嫌と言うほど訓練さされておりましたし、直前に勤めていた会社は家内企業の様な小さな会社でしたので、集金から注文聞き、客からの怒声も請求書の発行も、と雑務全般をしていましたので新しい会社ではありましたが何の戸惑いも不安もありませんでした。21歳という若さも武器となり現場のおっちゃん達とも和気あいあいで、現代の様ないじめに遭うこともなく快適なOL時代をスタートさせたのです。

ポチの実家で新婚生活が始まりましたが1階には両親が、2階の私達の部屋の隣にはポチの兄と弟が同居というものすご〜い生活がスタートしました。慣れない会社勤めと、慣れない家事ではありましたが姑さんのやさしい指導のもとで料理も覚え、夜は和裁の習い事を始めました。師匠は姑さんでした。給料をもらうと銭湯代金と小遣いを除けて、あとは姑さんに渡していたんです。それは不自由かと聞かれるとそんなこともなく、ごく自然な成り行きとして受け止めていました。昭和45年の11月に長男が産まれ、ハイハイするころになると1階に住む両親が2階に移り、私達が1階で過ごすことになりました。長男の出産は難産で最終的には帝王切開となりましたが出産後も続けて勤務してもよろしいと姑さんの一言で会社設立以来初めての「産前産後休暇」を取ることとなりました。


[1638] 【1650回 観光バスのガイドさん】 2008-09-30 (Tue)

秋の全国交通安全運動は今日でおわりました。相変わらず自転車の事故が多発した交通安全週間であったようです。私の当番の日は台風接近により街頭キャンペーンは中止となりました。今年の6月から大幅に改訂された事項は

@ 自転車を運転する13歳未満のこどもにヘルメット着用義務
A 後部座席のシートベルト着用義務
B もみじマークの表示義務化

の3点が重点的な改訂でした。その影響を受けてではないと思いますが9月30日付けで岩手県交通(盛岡市)は車掌制度をなくし、10月1日から全便ワンマンバスに切り替えるそうです。「いろいろありがとう」「ご苦労さま」。切符にはさみを入れるたび、顔なじみの乗客から掛けられるねぎらいの言葉。車内での掛け合いはもう見られなくなりました。
穂高縦走の折りに高山行きのバスにも車掌さんが乗り合わせていました。「もう2〜3分待って」とドアに足をかけて出発を妨害し車掌さんと雑談しながら時を稼いだことがあります。黒いカバンを腰に掛け切符切りハサミを片手に持ち、社内を廻ってきながら地図を聞いたり、世間話をしたりでローカルなムードが微笑ましいと思っていたのですがそれも出来なくなりますね。

これは路線バスの話しで、では観光バスはどうなるのでしょうか。

6月の改訂を受けて走行中、車内で立っていてはいけない、ということになります。それを忠実に守れば、仕事内容は、大きく変ってきます。また、バスの台数をたくさん持っている会社が、バスガイドは着席案内をする、と関係各社に理解を求めたといいます。各バス会社で対応は違いますが、どの会社も、どうしたら良いか、正直困っているようです。いっその事、進行方向とは逆に、お客様の方に向けて座る椅子に改造すればどうなのかしらね。

10月の中旬に警察の研修会があり観光バスを利用するので、その時にガイドさんがとう対処するのか。それを見たおまわりさんが「違反だ」と注意するのか、いまからその対応が楽しみでなりません。その事は見て、聞いて、伝えたいと思います。

10月1日から後部座席のシートベルト着用は義務となり違反者には罰則(行政処分1点減点)が科せられます。気をつけてね



[1637] 【1649回 マナーの悪い登山グループ】 2008-09-29 (Mon)

9月の最終日曜日を利用してダイトレの最後のコース「滝畑ダム〜槙尾寺」の下見を終えました。みなさまにご満足のいただけるコース間違いなしと感じました。アップダウンありますのでステッキは必ず携帯して下さいね。

★今日はマナーについて「人のふり見て我がふり直せ」★

河内長野駅で9時04分発のバスに乗るためにバス停に並びます。発車までまだ40分以上もあるというのに、どこかの登山グループが、すでに所狭しと並んでいました。岩湧山のススキを求めてラッシュの様です。この時期は臨時便も出るとのことで安心はしていましたがしばらくして列に異変が起こりました。

私の前の列が見る見る間に長く伸びていくのです。おかしいなぁと思い、じっと観察していると後から来た人達が「やあやあ」と、さも最初から並んで居たように列の中に吸い込まれて行くではありませんか。4〜5人は見て見ぬふりをしました。しかし自分たちがバスに乗れないかも知れないと言う危機感に陥った時、ハチキン美智子はぶっちぎれたのであります。

「ちょっと〜!後ろの長蛇の列見て下さい。先に来た人達がマナーを守り並んでいるのですよ後ろに並んで下さい!」「私達このグループと一緒なので・・・」「それはダメや。後ろに行ってきちんと並んで!」しぶしぶ後ろに移動しました。次はご家族に送ってもらった2人のおばさんがまた列にもぐりました。注意するとリーダーに挨拶をするだけだと言います。見ていると列の中にとけ込んでいます。「このグループのリーダーはどなた?」もうリーダーを教育するしかありません。老婆の様なリーダーが名乗りをあげて来ました。別のおばさんが「あのぉ私は次の停留所で降りたいのですがどうすればいいですか?」と私に聞きます。「じゃあ運転手さんに理由を言って、前から乗せてもらってはいかがですか」ちょっと〜ちょっと〜私ここの整理係じゃないっちゅうねん!(笑)

そうこうするうちにバスが来て、案の定、積み残しが出ました。530円出して座って行くのと、立って行くのとでは大違いです。横から入ったがために座れる席が立たなければならなくなると不快感が憎悪に変わります。私達は何とかギリギリ座れました。そしてバスの中は大声でおしゃべりが始まりました。今、喋らなくてもいい内容の会話ばかりです。やまたびの教訓として今日の体験は「明日は我が身」と真摯に受け止め決してこのような行為のないようにしたいと痛感しました。

11月の滝畑ダム行きのバスが今日の様に混み合うかどうかはわかりません。駅の端っこがバス乗り場(駅から出て@〜F番乗り場があり滝畑ダム行きはF番まで移動)ですので速やかに移動しマナーを守って待ちましょう。後から来た仲間を前に引き込む行為はやめましょう。よしんば乗れなくても臨時便がすぐ出ます。終点の滝畑ダムへは、ほぼ同時に到着します。あわてないでマナーを守りましょう。そして車内では必要最小限の会話でお願いします。

今日はマナー講習に行ってきて気分でした。くわしい下見情報(バス代金やバス時刻や打上会場等々)はやまたび倶楽部のホームページでご案内致します。


[1636] 【1648回 井戸端会議】 2008-09-27 (Sat)

★朝テレビ画面に知り合いの顔が出ました。はてさてどこの誰だったのかとしばらく画面を見ていましたら伊那市長谷と出ました。そうだ〜この間泊まった「みらい塾」のおかみさんや〜。あちこちのテレビ局から引っ張りだこって話ていたけどほんとだったんだ〜。あまり世間に知られてしまうと秘境が秘境じゃなくなるよ〜ここでとれる肥料「アキラ」が野菜作りにとてもいいんですって。来年行って買おうかな?

★大変だぁ
ももちゃんちのパパが10月から広島に転勤になりました。家を買ったばかりだし、子供も小さいしと心配したら毎週週末は帰阪の処遇付きなんだって。ちょっと安心しました。

★「みっちゃんの智恵袋」
@お風呂の湯あかを防ぐ方法
入る前に重曹を大さじ2杯いれておきます。こうすればお風呂のふちに湯あかがつかず、その上お風呂のお湯もやわらかくなり、美肌作用も期待でき一石二鳥です。この間「重曹買ってくれ〜」と叫んでいたポチさん試してみてはいかが?

A苦い薬を飲ませる方法
いやがる子供に苦い薬を飲ませるときは、先に氷を舌の上でしばらく頃がしてあげます。 すると舌の感覚が麻痺して味を感じなくなるので、苦い薬でも難なく飲めます。

B毛玉取りが簡単に採れる方法
使うのは台所にある裏面が山形ででこぼこしたスポンジです。山形の部分で毛玉のある 部分を、生地の目にそってやさしくこすることで、簡単に毛玉が取れます。

Cストローで簡単真空パック
 野菜や肉、魚などを冷凍で保存するのに真空パックがない場合の裏ワザです。普通のビニール袋に食材を入れてストローで空気を吸い出せば、真空パックの出来上がりです。


[1635] 【1647回 何か気抜けしちゃいました。】 2008-09-26 (Fri)

加藤文太郎の野辺の送りを済ませて、何か力が抜けちゃいました。「サスケとうららのテクテク日誌」に20年前の庭先の彼岸花が開花したと書いてあり胸が熱くなりウルウルしています。嫁と姑、父と母がとても仲良く暮らしていたことが彼岸花を通じて伝わってきました。

私が母と死別したのは12歳の時なので思い出としてはとても少なくて母の顔を思い浮かべることさえ困難なほどに年月を重ねてきました。思い出の数少ない中で彼岸花の話しがあります。

雨上がりの学校帰りに満開の曼珠沙華が真っ赤に咲き稲穂の緑とのバランスがとても美しかった事を覚えています。1時間の通学路は道草を喰うには最適で、春はイタドリやグミの実、びわなど自由に食べても良かったんです。帰り道に曼珠沙華を傘でなぎ倒しながら遊んでいる所を母に見つかりました。友達も一緒だったのでその時には、おとがめはありませんでした。

別の日に、母と一緒に畑に行き、帰り道にまた曼珠沙華を見つけ反射的に棒切れを探し花の部分を切り落として行くのです。子供達の間では「チャンチャンバラの花」ともいいました。チャンバラごっこをして首を落としていくと言う意味です。母が「みちこ、この花は仏様の花でそんなことをしたらバチがあたる。仏様の花だから家に持ち帰ってもいかん」と言われました。成人して曼珠沙華の別名は彼岸花であることを知り、母の言葉の奥深さをしりました。

この季節、彼岸花を見つけると母の言葉が思い出されて「♪♪あ〜か〜い花なら曼珠沙華〜♪♪」と口ずさみたくなるんです。今年はすでにダイトレで歌いましたよね。歌に思い出があるなんて素敵ですね。


[1634] 【1646回 加藤文太郎 ラスト】 2008-09-25 (Thu)

「加藤文太郎 ラスト」

加藤文太郎もまた足の指先に激痛を感じていました。凍傷にかかってしまったのです。明け方になると感覚は全くなくなりました。荷物は出来る限り軽くしなければなりません。燃料もザイルも雪洞のそばに置いていくことにしました。青年はよろばいながらまだ歩くつもりはありましたが、すぐに座り込んでしまいました。文太郎は青年を、どやしつけながらその都度正気を取り戻して歩こうとはしました「これくらいの事でへこたれていたら関東の奴に笑われるぞ!」青年の鼻孔から出る白いかすかな息が、いま永遠の安息に向かって旅立とうとしていることを示している様であった。

午後2時、湯俣まで行けば文太郎は助かるのですが、青年はまだ生きていて、死んだと同然であってもまだ生きている。生きている青年を捨てて自分だけ生きようとは思いませんでした。文太郎はピッケルで縦穴を掘って、青年を引きづり込みました。文太郎は空腹と寒気と幻視幻聴に悩まされ下半身の感覚が薄れて行きました。足の指から始まった凍傷は下半身を犯してゆくようでした。青年は生きている気配はなかったものの死んだという確証もありませんでした。青年の吐く白い息はもう見えなかったのです。

「立派だったぞ!」やる限りの努力を尽くして、もはや何の心残りもありません。青年を寝かせ、枕元にピッケルを立て、わずかに残った食糧のチョコレートの半分を使者の枕元に供えました「おい食べろよ!」と手を合わす加藤文太郎がそこにいた。加藤文太郎に敗北はないのです。俺は不死身の加藤文太郎だ。これからは自分の思う通りの単独行ができるぞ!。文太郎の心は澄んでいました。5日間ろくろく食べていないので、それに応じた食べ方をして湯俣まで行かなければなりません。

