今回のコースは地下鉄阿波座駅・7番出入口がスタート地点になります。 此処から北へ辿ると大阪西郵便局があり、その隣に安治川堀川の碑があります。さらに北へ進み本町通りの信号を越えたら左折西へ進みます
文明開化と大阪開港
石油ランプによる街灯、ユーカリやゴムの木などの見慣れない街路樹、馬車道と歩道に分かれた広 い道路を行き交う人力車や自転車、洋館や教会などが立ち並んだ川口居留地は異国情緒にあふれ ていました。華商が暮らした雑居地では、「ぢゃんぎりあたま」に散髪する西洋理髪店や洋服をクリー ニングする西洋洗濯店、さらには西洋料理店、中国料理店、パン・牛乳・バターの販売所、獣医の始め た精肉店、ポン水と言われたラムネの製造販売所など、日本人の生活様式を一変させる未知の文化 や食べ物がありました。 文
安政5年(1858)に米・英・仏・蘭・露の5カ国と江戸幕府間に修好通商条 約(安政五箇国条約)が締結された結果、箱館・神奈川・長崎・兵庫・新潟の 開港及び大坂・江戸の開市が定められました。箱館・神奈川・長崎は翌年 に開港し、大坂・江戸の開市及び兵庫・新潟の開港は文久3年(1863) 1月1日付で行われることが決定しました。しかし、後に幕府は諸外国と の貿易開始後に起こった政治経済的混乱から文久3年時点での開市・開 港は困難と考え、文久2年(1862)に英国とロンドン覚書を結び、開市・ 開港を5年延期させました。結局、大坂開市は慶応3年12月7日 (1868年1月1日)に兵庫開港とともに実施され、開市は開港と改めら れました。しかし、間もなく鳥羽・伏見の戦いが勃発し、外国人殺傷事件 が相次ぐなど、政情不安の中で居留地造成工事は遅々として進まず、 最終的に大阪が開港したのは慶応4年(1868)7月15日のことです。
▲地下鉄・阿波座駅 7番出入口 ▲大阪西郵便局 ▲阿波堀川跡碑
▲大阪津波高潮センター 
かつて大阪を襲った高潮や、近い将来必ず大阪を襲うと言われている南海トラフ巨大地震、津波発生時の対応などを学べる施設です 
▲京町堀川跡碑 ▲ざこば橋の碑 ▲大阪市庁舎跡碑
 木津川橋東詰から信号を渡り日本生命病院の西側に沿って南へ進んでいくと旧大阪府庁跡があります。また少し南側には文化財である木村家住宅主屋があります。
▲大阪府庁跡に建つ日本生命病院 ▲大阪府庁跡碑
大阪府は西町奉行所の跡地を庁舎として利用していましたが、明治7年(1874)に江之 子島に新築移転しました。新庁舎は高さ約30mの2階建て西洋建築でした。大正15年 (1926)に移転するまで50年以上この地で大阪府政は行われ、地名から「江之子島政 府」とも呼ばれました。明治初期の大阪は西から発展してゆくと考えられたため、西側、つまり居留地側を正面玄関としていました。 
 ▲木村家住宅主屋 ▲木津川橋へ戻ります
木村家住宅主屋登録有形文化財(建造物)
木津川の左岸に位置し、大阪府の官舎として建設されたと伝える。下見板張の木造2階建の洋館で、東面1階中央に玄関を設け、瓔珞飾りをもつ切妻破風を付ける。内部は玄関北を洋室とするほかは和室で、1・2階西南に座敷を配する。大正期の洋風官舎として貴重。
ここから来た道を木津川橋東詰まで戻り橋の北側歩道を西へ進みます。 
▲木津川橋東畔 ▲木津川橋の碑
▲木津川橋から見た土佐堀通りに架かる昭和橋
木津川橋を渡ってすぐに右折北上し次の信号を西へ渡り、住友倉庫の前を道なりに南西方向に進み、次の角を右折して行けば突き当りの左側に安治川橋の跡碑がある。
 ▲まいったなあ…これじゃあ撮影できませんね ▲ 木津川橋から西へ直進すれば此処に来ます
 ▲あまりにも立派な碑でしたので 再度訪れて撮影完了……安治川橋の碑です
川口居留地設置後、明治6年(1873)に新たに架けられた安治川橋は、中央の二径間が鉄橋で、高いマストの船が航行する際 には橋桁が旋回する可動橋であり、「磁石橋」というあだ名が付けられました。明治 18年(1885)の淀川大洪水では、浪華三大橋(難波橋、天神橋、天満橋)など多くの 橋が流出し、流木となって安治川橋に引っ掛かりました。危険を回避するために安治川橋はそのときに爆破され、以後架けられませんでした。
此処から少し西へ進み次の角を東へ進み、信号を渡って北へ進みますと大阪船手会所跡の碑があります。ここを見学後は再び木津川橋に進み西畔を南へ下ります。
▲大阪船手会所跡 ▲旧い佇まいの前を進みます
大阪船手会所跡
大阪(大坂)は商業の中心地で、大阪湾から淀川、木津川に入港してくる船は多く、それらを管理するためにおかれた、幕府でも重要な役職の一つだったようです。官船管理、民間商船検査を業務とする大坂船手という幕府老中所管の役職が置かれ、 その配下には与力、水主が置かれていました。戎島北端の船番所から南に船蔵、船手屋敷が立ち並び、会所は元和6年(1620)から元治元年(1864)まで川口にありました。元治元年(1864)に大坂船手は廃止され、所管業務は新設の神戸海軍操練所に移されました。