幾日かぶりに太陽がでました。久しぶりに見る日差しでありました。会社の同僚が語りかけてきた時、幻視と幻聴の闇をさまよいだしたことに気が付きました。負けてたまるか!俺はヒマラヤに行くぞ!加藤文太郎は雪の中に倒れました。花子の幻視を見、青年の幻視を見たのです。頭の中がガンガンに鳴り雪の中で立ちすくみました。雪の上にサブザックを敷いて膝を抱きました。どのくらて眠ったかわからないが腕時計はとまり日は隠れていました。文太郎は腰を上げ、第三吊橋の岩小屋をめざして歩きました。「救援隊が来た!」文太郎は叫びました。 救援隊の先頭には会社の上司である課長がいて文太郎に近づくと「単独行しかやったことのない君が初めてパーティを組み、山行に失敗したということはきわめて皮肉な証明方法によってパーティ山行を否定したことになるな」この出来事はすべて幻覚であったのです。

文太郎は死に直面しつつある自分を感じていました。生と死のきわどい境界を往来していたのです。文太郎はそれでも歩きました。まだ俺は歩ける、もう一日歩く自信と体力はある。そうすれば助かるのだ。足が重く雪に喰われた足を引き揚げることができなくなりました。そしてたたずむことが多くなってきました。ピッケルにすがって息の乱れを調整したりしました。

吹きだまりの雪の中に胸まで入って、ほとんど手の力で這い出したところで第三吊橋を見たのです「勝ったぞ!俺は生還したのだ!」そして岩小屋を探しました。目の前にあった吊橋が消え、神社の常夜灯が見え、花子と登志子の待つ我が家の灯りが見えました。「花子さん!今帰ったよ!」 文太郎の唇に微笑みが浮かびました。「疲れたよ。こんなに疲れたのは今までに一度もなかった」文太郎は雪の中に腰を下ろして、二度と目覚めることのない眠りに入っていったのです。

北鎌尾根に消えた加藤文太郎と青年の消息は、数度に渡る捜索をもってしても不明でありました。文太郎の遺体が天上沢第三吊橋付近で発見され、さらにその上流で青年の遺体が発見されたのは、その年の4月に入ってからでありました。

(完)

★(最後に)
登場人物の名前は加藤文太郎の他はあえて妻の花子と娘の登志子だけとしました。後は課長だとか青年だとか後輩だとかの表現にしました。これは私なりに意味があり連載して行く上で混乱を招かないためです。効果があるかどうかは別として登場人物をシンプルにしたかったのです。つたない私の説明で満足がいくはずがありませんが興味を持って貰うためのカンフル剤になり書店や図書館に行き「ほんまもん」を求めて頂けたらと思います。


[1633] 【1645回 加藤文太郎 その22】 2008-09-24 (Wed)

「加藤文太郎 その22」

行くのか、行かないのかと青年は文太郎に迫り、神戸登山会のメンバーの2人が興味を持って見ていることを青年は充分認識していました。風速30メートルの中、吹雪を衝いて槍へ登るのは感心しないと言うと、じゃあ一人で行く、単独行の加藤、不死身の加藤が吹雪きを恐れるのかとなじり空虚な笑いと悲壮がかった笑いを浮かべるのでした。神戸登山会の2人は山は逃げない、そう慌てることはないだろうというと関係ない人は出しゃばるなとまで言ってやりこめてしまいました。文太郎は青年が自らリーダーとなって暴風雪の槍ヶ岳を登るところを見せたいのだと思いました。

こうして吹雪の中、2人は小屋を出て行きました。吹雪でまったく視界が閉ざされた中で2人はザイルを組みリーダー権は青年が取りました。文太郎は厳寒の槍の穂ははじめてではなかったのですが、ザイルを組んで登ることがわずらわしく感じられました。青年はハーケンの打ち方もピッケルの使い方も上手でありましたが、それらの技術を文太郎に見せよう、見せようとする事がとても気がかりでした。北鎌尾根へ降りるルートを偵察しようという青年に対して風が強いからやめろと忠告しましたが、青年は首を横に振ったのです。こうして偵察を終え肩の小屋に戻り、いよいよ明日は北鎌尾根へ出発することとなるのです

昭和11年1月3日、その朝も吹雪でした。神戸登山会のメンバーと文太郎は何の関わり合いもないので、青年だけが神戸登山会の2人を槍の穂へ連れて行ってる間文太郎は小屋の片づけをする事にしました。小屋の片づけをしながら食糧のチェックをしたところ、ほとんど底をついていました。小屋に貯蔵しているものと思っていた食糧はなかったのです。この食糧では北鎌尾根へ出かけられるものではありませんでした。それに外は吹雪で北鎌尾根活きは無理と判断し下山するしかないと文太郎は考えていました。

昼前になって3人は槍ヶ岳から戻ってきました。食糧がないので下山を勧めると冬の北鎌尾根をやると言って出て来たのに加藤文太郎ともあろう者が吹雪きで退散とは驚いたものだとなじりました。パティを見捨てて一人で帰ることも出来ないはずとも言いました。文太郎は言っても無駄だと黙っていました。青年は、いつもの青年ではない。「よしっ!やろうっ!」文太郎は自分自身に言いました。

槍の氷壁はそれほど苦労はしませんでした。天候が変わって来た鎌尾根は無理と判断したのですが青年は30分だけ北鎌尾根を歩かせてほしいと言い終えると、すでに北鎌尾根の降り口に向かって歩き始めていました。突風の一撃を合図に山の相貌は変わりました。飛雪が舞い狂って視界をさえぎり降雪がはじまりました。青年も悪天候にやっと帰路につくことを納得したのです。足跡はすでに消え、青年はがむしゃらに帰路を探しルートをはずして登り返す様に言う文太郎の言葉も聞かず氷壁をよじ登って行った次の瞬間、手袋が焼け切れるのではないかと思うほどの摩擦にこらえながら青年の落ちるのを止めました。

時間はすでに4時を過ぎていました。天候の回復のないまま、ビバークをすることとなり、どうにかしゃがみ込む事の出来る場所を確保しました。寒さに耐え、空腹に多恵、眠気に多恵、朝を迎えました。3日間も吹雪くと食糧は無くなってしまいます。肩の小屋へ戻ろうという文太郎に対して、青年は、やってやれないことはないと譲りませんでした。風が強く槍の穂へ登り返すのも無理と判断し、ビバークを決めましたが、青年は体力的、精神的にだいぶ参っているのが文太郎には判断できましたので、ここからは文太郎が先頭に立ちました。

文太郎は背後で何か起こった気がしました。吹雪ではなく青年が仰向けに倒れ込んでいたのでした。ザイルの重さが、ぐんと文太郎の肩にかかったとき、踏んばっている足の雪が、たわいなく崩れて行くのを見て、いま自分は雪崩の中に巻き込まれて流されていき自分の身体ではなくなっていました。幸いに二人ともケガはありませんでした。そいて園よはもっとつらい夜を迎え青年はさらに弱っていきました。青年は足が凍傷にかかっている様子で、うつろの目を投げかけていました。湯俣へ出ることを決め、2人は雪まみれになり、滑ったり、転んだりの連続でありました。青年が誰かの声がすると言いだし幻覚に襲われていることがわかり、死の影が、まつわりつきはじめた事にゾッとしたのです。「ぼくが北鎌尾根をやろうとさえ言い出さなければよかった、すみません」青年はそう言って頭を下げたのです。 (今日はここまで)

明日はいよいよフィナーレです。


[1632] 【1644回 加藤文太郎 その21】 2008-09-23 (Tue)

「加藤文太郎 その21」

加藤文太郎は青年と冬の北鎌尾根を実行することとなり、栃尾に入りました。出発前に花子が持たせてくれて葉書を取り出し今後の予定と必ず無事帰るからと書きポストに投函したのです。目の前には真新しいソリの跡がついていました。ソリの跡には7人か8人の登山靴の跡がついていました。この足跡からいくと肩の小屋は満員だと青年が言うと文太郎は「さあ。これだけのうちで何人が槍まで登れるかな」と言いながら、その夜は予定の槍見温泉で泊まることにしました。宿には先客がおり偶然にも青年の所属する神戸登山会メンバー2人が槍ヶ岳を目指しており、文太郎に紹介しました。これも何かのご縁と明日の山行を同行しようと言うことになりました。文太郎も、ここで会って別行動というわけにも行かないだろうと槍ヶ岳までの同行を承諾したのです。神戸登山会のメンバーは有名な加藤文太郎と同行できることを光栄だと喜びました。

槍平までは急な道ではなかったのですが神戸登山会メンバーの足が遅くなり文太郎は青年にゆっくり歩くように声をかけました。ゆっくり行けと言われるとしばらくはその通りにしましたがすぐまた2番との間の距離を離してしまいました。青年はこんなところでもたついていたら槍平小屋にはつかないとハッパをかけるのでした。文太郎は空を見上げて明日の天気は吹雪だと予想し青年とトップを交代しました。神戸登山会のメンバーに合わせるには自分がトップを歩く方がいいと考えましたが単独行の加藤文太郎にとって他人のペースに合わせることのむずかしさを、しみじみと知ったのです。午後2時過ぎに槍平小屋に着きました。他に客はおらず番人がひとり戸口に立っていました。青年は神戸登山会のメンバーにこの位でバテテいたら槍ヶ岳は無理だと告げ、メンバーもまた食事も取れないほどに疲れて起きてこようとはしませんでした。青年は食事が済んだら槍ヶ岳の肩の小屋まで行こうと計画していて明日が吹雪なら、なおさらだと一人で興奮しており、文太郎は何を言っても無駄と悟り無言のままでいました。青年は「荷物を軽くしましょう。2日間の食糧を持っていけば何とかなる」

今から槍ヶ岳の肩の小屋まで行くという青年と、それは無茶だという小屋の番人の間で言い争いが続きました。この間、文太郎は一言も口出しはしませんでした。青年の威嚇ともとれるほどの声に圧倒され、寝ていた神戸登山会のメンパーもしぶしぶ出発の支度にとりかかりました。文太郎は2日間の食糧に不安はありましたが下見をしている青年が「いざとなったら小屋の食糧を借りる」と言っていた事を思い出し、肩の小屋に食糧の貯蔵があるのだと判断しました。今回の登山は青年のために来たのだ。青年の痛んだ心を慰めるためと、青年の山行の最後を飾ってやるために出て来たのだと思い、青年に従うことにしたのです。神戸登山会のメンパーを同行さすのは青年が同じ山岳会として、いいところを見せたいのだとも思いました。この時、文太郎はリーダーの権利を完全に青年にゆだねたのであります

4人は槍平の小屋を午後3時05分に出発しました。神戸登山会のメンバーの遅れが目立ちます。青年は加藤文太郎に一足先に行って肩の小屋の準備をするからと言い、足早に進みました。青年の性格は山に来たら別人になる、注意しなければならないと思い同行者としての青年に対してはじめてごくわずかな不信の念とこの山行から早々と退却し家族のもとに帰りたいと思ったのです。昭和11年1月2日、文太郎の予想通り猛烈な吹雪で夜が明けました。小屋の中にも吹き込んできます。4人はリュックの中から2日分の食糧を出しこれからは共同管理の食糧となることを了解し大切に使うこととなりました。甘納豆と小魚の食事で山行をし続けてきた文太郎にとって、食事の配給はひどく倒錯した気持ちに襲われたのでした。青年は食事が終わった後、大槍の穂を越えて北鎌尾根の降り口まで偵察に行こうと言い出し、文太郎は冗談を言っていると思い返事はせず、あいまいな微笑みを浮かべました。青年が「なぜ笑うのですか!加藤さん!ぼくと二人でいくのは嫌なのですか?」と怒りを含んだ声で言いました。加藤文太郎のあいまいな微笑みは、今まで多くの人に誤解を与え続けてきました。 (今日はここまで)


[1631] 【1643回 加藤文太郎 その20】 2008-09-22 (Mon)

「加藤文太郎 その20」

青年は八分通り北鎌尾根行きを同行してくれるものと信じているため早く決心をつけなければならないと考えていました。パーティを組むなら日程やコースの相談をしなければなりません。加藤文太郎は冬山について考える日が多くなり迷いの中に自分がいることがわかっていました。その迷いを山まで持ち込むことは非常に危険であるということも知り切っていました。ある日、会社の門を出たところで青年が待っていました。喫茶店につくとすぐ青年は「北鎌尾根に行くのか行かないのかはっはりしてくれないと困ります。」独身の頃の様なわけにはいかないことを話すと「行かないって事ですね。噂通り家庭を持つと山を捨てたってわけですね」青年の声はうわずっていました。目には涙が浮かび喫茶店を飛び出した青年は闇の中に消えて行きました。

翌々日、加藤文太郎の会社に青年の父親が訪ねて来たのです。思いあまって来たのだといいます。悪いこととは知りつつ変貌してゆく息子が心配で机の中の日記を見たら、失恋したことが書いてあり昨日の日記には「ザイルは切れた。ひとりで死の北鎌尾根をやる」と書いてあったことを話しました。青年の父親は息子が今回の山行を最後に山をやめて仕事につき、出直そうとしていること、親として加藤文太郎に同行してもらいたいと哀願するのでした。

今度の山を最後に人生をやり直すという青年の言葉が加藤文太郎にとって素晴らしい啓示となりました。文太郎は今度の山行を最後にして危険な冬山をやめる、せいぜい夏山ぐらいにすると決意し冬山をやめる時期が来たのだ、青年のために冬山へ行くのではない、自分の冬山との決別山行であり、たまたま青年と同行するまでだと自分自身に言い聞かせ、青年に北鎌尾根行きの返事をしました。電話の向こうで青年が喜びのあまり、すすり泣いているのが伝わってきました。 それからは自宅で何度となく打ち合わせをするのでした。お茶を持って入ってきた花子は二人を見て文太郎をこの青年と一緒に山へやってはいけないのだと身震いするような悪寒に奪われたのでした。「山へ行くのね」「今度を最後に冬山はやめようと思っている。いわばその区切りをつける様なものだ」花子は青年と山へ行くことが不安でたまりませんでした。「心配しているのか花子?おれが山で死ぬとでも思っているのか?」今まで静かに寝ていた登志子が突然目を覚まし激しく泣き出しました。乳の欲しい泣き方ではありません。「お父さんが山へゆくのが嫌で泣いたのか登志子」と文太郎は我が子を抱き、あやしました。

花子は山へ行くことをやめてほしいと結婚後はじめて自己主張をしました。何としても思い留まってほしかったのです。「約束をしたのでどうにもならない」今更取りやめる気はありませんでしたが、青年が取りやめると言ったら、むしろ喜んで山行を取りやめようと思っていました。北鎌尾根行きの準備がはじまりました。加藤式ウインドヤッケの点検、樺太犬の毛皮で作った胴着のほころびを慎重に補修しました。

出発の日、花子は登志子を連れて見送りに出ました。途中で近所の少年達が大きな声で争いながらやり合っていて、近づいてくる文太郎と花子に「『くれ』っていう時はこうですか?」と石で「暮」と「墓」の字を書いて見せました。「そっちが『くれ』で、こっちは『はか』」と答える文太郎の後ろで花子は身のすくみそうな悪寒に奪われました。文太郎は寒い中花子と登志子がどこまでもついてくるので滅多に乗らないタクシーに乗るがいいと思いタクシーを停めました。1枚のガラス越に文太郎の顔を見ると笑いかけてはいたが笑いの化石の様にこわばって見えました。「いけない!夫を山へやってはいけない。絶対に山にやってはならない!」花子は走るタクシーを追いました。夫を山へやっては取り返しのつかないことになる、ひきとめねばならないという妻としての義務感のようなものが花子を走らせました。その時不吉にも下駄の鼻緒が切れたのでした。鼻緒の切れた下駄を持ち、泣きさけぶ登志子を抱き花子は涙がとまりませんでした。故郷の神社で鼻緒を切らして泣いている所へ現れた文太郎を思い出していました。(今日はここまで)


[1630] 【1642回 加藤文太郎 その19】 2008-09-21 (Sun)

「加藤文太郎 その19」

昭和10年11月13日花子は産気づきました。午後12時を過ぎた頃、まもなく産まれると言うことで文太郎はお湯を沸かしました。1時を過ぎて2時を過ぎてお湯を何度か沸かし替えましたが産まれる気配はなく産婆が医師を呼んで来るようにと文太郎に言いました。医師の家の戸を叩き看護婦が「先生はまだ眠っています!」と眠い眼をこすりながら言うと「大変です。花子が死ぬかも知れません!」産婆からの伝言を伝えると切羽つまった様子がやっとわかりすぐに行くから先に帰る様にといいます。帰り道、長田神社の神主の家の戸を叩き「安産の御札を下さい」と御札を買って帰り、花子の枕元に置くのでした。

「しっかりしなさい!」医師が到着しても産まれる様子はありません。文太郎はいても立ってもいられませんでした。どの位時間が経ったのでしょうか。突然、妙な声がしました。低いけれども力強くリズミカルな産声で女の子が生まれたのでした。文太郎は男の子なら「岩男」、女の子なら「沢子」と決めていました。男なら岩の様に力強く、女の子なら沢のようにうるおいのある子と思っていたのですが花子の母と花子に反対をされ「登志子」と名付けられたのです。

加藤文太郎は結婚して変わり、子供が産まれて変わりました。無口で人付き合いの悪い男がそれほどに変われるものなのかと社内でもっぱらの評判となりました。今まで断り続けていた忘年会にも出席し二次会へ行く道すがら偶然、青年に出会うのでした。青年はよいところで出会った。いまから加藤文太郎の家に行こうと思っていたのだと話します。二次会を断り青年と一緒に帰る途中、用件は何だと聞き出しました。「実は冬の北鎌尾根をやろうと思うのです。一人では無理なので相手を探していたのです。しかしぼくには加藤さんしかいない事がわかったのです。ぼくが山を始めたのは加藤さんの影響で、終末も加藤さんとあるべきだと思います」青年の話が終わり加藤文太郎は終末ということばに疑問を感じ、どういう意味だと聞くと、今回の北鎌尾根が終わったら山をやめる決心をした、就職をし人生をやり直すのだと言いました。就職先も決まっているといいます。ひとつの終着として冬の北鎌尾根をやりたい。もし断るならば一人でもやる。力尽きても悔いはない。と言いこの男の心の傷はまだ治ってないことを察するのでした。

「おねがいです。ぼくとザイルを組んで下さい」加藤文太郎はまだ眼の見えない登志子のことを思い、花子のことを思いました。花子は近頃、時々深刻な顔をする文太郎を見て山の事を考えているのかと聞き「そうだ」と文太郎は嘘は言わず答えました。北鎌尾根へ行くべきかどうか考え続けていました。山は信じていましたが山において人は信じてなくこれが自分の信条であり今まで他人と同行したこともなく、ましてザイルを組もうと言われたことは初めてでありました。独身時代の文太郎ならその場で青年の申し出を拒絶していたと思います。断らなかったのは花子との家庭を持っていたから、花子を通じて愛情というものを知り、人間はひとりで生きて行くより複数でいる方が自然であることを悟ったからでありました。ヒマラヤに挑戦する時が来たら単独行はあり得ない、自己だけに依存しすぎる主義を捨ててパーティを組む登山に入って行くべきではないかと考えるようになりました。結婚以来、山らしい山には行ってなく、北鎌尾根冬季縦走という登山家としては目もくらむような誘惑は文太郎の心を揺さぶりました。

久しぶりに好日山荘店を訪れると店主が「1月早々に北鎌尾根をやるんだって?子供が生まれて間もないのに冬山に出かけるのはどうかと思う。今までの君と違って家族がいるんだよ!」文太郎はすかさず「ぼくが行かないと彼ひとりでは無理でしょう。ぼくが行かなくても一人でやると言ってる」「そう言う青年の気負いを押さえるのが先輩の君の役目じゃないか」と店主は文太郎の肩を押し「今年は冬山へ行くのはやめたまえ。青年にはわしがよく言ってきかせる」この店主の言葉が引き金となり加藤文太郎は他人に干渉を受けたことで意地になり北鎌尾根行きを決心したのです。(今日はここまで)


[1629] 【1641回 トレッキングの効用】 2008-09-21 (Sun)

やまたび倶楽部のコースはアスファルトを避け、土の道を探し設定しています。ダイトレはほとんどが「峠越え」ばかりです。このアップダウンと土が、いかに効果があるのか述べて見たいと思います。「ウオーキング」「ジョギング」「トレッキング」に分けた場合、やまたびコースはトレッキングに該当します。
効果その@心肺機能の強化
効果そのA血流の促進
効果そのB脳の活性化
この3点がトレッキングによって効果をあげてきます。「さあ頑張るぞ」の頑張りを捨て(頑張らなくていいのです)無理をしないで、安全にトレッキングを致しましょう。
●服装は露出の少ない物を着て、靴は履き慣れた物を履く。新しい靴は、しばらく通勤、買い物など日常に履いて足に慣れてからトレッキングに使用して下さい。

●リュックはバストベルトとウエストベルトの有る物を選びましょう。ウエストベルトは腰骨の上で固定します。この機能がついていても利用していない人がいますが必ず腰骨に固定してから出発しましょう。

●大きな歩幅、手を振ることはしないでください。足は肩幅に開き小さい歩幅で歩きましょう。手は振らない。手を下に下ろして歩くと血流が悪くなるので腰より上に上げて歩きましょう。1時間歩くと10分休憩が理想です。

●階段の登り方は後足の力で上る。上る時息を吐くと楽に上れます(この事を意識して上ってくださいね)

●食事は必ず炭水化物系を摂って下さい

●中高年の登山の事故は下山時に多いです。ストックのあり、なしでは膝にかかる負担が2倍違ってきます。

森林の中を歩くことはリラックス効果が得られてウオーキングで消費するカロリーの何と2倍の効果があるそうです。リュックの中には行動食以外に「非常食」も用意すると万一の時に慌てないですみます。非常食に最適なのは「梅干し、塩昆布、コンデンスミルク、乾パン」です。

ダイトレも残すは、あとわずかとなってきました。10月の紀見峠から滝畑ダムのコースも峠越えがあり階段もあります。今日の書き込みをしっかりと頭にメモり疲れない歩き方をマスターして下さい。下りにステッキは必需品となります。


[1628] 【1640回 加藤文太郎 その18】 2008-09-20 (Sat)

「加藤文太郎 その18」
結婚式が無事済み、湯村へ新婚旅行に出かけるのです。食事が済み、花子は風呂に入り、本当の意味の結婚式が迫っていることが花子には恐怖となっていたのです。風呂から出て寝床に入りました。胸の動悸が自分でも解るような気がして、文太郎の手がいつ伸びて来るのか、それによって花子の未知の世界がはじまるのです。花子はかすかな咳払いをしました。反応はなくピクリとも動きませんでした。「加藤さん」小さな声で読んでみましたが文太郎は軽い寝息を立てて眠っていたのです。

加藤文太郎は結婚によって人が変わったように同僚達からは見えました。退社時間が迫ると時計を気にして真っ先に帰ってゆくのです。同僚の冷やかしも今までなら不機嫌な顔をしていたのですが、今はまんざらでもなさそうに冗談さえ言って返してくるのです。同僚達を家に招くこともありました。文太郎の変わり方は結婚によるもので、新妻の花子さんが、よほどえらい人なのだろうと社内で評判になりました。結婚によって人生の楽しさをはじめて知りました。花子なくして人生は考えられないと思っていました。素直で利口で申し分のない嫁でした。花子をつれてスキーに行ったり共通の喜びを分かち合いました。山が全ての生活から花子を中心とした生活にも充実感を味わうようになりました。しかしヒマラヤ行きを諦めたわけではありません。ヒマラヤ貯金は1軒家を買えるほどになっていました。花子と結婚して初めて会社へ行く日「何故、石を背負って会社に行くの?」と聞かれた時、文太郎は答えることができませんでした。ヒマラヤ行きの事は花子にも話していないのです。その日から石の入ったリュックは背負わず10年間続けた習慣のひとつは終始したのであります。

花子は身ごもりました。結婚してすぐ身ごもったことになるのでひどく恥ずかしがり故郷の母にも知らせませんでした。文太郎は子供が生まれると言うことが新しい天地が開かれるようで大層喜びました。つわりもなく時折とんでもないものが食べたくなるようで、ある日文太郎に買い物を頼みました。その店先で青年と出会い「やぁその後どうだね」「ひとりで歩いています」近くだから立ち寄っていかないかと花子の待つ我が家へと誘いました。青年は会社も辞めたと言います。加藤文太郎の歩いた後をずっと歩き続けているともいいます。会社は山へ行くたびに休むので迷惑をかけ、つらくなって辞めたと言います。青年の今の登山は自殺山行であり死を意味すると指摘すると、全てを忘れるためにはこの生き方しかないと言います。花子が冷たい飲み物を持って来たとき、死を見つめた様な目つきが文太郎とは交際してはならない人だと直感したのです。
    (いよいよ佳境にはいりました今日はここまで)


[1627] 【1639回 加藤文太郎 その17】 2008-09-19 (Fri)

「加藤文太郎 その17」
加藤文太郎は結婚ということが同時に山と縁を切ることになりはしないかと迫ってきていました。結婚と同時に山をやめるということは考えたこともなかった。花子の手紙にも登山に対して批判がましいことは何もなかった。しかし花子が山に関して沈黙を守っていることがかえって重荷でもあつたのです。翌朝は6時に目が覚めて天気も快晴で、このまま大町まで下山するのは惜しい様な気がしたためスバリ岳を往復することを思いつきました。スバリ岳へ通ずる尾根に目をやると気のせいか最近誰か通った気がしたのです。踏み跡らしきものもあつた。数日前に誰かここへ来たとしたら加藤文太郎と同じく寒いビバークをしたことになるのです。「この真冬に単独行でここへやって来る登山者がおれ以外にもいるのだろうか」そう考えながら出発の用意をしました。スバリ岳頂上にはケルンがありポケットから名刺を出してこごえる手で年月日氏名を記入しました。加藤文太郎が山行記録を発表すると、冬の真っ最中に人間業とは思えない。あれは嘘の記録である。創作登山だと悪意に満ちた中傷が山岳誌に書かれる時かあるため要所要所に名刺を入れておくことにしたのです。

名刺を二つに折ってケルンの石の間にさしこもうとした時すでにそこにさしこんである名刺がありました。なんとそれは好日山荘で出会った、加藤文太郎を崇拝する青年だったのです。青年が文太郎を真似て単独行をやっているというのはたんなるうわさではなく、本当だつたのだとわかると何かくすぐったいものをかんじずにはいられませんでした。「危ないことだ。単独行なんてことは危険この上もないことだ」単独行は決して他人に勧められないことだと思っていました。長い間のあらゆるチャンスを利用しての努力があつてできることなのです。下宿から会社までの往復6キロの道のりを石をいれたリュックサックを背負い、三日に一度くらいは下宿の庭先でビバークし、食べ物に慣れ、寒さに慣れ、そのコースは夏の間に充分研究し、それでもなお危険はあるのです。加藤文太郎は青年に言うべき事は言わねばならないと決心して針ノ木小屋に引き返しました。加藤文太郎は浜坂へ帰る列車の中でつぶやきました。「結婚式は明日の3時からだ。この汽車で行くと夜の8時には浜坂に着く。そうするとまる半日はぼんやりと結婚式を待つことになるなぁ」この半日間をどうして過ごそうかと考えていました。花嫁と違って花婿は何の準備も用意も不用なのです。そうだ観音山へ登ろうと思い立ち、わずか200数メートルしかない山でしたが山には違いはない。その観音山のいただきから家に帰ればいい。加藤文太郎は香住で下車し観音山までの25キロの距離を歩くことにして野宿を決めました。砂浜は風が強く寒かったのですが海の香はなつかしく山で野宿をする時と同じように、着られる物は全身に身につけてリュックの中に靴のまま足を入れ頭から雨合羽をかぶって海老の様に背を丸くして眠りました。

加藤文太郎は浜坂へ帰る列車の中でつぶやきました。「結婚式は明日の3時からだ。この汽車で行くと夜の8時には浜坂に着く。そうするとまる半日はぼんやりと結婚式を待つことになるなぁ」この半日間をどうして過ごそうかと考えていました。花嫁と違って花婿は何の準備も用意も不用なのです。そうだ観音山へ登ろうと思い立ち、わずか200数メートルしかない山でしたが山には違いはない。その観音山のいただきから家に帰ればいい。加藤文太郎は香住で下車し観音山までの25キロの距離を歩くことにして野宿を決めました。砂浜は風が強く寒かったのですが海の香はなつかしく山で野宿をする時と同じように、着られる物は全身に身につけてリュックの中に靴のまま足を入れ頭から雨合羽をかぶって海老の様に背を丸くして眠りました。

翌朝は晴れ。観音山に登る前に550メートルの檜原山があり、ここに登ったとしても3時の結婚式には間に合うという目算が立ちました。檜原山は高度も低く雪はなかったものの登り道がありません。少々この計画は甘かったと気が付いたのです。檜原山の頂上に立ち次は観音山へ行くつもりで時計をみたら午後の2時30分を過ぎていました。3時の結婚式に間に合わせるためには観音山に登らず浜坂に帰るべきであります。しかしここまで来て観音山を登らなければ独身最後の山行が、すべて失敗に終わったことのように考えられてならなかったのです。観音山から自宅へ一気に駆け下りてゆくのが結婚式にもっともふさわしい行事だと思っていた加藤文太郎は計画を変更する気はありませんでした。観音山のいただきから故郷浜坂を眺め下ろしていました。故郷のなつかしい山々や花子の下駄の鼻緒を取り替えた神社も見えます。呼べばすぐ答えが来そうなくらい近くに見えました。「花子さん今行くぞ!」と呼んでみたいと思っただけで恥ずかしくて呼べませんでした。時計を見ると3時を過ぎていました。その頃実家では文太郎の帰りを待っていました。「いったい文太郎は何をしているのか!こっちの気も知らず!」使者を花子の家に向かわせ文太郎がまだ到着していないことを詫びました。苦しい言い訳もしました。3時半を過ぎた頃、再び花子の家に使者が来ました。やっと到着したのです。花婿も花嫁の母も叔母も兄も文太郎の到着に安堵しました。「もう文太郎も花子さんを嫁に迎えたら山には行けません。文太郎の首に縄をつけてその縄の先を花子さんにちゃんと持ってもらいますから」と叔母は花子の母に言いました。(ハラハラドキドキはここまで)
            


[1626] 【1638回 加藤文太郎 その16】 2008-09-18 (Thu)

「加藤文太郎 その16」
父の葬儀を終え、神戸に戻った加藤文太郎は上司である課長の家を訪れ父の遺言のことを話しました。「加藤!きみのお父さんは、きみが人並みでないといってるのではない。より以上人間として進歩してくれと願っているのだ。きみは今のきみのままでいい。今さら生活態度をかえることはない。加藤は加藤らしい生き方をすればいい。」さらに「花子さんと言う人はたいへん利口な人だから、きみに山をやめてくれとは決していわないだろう。どうぞ今まで通り山へお出かけ下さいなどとも言わない。花子さんは黙っている、黙っていてもきみは山から遠ざかっていくだろう」と予言者の様な言い方をしました。

長く世話になった下宿を引き払い、花子との新婚生活を過ごすための引っ越しとなりました。新居は裏返したばかりの畳の臭いがして新鮮でした。荷物を下ろしたその足で加藤文太郎は登山に出かける用意をしたのです。山の帰りに結婚式をすませるつもりらしい。家主のおかみさんはその話を聞きあきれてものが言えないという顔をして加藤文太郎を見送りました。独身における最後の冬山を立山と決め、弘法小屋に泊まっていました。この小屋は昭和5年の同じ日に6人のパーティと泊まったことがありました。剣沢小屋でなだれに遭って全員死んだのだがその時、誰がどこに座っていたのかハッキリと覚えていました。6人のあとを追従しようとして嫌われに嫌われたことも昨日のような気がしていました。弘法小屋の外は吹雪で終日吹雪の音を聞きながら父のこと、花子のことを思っていました。

「単独行の加藤文太郎」という名称は岳界においては特異な存在として承認されていました。加藤文太郎の成長を認めたものでも人格を称えるものではなく「変わり者」という評価しかありませんでした。仕事に於いても次々と新しいアイデアを出し会社の利益に貢献しました。一度晴れた空も明け方になるとまた吹雪き出しました。冬山の天気は吹雪いているのが常識なのであります。加藤文太郎は身支度をして雪の中に出て行きました。天狗平まで5時間はかかるだろうと考えていました。目標のない広い雪原は海と同じように地図と磁石と歩行距離に頼るしか進む方法はありませんでした。単独行であるから慎重になれる。複数のパーティが道を失うのはお互いに誰かを頼っていて、絶対的な責任者の所在が不明確になるのだと思っていました。明日は大町に下り浜坂の結婚式場へ行くぞ。           (今日はここまで)

●今日は北鎌尾根の遭難の話も追加したいと思います

平成20年9月10日(水)大天井ヒュッテに宿泊した60歳の男性は8月に1度大天井ヒュッテに宿泊しましたが、悪天のため東鎌尾根を登って槍ケ岳に向かいました。再度北鎌尾根目指してやって来てザックにはビバーク用の装備一式、一眼レフカメラと大きな三脚をつけて17〜18Kg程の荷物で独標あたりでビバークして夕日や日の出の写真を撮る予定だったそうです。家族から大天井ヒュッテの小池さんに電話があり、まだ帰宅していないことを知り、小池さんから長野県警に連絡を取り直ぐにヘリが飛んでくれましたが遺体で発見されたそうです。県警によると「P12」と「P13」の間で約100m程千丈沢側に滑落していたようです。事故は単独のため何時、どのようにして起きたのかわからないそうです。ついこの間、自分が通過しただけに人事とは思えません。何故単独だったのでしょうか悔やまれます。北鎌尾根は想像を絶するバリエーションルートなんです。

●登山をする時の最低限の努力
1、普段から登山するトレーニングをし体力を付ける、又は維持する。自分の体力を把握した計画を立て無理をしない。
2、装備は、良い物を選び、充分な準備をする。特に重要な物は、靴、雨合羽、ヘッドランプ、食料(非常食)
  


[1625] 【1637回 加藤文太郎 その15】 2008-09-17 (Wed)

「加藤文太郎 その15」
昭和8年12月31日加藤文太郎は氷ノ山越にいました。1月2灯には許嫁の待つ故郷の浜坂へ帰ることができる様な予定を組み、須賀山、陣鉢山の冬山を楽しんでいました。食糧は勿論、甘納豆と乾し小魚です。花子には正月に帰ることを知らせておらず驚ろかせてやろうと思っていました。故郷の山々は1200メートルばかしの山であっても危険は多く、なめていたことに気付かされるのです。北アルプスの乾いた雪と違い故郷の雪は湿った雪で今まで体験したことの無いような苦労が行く手をさえぎるのでした。生と死の境目にタタされていることを知り夢の仲に花子が出てきたのです。山で遭難して幻視幻聴を体験した話しは聞いたことはあるのですが、それはあくまでも話しであって実在については疑問を持っていました。しかし幻視幻聴が予告なしに現れたことで驚愕したのです。死にたくないと思ったのです。この危機を脱出するには、いかなる方法をとるべきかをまだ残っている思考力を凝集して考えました。

これ以上歩き回らず引き返せと言う自分と、凍傷になりかけている下半身のことを思うと歩き続けろという自分と、もう一人の自分がいて「俺のことはおれにまかせろ」とつぶやいたのです。加藤文太郎は「死」に抵抗しました。睡魔に勝つことが死に勝つことだと思いました。「こんなケチな山で死にたくない」花子の幻視が現れて加藤文太郎に後に続けと道案内をするのです。やがて霧は深いものの風は止んでいつの間にか朝になっていました。犬の声が聞こえ猟師が2人登ってくるのが見えました。「菅原村はどちらですか?」加藤文太郎は幻覚でも幻視でもなくまさしく猟師に出会ったことで命拾いをしたのです。菅原村には以前夏に泊まったことのある家があるのです。その家に主人は加藤文太郎を見て山でひどい目に遭ったことを悟り、濡れた物を脱がさし囲炉裏端に座らせ、熱い粥を与えたのです。そして死んだように眠り込みました。朝になり乾いた衣服を身につけて花子の待つ浜坂へと下っていきました。明日は1月4日、会社の始まる日でなのです。新年の顔合わせで仕事はないものの休めば欠勤になるためどうしても今夜中に神戸に帰らねばならないと思ったのです。最終列車に間に合わないためハイヤーを頼みました。「駅へまっすぐ行ってくれ。いや浜の方へ行ってくれ」加藤文太郎は運転手に行く先を指示し「そこで止めてくれ。ちょっと用を足してくる」花子の家の前までくると「山を越えて来たが時間がないので終電車で神戸に帰ります。ありがとう。文太郎」とノートの端に書き、戸の隙間から押し込んでハイヤーに戻りました。「駅まで急いでくれ!」車の仲でその奇妙な手紙を読む花子を想像していました。ありがとうと言う意味は花子にはわからないだろう。死の淵で花子の幻視と幻聴に導かれたことにありがとうと言いたかったのです。

喫茶店の美しい女性は男と満州に渡ると言う無いようの挨拶状が届きました。神戸港を出港するというので見送りに行くと青年も見送りにきていたのです「やっぱり来たのだね」加藤文太郎は青年に声をかけましたが眼がうるみ寒そうな顔をしていました。まだ諦め切れて無い様子です。「チチキトクスグカエレ」浜坂の兄からの電報を受け取り「嫁を貰うまでは死ねない」と口癖の用に言っていた父を思い夜汽車に乗りました。もし文太郎と花子の結婚式を待たずに死んだとしたら何という親不孝者なのかと涙が頬を伝わりました。

プラットフォームには花子がうつむいて立っていました。気のせいか花子の目は潤んでいました。「父は亡くなったのですね?」「はい・・・・」ふたりだけで浜坂の町を歩くのははじめてであった。父の生前中に何故こういう姿を見せてやらなかったのか悔やみました。父の死に顔は安らかで兄が「昨日あたりから妙なことを言い出してなぁ。文太郎の祝言をすぐやってくれって言ったんだ」病床の父は廻らぬ舌でそう言ったと言います。そして花子を呼び「花子さん、文太郎の事をお願いします。あいつは山ばっかり行ってしようがない文太郎をあなたの力で人並みの人間にしてやってください」そして静かに眼をつぶったといいます。そしてふたたび眼をあけることはありませんでした。

人並みの人間になれと言うことは山をやめろと言うことである。しかし山を除いたら自分はない。花子と結婚しても山をやめるつもりはない、人並みの人間になることはあり得ないと思っていたのです        (今日はここまで)


[1624] 【1636回 加藤文太郎 その14】 2008-09-16 (Tue)

「加藤文太郎 その14」
好日山荘店で出会った青年は加藤文太郎が不在でも下宿に自由に出入りし山の本を読んだり帰宅を待ったりの時間を費やすことを許されるほどの仲になっていました。青年は加藤文太郎の紹介した喫茶店の美しい女性に恋をし、狂った様に思慕するようになりました。青年はこの女性を連れて六甲から宝塚への登山を誘いだすことに成功し、加藤文太郎も同行する予定でしたが出張と重なり青年と女性のふたりだけの登山となりました。登山が初めての女性との山行は思うように進まず宝塚に着いた頃は神戸へ帰る電車の時刻が心配になるほどでした。途中で雨に濡れたこともあって旅館に立ち寄り入浴を済ませると女性の方が積極的に宿泊を促してきました。青年は初めての体験に胸が張り裂けそうであった様で以前にも増して女性への思いが膨らみ一夜にして結婚をも考える様になっていました。しかし、朝、目覚めるとそこに女性の姿はなく「ゆうべのことはなかったことにしてお忘れ下さい。私も忘れます」と書き置きを残して去って行ったのでした。

何日かが経過し加藤文太郎のところに女性から電話がかかってきました。相談があるので喫茶店に来て欲しいというので仕事を終えて行くと、青年との一夜の出来事を話し、その後しつこくつきまとわれて困っている。何とかして欲しいという相談でありました。女性は「あなたが紹介したのだから何とかして」とも言いました。「ぼくには責任がない」と言いつつも下宿に立ち寄ったら話しをしておくからと言い置いて喫茶店を後にしました。加藤文太郎はそのまま4キロ先の青年の家に向けて歩き始めました。青年の家に着き加藤文太郎ですと名乗ると、母親が出て来て息子が大層お世話になっております、毎日の様にお邪魔してすみませんとお礼と詫びを言いました。加藤文太郎は下宿にではなく喫茶店に入り浸っていることを知り何とか早く決着をつけてやらねばと思ったのです。奥から父親らしき人が出てきて「お願いがあります。息子は加藤さんと冬の北アルプスに行くと準備をしていますが何せ一人息子ですのでそこのところを何とかよろしく」と言われ何だか責められている様な気持ちになりました。青年が加藤文太郎の真似をして単独登山をやっていることは事実だし責任を感じずにはいられませんでした。下宿に行くと言って家をでたらしいがきっと喫茶店に違いないと、もと来た道を戻るとやはり喫茶店の片隅に青年が座っていました。「店を出よう!歩きながら話しがある!」と歩き初め両親の思いをつたえ心配をささぬよう、女性からの伝言をつたえ山男らしく諦めろと喝をいれました。 (今日はここまで)


[1623] 【1635回 ちょっと長いよ3日間分】 2008-09-15 (Mon)

●「加藤文太郎 その10」
加藤文太郎は暇な時は時折好日山荘店へ足を運びました。店主が何かと山の情報をくれたり、装備についてのアイデアをもらうこともしばしばありました。好日山荘店の客で加藤文太郎の熱狂的なフアンであるという青年に声をかけられました。「私は加藤さんの講演も聴いたことがあります。」のちにこの青年こそが加藤文太郎の単独行を乱し生命とりとなる青年であるということを記憶の隅にとどめておきたいと思います。

登山中の吹雪の雪洞の中で耐えることで仕事へのアイデアも湧き上司に認められ仕事への熱意は同僚達から群を抜いており、理解ある上司のおかげで2月になると加藤文太郎は鹿島槍から後立山をめざして単独行をすることとなりました。下山して会社に出ると「思う存分冬山を歩きました。もう今年は山には行きません」有給休暇届けより超過をしたことを上司に詫びる加藤文太郎でありました。新聞紙上では加藤文太郎を讃える記事もあれば「ラッセルロボウ」と悪意にみちた中傷的な記事も多くなってきました。ヒマラヤ行きという目的に向かって着実に前進し、山に恋し、山に敬服し、時として山を敵として戦いました。

全国で加藤文太郎の名前が知れ渡ると「登山の講演依頼」も多くなってきました。好日山荘の店主の依頼で後援会を開くことになりました。店主が青年を下宿まで迎えによこして会場へ行く道すがら、加藤文太郎への憧れと熱い思いを伝え山の話しを聞き出そうとしています。そして加藤文太郎と同じように八ヶ岳へ単独行を計画していることを話すのでした。「須磨から宝塚まで歩いたり加藤さんが歩いたと言う所はほとんど歩きました。僕は加藤さんの歩いた跡を一生懸命歩いているのです。いつかは追いつけると思っているのですが加藤さんは私を待ってはくれず、どんどん先に行ってしまうのです」この青年の話を加藤文太郎は快く思ってはいませんでした。他人に尾行されている様で不愉快でたまりません。そして自分を英雄化することは、いっぱしの登山家にはなれないこと、人の真似をしないことを諭すと青年は「すみませんでした」と素直に謝ったのです。この時加藤文太郎の中に「案外良い奴だな」と映っていたのです。

講演会が終わり、足の向くまま、気の向くまま三宮方面に歩いていると青年に呼び止められました。「黙ってついてきました」加藤文太郎の後をついて歩きたいといいます。途中にある喫茶店に立ち寄りました。この喫茶店には課長の親戚の娘が働いているのです。一度は密かに恋心をいだいた娘でありました。しかし女性には他に好きな人があり実らぬ恋で終わりましたが、女性の方が連絡をして来るため時々足を運んでいるのです。この女性の美しさに魅了されたのは加藤文太郎だけではなく、この青年も同じでした。「きれいな人ですね」加藤文太郎の上司の親戚の娘であること、上司の家に行ったときに紹介されたことなどを青年に説明しました。

●「加藤文太郎 その11」

会社で縁談の話しが浮上し困った加藤文太郎は父に相談すべく故郷浜坂に帰ることにしました。車中で頭の中に浮かんでくるのは課長の親戚の娘でもなく、縁談の持ち上がった事務員でもなく、いつか故郷で叔母と並んで立っていた眼の澄んだ花子の顔だったんです。何故花子だったのか加藤文太郎にもわかりませんでした。「やっぱり帰って来たんだな文太郎!」病床に長いこと伏せている父親は昨晩文太郎が帰ってくる夢を見たのだそうです。めったに帰ってこない文太郎が帰って来たということは何かあるなと察し兄が聞き出すと会社で気の進まぬ縁談が持ち上がっていることを話しました。文太郎の兄は縁談を断るとなると何か理由がいると言うことで叔母を呼びに行きました。叔母を中心に家族会議が開かれでは花子さんはどうだと言う結論に達しました。「それでいいね文太郎」叔母に言われ黙ってうなずつ文太郎を見て「それじゃあ今からお見合いだ」

10年前、神社の階段で鼻緒が切れて泣いていたお下げ髪の花子は眩しいぐらいに少女から娘へと成長していました。叔母が「どうだい花子さんは?」「いい人だよ」よし決まったと言わんばかりに叔母は「しかし花子さんはまだ18歳になったばかりなので花嫁修業をさせたいがどうだ文太郎待てるか?」こうして文太郎の見合いは成立したのであります。叔母は「文太郎、結婚すると山なんかにあまり行っていられなくなるよ。もしもの事があったら後に残された者が大変だよ」と念をおされたのです。神戸に帰る列車の中で叔母の言った「もしものこと」を考えたら山で死ぬと言うことなのか。どんなにひどい吹雪に遭っても道に迷うこともなく、食糧がなくなったとしても加藤文太郎は生き続ける自信はありましたが、この時はじめて「死」を考えたのです。加藤文太郎は自分に「もしものこと」があるとすれば「他人とパーティを組むことだ」と自分自身につぶやいたのであります。

●(加藤文太郎 その12)

昭和7年12月31日加藤文太郎は雪の富士山を見上げていました。宿の親父が「富士山に登るのかね」と聞き「今朝早く観測所の人達が登って行ったので後をつけていけば良いさ」加藤文太郎は宿の親父に礼のかわりにおじぎをしてから富士山に向かいました。今朝登ったという観測所員の踏み跡を追いました。3時間の差を埋めるのは容易ではありませんでしたがそのうち追いついたのです。観測所の人達は追いついてきた加藤文太郎がひとりであるということに気が付き「冬富士にひとりで登るなんて危険だと思いませんか!」観測所員の中の強力さんが「今夜は五合五勺泊まりずら。先に観測所の人達が行くから頼んでみるといい」と言ってくれました。加藤文太郎はうなづきながら五合五勺まででなく頂上をめざしたいと思うのです。しかし3合目からのトラバースが終わった頃から強風にさらされ7合8勺に気象台の避難小屋があり頂上に観測所があるということしか情報として知らなかったのです。観測所員の踏み跡をついて行くのは気が楽でした。五合五勺の小屋の入り口まできたところで観測所員は小屋の中で火を焚きはじめましたが加藤文太郎は中に入らず小屋の吹きだまりを利用して雪をコッフェルにすくい甘納豆を入れて食事をしました。避難小屋の中から所員が顔を出して冬の富士山は初めてかと尋ねました。加藤文太郎はこの時も挨拶もせず、いつもの愛想笑いをしたのですが誰もがこの笑いには不気味さを感じており、観測所員の顔もこわばり警戒の色が浮かび小屋の入り口は閉ざされてしまいました。加藤文太郎は観測所員にも突き放されたかと、すぐ荷物をまとめてアイゼンを履き頂上に向かって登り始めました。

観測所員は五合五勺の避難小屋から頂上の観測所に電話連絡を入れ報告をしました。頂上の観測所の主任は「とにかく小屋に入れて名前を聞け。その人物に心当たりがある」電話を切り小屋の外へ出てみるとそこに加藤文太郎の姿はなく、すでに6合目あたりを歩いている姿が見えました。風速は40メートルはあるといいます。観測所の主任はその人物は加藤文太郎ではないかと思っていました。直接は知らないが単独行であること、無口で薄気味悪い笑いを浮かべているところから、かねてから聞き及んでいる加藤文太郎ではないかと思っていたのです。主任は東京の気象台に電報を打ちました。「単独登山あり。宿泊させてさしつかえなきや?現在富士山頂風速43メートル」おりかえしの返事には「なるべく付近の小屋を利用するよう手配されたし。但し危険に瀕してる場合は保護されたし」

●(加藤文太郎 その13)

頂上まで到達する自信はあった。観測所に丁寧に頼めば泊めてもらえると思っていました。五合五勺での妙に冷たい別れ方も口不調法によるものとわかっていました。突風の歓迎を受け、姿勢を低くして歩くというより這うようにして何とか通り抜けることができました。頂上観測所は営業用の小屋ではないのだと言い聞かせながら強風にあえぎ、やっとの思いで富士山頂観測所の灯りを見ることができました。「助かった!」いつもの加藤文太郎と違って体力が消耗し甘納豆も乾し小魚も食べる余裕がありませんでした。

「ごめんください」大きな声で観測所員に声をかけました。中から主任が出てきて「五合五勺を出発したと部下から連絡を受け心配していたのですよ」「泊めて頂けませんか」「ここは観測所なので泊めてあげるわけにはいきません」と近くの小屋を案内してくれることとなりました。小屋の入り口は閉ざされてありましたが、どこからか風が吹き込んで来るらしく灯が揺れ、寒さで身震いがしました。外気温に比べたら小屋の中は暖かかったが湿っていてとても寒く感じました。疲労がひどくて食べた物を嘔吐したため、たべることをあきらめ眠る支度をしました。観測所の中にはストーブが赤々と燃えていて観測所員も数名しかおらず泊めようと思えば廊下でも泊められたはずだとうらめしくおもう加藤文太郎でありました。

よく朝、風は静かになり小屋から出ると観測所の主任が小屋まで迎えにきてくれました。今日は昭和8年1月元旦です。さあどうぞと中に招き入れてくれました。以前に登山者を泊めてまずいことが起きたことから観測所に泊められなかったことを詫び正月用の雑煮とお屠蘇をふるまってくれました。五合五勺で出会った観測所員に宿泊の希望を述べれば宿泊出来たことなどを話していると加藤文太郎は久しぶりに声を出してわらったのです。ここしばらくは声をたてて笑うこともなかったように思います。そうして剣ケ峰へと立っていったのです

(今日はここまで)


[1622] 【1635回 加藤文太郎 その9】 2008-09-12 (Fri)

「加藤文太郎 その9」

「おい誰かあそこに死んでいるぞ!」加藤文太郎はその声を遠くに聞き夢の中かと思っていました。「おい気を付けてピッケルを使えよ。おろく(美馬さんではない)の顔に傷をつけちゃいけないぞ」その声で加藤文太郎は目を覚ましました。誰かが死んだのだと思いザイルを引っ張り背伸びをしました。加藤文太郎を取り巻いていた登山者達は口もきけないほど驚いていました。登山者は加藤文太郎に向かってどこの山岳会の誰だと尋ね「神戸の加藤文太郎です」と言うと「貴方が単独行で有名な加藤文太郎さんですか!とここであえたことが光栄だとも言い他の隊員を集め「この人は地下足袋の加藤文太郎と呼ばれている人で夏山は地下足袋を履き、風の如く歩く、燕岳から大天井、槍ヶ岳、中岳、南岳、北穂高、奥穂高、前穂高、上高地のコースをたった1日でやったことのある有名な人だ」加藤文太郎がこれから冬の奥穂高へ単独で登ろうとしていることに驚きました。神戸の下宿の庭先での野営が基礎となり冬の寒さの中で庭先で覚えた眠り方が厳寒の野営に成功したのだと思っている様です。

有給休暇のほとんどを1月と2月の冬山で過ごした加藤文太郎は春先は神戸や但馬妙見山などの近場の山に登ります・山で食糧が無くなったときの訓練として1週間下宿の食事を抜くことにしました。また会社に出勤するときはリュックに石をいれ歩いて会社までいくのです。異性に対しては課長の親戚の女性に心を動かしたり会社の事務員との間に縁談話があつたりはしましたがねいずれも山の魅力に勝るものはありませんでした。1週間の絶食を決意してから5日目になると空の雲がパンに見え、製図道具が箸に見えケシゴムが食べれそうな物に見え始めました。そんな加藤文太郎を見て心配した課長が行き過ぎた行動を注意しました。「山に行くことは何も言わないが会社に迷惑をかけるのはよくない。」と所属長として公私の分別をきっちりつけるように注意をしました。

下宿で地図を広げ、次の冬山を夢み、土日の休日は神戸と故郷である浜坂を結ぶ距離を歩こうと決めました。ズボンのポケットの片方に甘納豆をいれ、もう片方に乾し小魚をいれ会社の創立記念日の3連休を利用して浜坂に帰ることにしました。故郷浜坂についた時、叔母と並んで眼の澄んだ少女が立っていました。どこかで会ったことのある少女だったんです「花子さん、この子が甥の文太郎よ。あらっ文太郎、花子さんを知っているの?」この少女は以前神社の階段でゲタの鼻緒が切れて泣いていたところを通りかかり手ぬぐいを裂いてなおしていた少女だったのです。この花子が将来、加藤文太郎の花嫁となるのです (今日はここまで)

『加藤文太郎 箸休め』
9月13日、14日、15日は野暮用のため連載をお休みさせていただきます。そのかわり戻ったら3回分書き込みま〜す。


[1621] 【1634回 加藤文太郎 その8】 2008-09-11 (Thu)

「加藤文太郎 その8」

「何のために山に行くのか?」しばしば聞かれることがあります。加藤文太郎は「理屈ではない。その答えは山へ年期を入れていると自然に山が教えてくれる。しかし山はいじわるだから一度では教えてくれない。一生かかっても何故山に登るのか本当にわからず死ぬ人も多いと思います」この頃から加藤文太郎は冬山の魅力にとりつかれていました。加藤文太郎の行動食は、いかなる時も甘納豆に乾した小魚の2種類と決まっていました。

加藤文太郎は2月の上高地に立っていました。課長に有給休暇の許可を願い出ると、冬山の単独行は危険が多いことを諭しましたが剣沢で6人のパーティに同行を求めた時「ラッセルドロボウ」と言われたことで心を閉ざし、さらに単独行の加藤文太郎となったのです。他人にわずらわせられる事なく、自分のペースで行きたいところに行くことがいかに楽しいかを課長に話し休暇願にハンコを押してもらったのです。

加藤文太郎の山における力量は群を抜いており加藤文太郎と共に山を歩けるものはひとりもいなかったのです。1年間に2週間の有給休暇はほとんど冬山行きに使って課長に呆れられながらも良き理解者として反対はされませんでした。課長は反対しても行くとあきらめていたのかも知れません。加藤文太郎は深雪の中を横尾の岩小屋に向かいます。翌日は涸沢の岩小屋まで強烈な吹雪の出迎えを受けました。加藤文太郎は独自で編みだした行動食、防寒着、下宿の庭先での野営など冬山で何があっても乗り切れる力を持っておりました。

涸沢の岩小屋へ行く手前で強烈な吹雪に遭いダケカンバの下で野営することを覚悟しました。風をさえぎるものは何もありません。リュックから補助ザイルを出しザイルの端をダケカンバにしっかりと結びその端を腰に巻き付けました。眠っている間に剣沢小屋の雪崩の悲劇は起きてはならないと思ったのです。着れる物は全部身につけてリュックサックの中に靴のまま足をつっこみ、背を丸め、頭からツエルトをすっぽりかぶり甘納豆と乾し小魚をポリポリ食べ両手を股の間にしっかりはさんで眠りました。加藤文太郎は「寒さの中で眠ると死ぬ」という定説を信じてはいませんでした。

「おいだれかがあそこで死んでいるぞ!」 (今日はここまで)




[1620] 【1633回 加藤文太郎 その7】 2008-09-10 (Wed)

「加藤文太郎 その7」

昭和5年1月2日天気は快晴。先客の6人の行動は剣沢小屋をベースキャンプにして剣岳へ登攀するらしい。あとを頼むと言い残し先客達は小屋を後にしました。加藤文太郎は小屋を掃除し、6人の後に続きました。単独行の加藤文太郎は今回は何故かこのパーテイに同行させてほしいと思っていたのですが口に出せず後から小屋を出るのであります。後から出発したにもかかわらず6人に追いついたのですが6人は加藤文太郎に気が付き、追いつくのを待っている様子でした。そこで行き先を尋ねられて本当はみんなと一緒に剣岳に行きたいと言いたかったのですが案内人が「加藤さんは室堂に行くのでしょうよ」とまるでついてくるなといわんばかりに勝手に行き先を決められていました。

あくまでも6人と加藤文太郎は別のパーティであることを強調し、もう加藤文太郎の方を見向きもしなくなりました。室堂の小屋には加藤文太郎ひとりしかおらず孤独がしめつけました。呼吸が止まりそうな気さえした様です。室堂小屋から剣沢へ行く決心をし、加藤文太郎は、とうとう6人のラッセルの後を見つけました。ラッセルドロボウと言われたことが気になるが剣沢小屋に行くのにこのラッセルを利用しない方はないと剣沢小屋に向かいました。

小屋の中では6人が楽しげにストーブを囲んで話し合っていました。今度は真っ先に「またやってきました。よろしくお願いします」と大きな声で挨拶をしました。今度は無視されずに案内人のひとりがストーブの側に来るようにと声をかけてもらうことができました。そして強風の中の登山を強く非難し登山の定義に反すると強い口調で言われるのです。そしてもう一度6人のパーティに参加させてくれるよう頼んだのですがことごとく断られる結果となりました。

加藤文太郎が下山後に剣沢小屋が雪崩に遭い6人の遺体が見つかったことを新聞で知りました。6人のうちのひとりは発見された時に、まだ身体に温もりを持っていたと言います。あれほど同行を願ったにもかかわらず、冬山に来るなら案内人を雇え、案内人を雇う金が惜しいなら冬山に来るなと加藤文太郎の同行を拒否した6人が死に、拒否された加藤文太郎が生き残ると言う悲劇が生まれたのでした。  (今日はここまで)




[1619] 1632回 加藤文太郎 その6】 2008-09-09 (Tue)

「加藤文太郎 その6」
加藤文太郎は、しばしば何故山へ行くかと言う、きわめて平凡で、きわめて回答の難しい問題を考えることがありまし。なぜ山に行くのかという質問に対して、山があるからだと答えた登山家の言葉をもってしても加藤文太郎には不十分であったと言います。山好きのため身を危険にさらしてまで何で山に行くのだろうかの問いに満足に答えられる人はいないのではないでしょうか。

加藤文太郎は冬の弘法小屋にひとりで向かいました。この小屋には先客がいる様子で小屋の戸を押して中に入ると6人の男達は加藤文太郎を凝視しました。先客に挨拶をするのが常識ではあるが加藤文太郎はペコンとおじぎをしただけで、小屋にいた先客の半分は一人で来たことに対しての批判の眼と挨拶がないことに加藤文太郎へ好意的ではありませんでした。先客6人のうち2人は芦峅寺の案内人だと思われました。次の日案内人を除く4人はスキーを履き松尾峠まで往復の予定の様で加藤文太郎も後に続きました。先客のラッセルの後をついていくのは大変楽でまるで加藤文太郎もおなじパーティの様な不思議な感覚であったと言います。

松尾峠の頂上で先客の4人は立ち止まり、その中のひとりが加藤文太郎に先に小屋に帰るようにと言葉は丁寧だがあきらかに嫌われていることを感じ取ることができました。加藤文太郎はシャクにさわったもののかえす言葉もなく言われるままに小屋に引き返しました。小屋の入り口で芦峅寺の案内人が、加藤文太郎の戻りが早かったことを聞くので頂上での出来事を話しました。「そう言われるのは当たり前で挨拶もせず人のパーティに図々しく入り込みラッセルドロボウを続けていたら腹をたてるのは当たり前だ」と加藤文太郎に荒々しく説明しました。加藤文太郎はラッセルドロボウの言葉のわけを聞くと「わけも何もない。人の踏み後をついて行きさえすれば冬山登山なんて楽なものだ。ラッセルの苦労を知ってるのか」と強い口調で言われました。加藤文太郎の言い分はあとから来て、でしゃばった真似はできないので後をついていっただけだと弁解をしました。やがて戻ってきた4人との間に流れているつめたいものは払拭することができませんでした。    (今日はここまで)


[1618] 【1631回 加藤文太郎 その5】 2008-09-08 (Mon)

「加藤文太郎 その5」

研修生時代の教官であり今は上司である課長の自宅へ行くと知人の娘さんだという若い女性を紹介されました。いままでにない胸の高鳴りを覚えた様です。課長に冬の槍ヶ岳に行きたいと休暇願いを申し出ました。「いつかは冬のアルプスをやるだろうと思っていたよ」と課長は言い、厳冬期の槍ヶ岳へ単独で行くことを危険だと促しました。

しかし加藤文太郎はひとりで梓川にいました。沢渡から中ノ湯まで人の踏み後はなかった。横尾の出合から、一ノ俣小屋への積雪はかなりのものでしたが大学生5人の先行者によってラッセルがしてあり苦労はなかった様です。槍の穂へ向けて大学生5人はザイルを組みゆっくりと登頂していたのですが加藤文太郎が登頂してくるのを発見し行動を中止した様です。5人の大学生達は厳冬の槍ヶ岳へひとりでやってくるという常識を無視した加藤文太郎の暴挙に批判の眼をむけていました。加藤文太郎は大学生達を追い抜いてやろうと岩尾根をよじのぼりました。こんな態度が大学生達に敬遠され挨拶をしても無視される羽目になったのだと思います。加藤文太郎が下山をはじめると大学生の中の一人が「いやな奴だ。こんなところでわざと追い抜きなんかやりやがって」勿論、加藤文太郎に聞こえよがしに大きな声で敵意をあらわされてしまったこともありました。

山から戻ると真面目に会社へ通い、黙々と仕事に精出す加藤文太郎の姿がありました。仕事熱心で向上心もあり、よく休む奴だが仕事はすると先輩や同僚からの受けはいいようです。もう残りの有給休暇があとわずかしかないと言うのに、また次なる山への夢を見ているのです。社内貯金の「ヒマラヤ貯金」の事は会社で評判ではありましたが上司の課長にさえこのことは黙っていました。しかし金に困った友人達が「加藤、金を貸してくれ」と哀願されると社内貯金を下ろし、その都度「ヒマラヤ行きが遠ざかった」と気に掛かるのでした。1月に八ヶ岳、2月には常念岳と槍ヶ岳、3月に立山と奥穂高岳と積雪期における山への執念はおそるべき冬山への魅力にとりつかれていたのです。(今日はここまで)


[1617] 【1630回 加藤文太郎 その4】 2008-09-07 (Sun)

「加藤文太郎 その4」

時代は大正15年12月25日、大正天皇が崩御され昭和と年号が変わりました。会
社での加藤文太郎は、有給をよく使い、よく休み、山に行くかわりに会社にいるとき
は朝は1時間も早く出勤し居残りもしてよく働きました。ある日、加藤文太郎は兄か
ら手紙を貰い父が急病だから帰って来いとの事で故郷の浜坂へ戻ることにしました。
故郷の浜坂で子供の頃に遊んだ神社に行き、夢は遠くヒマラヤに向けていました。
「親父は俺が嫁を貰うまで死なんぞと言うが俺がヒマラヤへ行って帰ってくるまでに
10年はかかる。と言うことは親父は10年は生きる」これは親孝行だと思った様で
す。

その頃加藤文太郎の名前は関西の山岳会では「地下足袋の加藤」で有名で悪評もある
が、、加藤はただものではないという噂が広まっていました。冬の神戸アルプスを須
磨から宝塚まで完全縦走し、その足で宝塚から和田岬まで踏破した話しが話題となっ
たこともあります。「それは人間業ではなく天狗かも知れない」山岳会の人々は加藤
文太郎のことをこのように評価していました。どの山岳会もメンバーに入れたくて仕
方がないのですが「加藤を無理矢理山岳会に引き込むことはしないでおこう。将来、
関東でもない、関西でもない、日本を背負う登山家になるはずだと絶賛の声が大きく
なりました。

この頃から加藤文太郎は下宿先の小さな庭には楠木があり、この木の枝に自製のテン
トを吊り下げ膝を抱くようにして朝を迎えることが多くなりました。これはヒマラヤに行くためのトレーニングのためです。下宿のおばさんは加藤文太郎のそんな姿を軽蔑の眼で見、物好きだと笑います。

昭和3年12月31日加藤文太郎は下宿の庭先で寒さに耐える訓練を重ね冬の八ヶ岳
に向かいました。途中で夏沢鉱泉の小屋に泊まると言っても冬の時期は誰もおらず、
極限の寒さに耐えねばなりません。冬山は寒さとの闘いではなく孤独との闘いである
と単独行動の加藤文太郎がはじめて人恋しさを体験したのも冬の八ヶ岳でした。
(今日はここまで)


[1616] 【1629回 ダイトレ No.4 金剛山〜紀伊見峠 】 2008-09-07 (Sun)

9月6日、ダイトレ No.4 金剛山〜紀伊見峠

秋晴れの中無事終了致しました。近鉄富田林駅のロープウエイ行8時05分発のバスに乗るべく集合です。バス乗り場には忠太郎が会社に出勤するまえに立ち寄りお見送りをして下さいました。塩飴の差し入れもありがとう。みんなで、へばらぬように美味しく頂きました。うららちゃん達がギリギリの電車到着との連絡があったため、万が一、間に合わぬ時は忠太郎にバスを追っかけてもらう話をお願いしていましたがセーフ!かわいい光ちゃんもサスケ先生に抱っこされて参加?と思いきやロープウエイ乗り場でママ達のお迎えが有りました。大きくなったね。

ロープウエイ乗り場ではマーちゃんが待っていてくれて参加者16名で元気に出発しました。本来ならば前回は千早峠で終わっていたはずなのですがトツプのポチが勢いよく下りすぎてダイトレのコースではない道を歩いてしまいました。ダイトレを忠実につなぐため今回はロープウエイを利用して山頂駅から伏見峠を経て千早峠まで行き、ここからが今回のNo.4となるのです。ダイトレは屯鶴坊から連続して歩けばきちんと道が繋がり、無駄な歩きはないのですが6回に分割しているためかなり重複して歩かなければならないのです。

ダイトレのリーダーは全コース、ポチと決めていましたので今回も「道迷いのポチリーダー」の後をみなさま文句も言わずよく協力して下さいました。感謝申し上げます。1時間歩いて10分休憩と決めスタートしました。勿論タイムキーパーはまーちゃんです。今日はオリオンさんのお友達の「藤田さん」も初参加です。トンボも飛び、時折吹いてくる風はもう秋の気配で足取りも軽く、白山依頼の顔ぶれでお口の方も弾んでいる様です。

行者杉で丁度12時となり昼食タイムとなりました。杉の木立から覗く雲はなにやら雨を予想する怪しい雲行きでゴロゴロと雷様のコーラス付きとなりました。キャー雷がこわいと言う声に思わず「これは雷の赤ちゃん。北鎌尾根の雷様に比べたら(へ)みたいなもの」と北鎌での恐怖の体験を話し、お昼の歌を歌うことになりました。

歌の前に亀ちゃんのお姉さんの千恵ちゃんのご主人様が8月9日になくなられた話をみんなにして黙祷を捧げました。千恵ちゃんは、ご主人様を80有余日の自宅介護をされ心残りはあるとは思いますが誠心誠意、尽くされました。今は静かに喪に服されていることと思います。心よりお悔やみ申し上げます。No.5回のダイトレからは復帰されるとのことですので再会を楽しみにしています。

お昼の歌は「大楠公」と「長崎物語」です。長崎物語は一番の歌詞の中に「曼珠沙華」の言葉が合ったため「秋の歌」として推薦しました。行者杉で記念撮影をし、杉尾峠からタンボ山、紀見峠を目指しました。途中で1輪だけ「曼珠沙華」が咲いているのを、うららちゃんが教えて下さいました。♪あ〜か〜い花な〜ら〜まんじゃしゃげ〜♪♪と口ずさんでいると村のおじさんが「若いのに、えらい歌知ってまんなぁ」と褒めて下さったのでついでに「大楠公」もワンコーラスサービスして歌いました。

そうこうするうちに、やっと紀見峠に到着したのですがそこから南海、紀見峠駅までがまだまだ距離があり、きつい下りの道に膝を痛める人も出てきました。やっとゴールをしてミーティングしている間に、ポチがキャンデーを買ってきて「この間の道に間違ったお詫びで〜す」と。ごちそうさまでした。


[1615] 【1628回 加藤文太郎 その3】 2008-09-05 (Fri)

「加藤文太郎その3」

加藤文太郎は、下宿代、食費、所要小遣い、ヒマラヤ行きの貯金と毎月、月給の中から規則正しく割り当てをしていました。洋服は会社のナッパ服、靴は地下足袋と、なりふりは気にせず休日となると神戸の山々で基礎体力を作り、有給を利用しては遠くの山へ出かけて行きました。ある日はじめての信州入りをすることになりました。

中房温泉から入り、合戦小屋を経て燕山荘へと向かいます(キャー私と同じコースやっ!)燕山荘に立ち寄り西岳へ向かおうとします。雲行きはあやしくなってきたため「雷様でも来そうなら無理しないで引き返して来るほうがいいずら9」と告げ燕山荘の老人は加藤文太郎を見送りました。蛙岩を超えるころ雨とみぞれとなりました。大天井岳に行く途中では、雷様がひどくなり宿泊予定の西岳山荘へ行こうか燕山荘へ戻ろうか迷いましたが、老人の言ったとおり(キャーッ雷様も私と一緒や)予定していた西岳小屋に行かず暗い稜線を燕山荘に引き返しました。加藤文太郎はこの時のことを「日本アルプスの稜線を夜一人で歩いているという感激が有頂天にさせた」とあります。おそろしいことも、こわいことも、ひもじいこともなかった様です。燕山荘についたら「大変だったづら、さあ濡れたものを脱いで、火にお当たりな」と老人の声を聞いたときはさすがの加藤文太郎もホッとした様です。加藤文太郎は燕山荘の老人に明日早立ちをするので弁当を作ってくれるように言い持ってきた米を差し出しました。

老人が明日の予定を聞くと「大天井岳、西岳小屋、槍ヶ岳、殺生小屋」と答えて燕山荘を後にします。その足の速さに驚いき老人は「喜作にそっくりだ。今に、えれぇ登山家になる人だぜ」と言います。喜作新道を開拓したあの喜作に似ていると言うのです。燕山荘にいた先客の山岳会のグループも加藤文太郎が一人で行動することにあまり感心していない様子です。挨拶もせずヌッと後から小屋に入って行くことも多く出くわした登山者には、あまり好感の持てる山男としてみてもらえなかった様です。この時代は特に関東の山岳会は関西の山岳会を見下している傾向があった様です。

加藤文太郎は喜作新道を東鎌尾根の方へ行かず這松の中の道を通り大天井岳へ向かいました。一坪もない大天井岳の頂上にケルンがひとつ積んであり空を見上げると雄大な槍ケ岳と対面したのです。槍の偉大さを支える者は北と南に張り出した尾根でありました。北鎌尾根こそ、槍の存在を価値づけるものであり、北鎌尾根を無視したら槍はないも同然だと加藤文太郎は思った様です。「いつかおれは北鎌尾根をやるぞ!」      (今日はここまで)

昔の山小屋入りはお米持参だったんですね。そう言えば私が小学校の修学旅行には持ち物の中に「米3合」と書いてありました。時代の流れを感じます。


[1614] 【1627回 加藤文太郎 その2】 2008-09-04 (Thu)

「どうだ!加藤君、クライミングをやってみないかね?」加藤文太郎は芦屋川で、出会った教官の知人の誘いには耳も傾けませんでした。他人と一緒でないと登れないような所へは登らないというのが断った理由でした。5年間の研修生活を終え、今まで教官であったが、研修生活を卒業した日から課長となり課長の配下となり設計の仕事をすることとなりました。初めて月給を貰った日「どうだ加藤君、今夜は空いているかね?もし空いているならいつか芦屋の岩場で会った人と会わせたい。山のベテランの話もいいものだよ」と言うので初月給日を貰ったとはいえ、行く当てもなくだからと言って、どうしても会わねばならない理由もなかったが加藤文太郎は上司である課長の誘いに乗ることになり高級レストランへついて行くことになりました。

レストランには既に芦屋の岩場で出会った人物が来ており神戸の良さについて語り始めました。「前が海、後ろが山、町から歩いてすぐの所に山があり、岩登りをしようと思えば岩場もある。縦走で足も鍛えられる。神戸ほど山男の町はない。高い山を望む者はここで規則的な登山の下地を作っておけばヒマラヤだって夢じゃあない」加藤文太郎はこのヒマラヤと言う言葉にひどく反応し「ヒマラヤには行きません」「いや加藤君行きませんではなく行けませんだろう。」加藤文太郎はヒマラヤ行きにかかる費用、日数などを興味深く聞き出し、頭の中はヒマラヤの事で一杯になっていた様です。レストランを出るとき「今日は課長の昇進祝いと、君の就職祝いだ」と支払いをしようとすると「僕の分は僕が支払います。いくらですか?」と譲らず自分の分を支払うと夜の町へ消えて行きました。レストランを出た課長に「あの男はただ者ではない。あの男は山岳会に入れて指導するよりも自由に放っておいて芽を伸ばすタイプだ。ただし見守ってやる必要はある。見守る役は君だ!」と課長に言い、加藤文太郎という男を分析しました。自分の食べた分は自分で支払うという根性は素晴らしい、あの精神が登山家には必要だ。ややもすれば偏屈にも思われ、妥協生に欠くが独立精神が山における人間に通じるのだと加藤文太郎を高く評価してくれたのです。

加藤文太郎はレストランで聞いたヒマラヤのことが気になって「行きませんではなく行けませんだろう」の言葉には、ヒマラヤを臨む前に、近場だけでなく、もっと日本の山を登れと言っているのだと理解し課長に「日本アルプスの本を貸して下さい!」といつになくハッキリと言いました。そしてヒマラヤ行きの費用を作るため初月給の日から貯金をすることを決心したのです。下宿代、昼食代、所要小遣い以外はすべてヒマラヤ行きの貯金をする決心をしましたが誰にもその事は言わず、人が背広を買おうが、飲み会に誘われようが、靴も買わず、地下足袋と会社のナッパ服で過ごしていた様です。               (今日はここまで)


[1613] 【1626回 加藤文太郎 そのT】 2008-09-03 (Wed)

「加藤文太郎 そのT」

加藤文太郎とは北アルプスの山々を、ひとり疾風のように踏破していった「単独行の加藤文太郎」で冬の北鎌尾根で散った人として有名です。北鎌尾根登山を終えた今じっくりと「孤高の人」を読みながら、皆様に加藤文太郎の魅力のある生きざまをご紹介できればと思います(じれったいなぁと思う人は本を買って読んで下さいね)あくまでも私流の解説ですからね。

加藤文太郎は造船会社に籍をおき設計士になるべく5年間研修生の生活をしています。その中で寮生とのふれあい、教官とのふれあいなどがあり、集団を好まず一人が好きで休みの日は神戸の山々を歩き、汗を流すのを生き甲斐としていました。私達が何度もトレーニングに利用する芦屋川の話しから展開していきたいと思います。

『ある日、加藤文太郎は芦屋川から高座の滝を眺めながら尾根づたいに歩き始めました。ふと目をやると岩壁の傾斜面に綱に人と人がつながれている光景を目にします。多分私が思うには場所はゲートロックだったのではないでしょうか。そう思うと加藤文太郎がやまたび倶楽部の会員の様に近親感を覚えてきました。「あんな岩壁をよじ登らなくても、いくらでも尾根伝いに行き着くことができるのに」と思った様です。しかし岩壁をよじ登らなければ頂上に達することの出来ない山もあるとすぐ理解出来たようです。加藤文太郎は「ひとつの綱に何故2人や3人もの人が結ばれているのか、一人でよじ登ればいいじゃないか。ひとりでよじ登れないならやめたらいいんだ」そう思っていた様です。しかし岩壁の人達が何故かとても気にかかり尾根歩きをやめ、岩登りをしている谷の方に降りていくのです。(多分地獄谷に降りてゲートロックかな?)「やぁ加藤君来たかね」岩登りをしていた人のひとりが加藤文太郎に声をかけました。声をかけたその人は会社の研修所の教官で加藤文太郎に山岳会への入会を誘い続けていた教官だったのです。「加藤君クライミングをやってみるかね?」』    (今日はここまで)

さあこの教官のクライミングの誘いに加藤文太郎は首を縦に振ったのでしょうか、横に振ったのでしょうか。この教官は加藤文太郎が一人で山歩きをしていることを知っており地図にも興味があり自分の所属する山岳会に何としても入会させたいと日頃から思っていて、自宅にまで招き山談義をしたことがありました。しかし単独行を好む加藤文太郎は、教官の誘いを断り続けていたのです。


[1612] 【1625回 来年のやまたび倶楽部の予定】 2008-09-02 (Tue)

ダイトレが11月で終わると平成20年度のやまたび倶楽部の行事は終了することになります。12月に入るとみなさん忘年会等でご多忙につき、11月はダイトレのゴールを祝してちょっと早めの忘年会もどきの「飲み会」をしたいと考えています。勿論ダイトレに参加していなくても「飲み会」にご参加も大歓迎です。「飲み会費用は参加者で割り勘」です。下見の時に美味しくて安い店探しておきますが忠太郎さ〜ん!彼女の店紹介してくださ〜い。但し場所は和泉中央駅付近で〜す。それまでに来年のコースと日程を設定できたら大変うれしいのですが皆様のお智恵も拝借しながらウオーキングでは味わえない「軽やかな山コース」を教えて下さい。私の推薦は4月の談山神社からのイタドリコースです。(笑)今度はゆっくり談山神社の見学もして、沿道の買い物もしてゆっくり下っていきたいと思っています。

スノーシューは「雪任せ」で突然お誘いするかもわかりませんが、マイスノーシューをお持ちの皆様万障繰り合わせてご参加下さい。またモンスターの蔵王行きたいですね。今度は前回タッチの差で入浴出来なかった山の中腹にある温泉にも入りたいですね。雪彦山は雪が多くて断念しましたが麓の温泉は良かったですね。5日間も山中にいて風呂に入ってなかったら無性に石鹸の使える風呂が恋しくなります。但し5日間も風呂に入っていなくてもちゃ〜んと「ウエツトタオル」で拭いて、着替えて、水溜まりを見つけたら洗濯もしていたのですよ。でもねなんとなく臭く感じるのです。サスケ先生が電車の中で汗の臭いで若い女性が距離を置いた話しが書かれてありましたが登山は大丈夫!臭くても大丈夫逃げません。だって全員同じ臭いがするんですもの!余分な着替えを持つ事によって体力が消耗するのであれば「着た切り雀」でも支障なし!そう感じます。くろねこさんがひょうひょうと「表銀座」を切り抜けられるひとつに「荷物の計量化」もあると思います。そして何よりもパートナーである旦那様の素晴らしいリードでしょう。大天井ヒュッテの小池さんが「また来て下さい」と声をかけられたとか。。。是非実現して下さい。

穂高縦走の途中に「ゴジラの背中?」って場所があったと思いますが行きたいなぁ。11月になったら毎日が日曜日だから来年は冬山を除く安全な時期に山のツアーに乗っかり平日を利用して山に登りまくりたいと考えています。ポチ曰く「北鎌尾根に行ったからと言って山を舐めたらあかん」ですって。何と憎たらしい一言なんでしょうか。。。。。山を舐めるどころか「山の怖さ」を学んだと言うのに!そして怖さだけでなく山の素晴らしさも学ぶことができました。いま新田次郎の「孤高の人」の小説を読み始めました。(もっと大きな文字の本が欲しいです。老眼鏡をかけても見えません)


[1611] 【1624回 岩湧山へ】 2008-09-01 (Mon)

雨の土曜日、何となく憂いに満ち溢れていたため「岩湧山」に登ることにしました。標高922メートルではありますが「新日本百名山」のひとつなんです。紀見峠の改札を出ようとするとピンポーンピンポーンと改札が開きません。ポタンを押せと書いてあるので押すと駅員さんが出て「あのぉ次の電車でそちらへ向かいますのでしばらく待って下さい」どうもこの駅は無人駅の様です。仕方なく合羽を着て身支度を整えて待つこと20分。

岩湧山頂上の手前でりっぱなトイレを発見しました。人間を感知すると自動で電気がつき、ペーパーも装備されていて勿論、水洗トイレです。いくら新日本百名山のひとつとはいえ、こんなところにりっぱすぎるやろと思いながら、感謝しながら頂上を目指します。山栗の青坊主が、萩の花が、コウロギもバッタも秋の気配を教えてくれました。記録用にと写メールを取りすぎてバツテリーが途中で途絶えてしまいました。

トイレから頂上へ抜ける道が「ようこそお越し」と言わんばかりに右からも左からもお辞儀をする恰好で茅で覆われて身動きがとれません。さっきトイレで合羽を脱ぎ半袖のままになった所やし、北鎌尾根での腕の傷が、やっと癒えた所なのにと思いつつ、何とか頂上に到着することができました。ところがところがです。くだりがこれまた大変です。「ほんまにこれが道?」と疑いたくなるような果てしない「茅ロード」の下りです。足下も何も見えません。ベンチがところどころにあるので道は間違ってないと思うのですが行き交う人もなく時々飛び出してくる蛙に「びっくりささんといてぇ〜なぁ」と話しかけながら下山しました。家に帰り調べて見ると岩湧山は茅で有名な所だった様です。

山頂付近の約八ヘクタールは茅場になっており、秋にススキの穂が広がる様は美しく、新河内長野八景に岩湧山頂の花すすきとして登録されています。ここで収穫された茅は文化財建築の修復などに使用されています。(カヤ原の山焼きは春の風物詩らしいです)岩湧山から降りると13時19分のバスが出たところで14時12分まで待つこととなりました。10月にここを訪れる時はススキの穂が美しく広がっていることと思います。ステッキ必需品です。バスは14時12分が過ぎると16時09分までありません。

子供の頃、母が枯れた茅を採り、庭先で炭俵を編んでいました。炭焼屋さんから頼まれたらしく、ワラを水で濡らし木槌でたたき、縄を編み木の重しをくくりつけた道具を、前、後と交互にまたがせながら炭俵を作っていきます。1つ作っていくらお金を貰えるのか知りませんが夜遅くまで土間で編んでいた姿がハッキリと目に浮かんできます。母の手は茅で切れて痛々しいほどでしたがメンソレタームを擦り白い絆創膏を巻き(この頃バンドエイドは無かった)大丈夫といわんばかりに黙々と作業に勤しんでいました。私が稲刈りの時に縄を編めたのはきっと母が炭俵を編んでいたときの「見よう見まね」が記憶から甦ったのだと思います。しかし青い茅はいたいよ〜