今でいう北港方面の春日出と大正の三軒家にもあったようです。会所そのものは元治元年(1864年)に廃止されるまで続きました。阿波座駅から本町筋を西に進み橋を渡ると見える川口交差点に南西側にあり、やや、植木などで見えにくいですが、晴れた日などは明るい写真を撮ることができ、見つけるのには苦労しません。
川口居留地跡
明治元年大阪開港と同時に、この付近約26,000平方メートルに外国人居留地が設けられ、諸外国に競売された。そこには街路樹が植えられ、石油ランプの街灯、舗装道路に沿ってバンガロー風の洋館が並んだ。この一角は治外法権を有し特権をふるったが、付近は大阪人には新奇さに満ちた名所であった。明治32年条約改正により居留地は廃止され、大阪市にひきつがれた。 川口の港の機能低下により、居留民は神戸へと離れて行ったが、あとへはキリスト教関係者が定住、病院・学校(特に女子教育)の経営に力が注がれた。
川口居留地の自治について
川口、神戸居留地では居留民による自治行政が実施さ れました。川口での居留地会議は明治2年(1869)の 第1回から明治32年(1899)の第126回まで開催 され、各国の領事や副領事を中心に居留地でのあらゆ る問題が討議され、解決に導かれました。
▲川口基督教会聖堂
 安治川と木津川が出合う中州に位置する西区川口地区にある。正式名称は日本聖公会川口基督教会。ゴシック風で簡潔なデザインにまとめられている建物は、煉瓦造、2階建塔屋付の教会堂で、礼拝堂は一室、奥に床面を一段高めて祭壇部が設けられている。竣工は大正9年(1920)、設計は米国人建築家のウィリアム・ウィルソン。川口には大阪開港に伴い、慶應4年(1868)に外国人居留地が設置され、イギリスの13社をはじめ、仏、独、米、オランダ、ベルギーの商社が事務所を構えた。舗装道路には歩車道の区分もあり、ランプの街灯が灯り、ユーカリの並木がそよいでいたといい、ここ川口から洋食、パン、牛乳、クリーニング屋などが始まったと言われるほど、西洋文明が開化していた。しかし川底が浅く、大型船の運航ができなかったことなどから、一帯は次第に衰退していき、貿易の要は神戸港へと取って代わり、外国人も移住。いまはこの教会が唯一、大阪が開港した頃の面影を残す建物だ(登録有形文化財)。
▲カッフェー・キサラギ跡 ▲川口居留地跡
カッフェー・キサラギ跡
旧川口居留地の一角に営まれ、大阪におけるカフェの草分けであった。 明治末~大正初めに、演劇・美術・文学など、異なる分野の芸術家たちの交流するサロンとして賑わったところ。
川口居留地の選定について
「出船千艘、入船千艘」と言われる程、船の往来が激しかった安治川及 び木津川を遡ると、両川の分流地点には船番所があり、船蔵、船手屋敷 が立ち並んでいました。ここが戎島の北端・川口でした。慶応3年 (1867)4月に「兵庫港并大阪ニ於テ外国人居留地ヲ定ムル取極」が 幕府と諸外国間に結ばれ、川口に居留地が設けられることとなり、居留 地に隣接する地域が内外国人雑居地として選定されました。居留地に 選定されるや、「戎」の字が外国人を侮蔑する意味を持つことから、戎 島は梅本島と改称されました。
川口居留地の廃止
明治27年(1894)7月、第2次伊藤博文内閣の外務大 臣・陸奥宗光は、英国と新しい通商航海条約に調印し、安 政五箇国条約(1858年調印)の改正に成功しました。こ の条約改正により明治32年(1899)7月に日本各地の 居留地は廃止されることになりました。同年7月、居留地 議事館裏のグラウンドではお別れパーティが開かれ、居 留民らは別れを惜しみました。居留地議事館では第 126回居留地会議が開かれて居留地は大阪府に引き 渡され、大阪府は大阪市に居留地を引き継ぎました。
川口聖マリア幼稚園と富島天主堂跡・外人雑居地跡
川口聖マリア幼稚園は、昭和27年3月、創立者フランス人宣教師ジー・デルイ師が、幼児教育の重要性を唱え、川口カトリック教会内に設置、昭和35年に100年の歴史をもつ教会が移転して、幼稚園だけが存続しました。「三つ児より情操豊かに、たくましく」を目標に、愛の奉仕に専念、体力作りに相応しい遊具設備と、豊かな情操を育む四季折々の花々、果実の彩りに包まれたルルドのマリア像の許に小鳥がさえずる園として、地域と一体となって親しまれてきました。
外人雑居地の跡
川口には川口居留地とは別に雑居地が認められ、日本人と雑居する多くの中国人がこの雑居地にすんでいた。
これらの中国人の経営する中国料理店、理髪店など、当時は物珍しく大阪名物の一つになっていた。
川口には、日本人住家での止宿が許されていなかった外国人が一時滞在する施設がなく、また、ときに西洋料理で饗応する必要性も出てきたため、明治2年(1987年)に外国人止宿所の設置が決まり、長崎で西洋料理店を経営していた草野丈吉が司長として任用された。草野丈吉は、長崎時代より五代友厚や当時大阪府知事であった土佐藩の後藤象二郎と昵懇であったと伝えられ、彼らが草野に止宿所の運営を依頼、後押ししたのは間違いないだろう。
川口居留地の競売
居留地選定から約1年が経過した慶応4年(1868)5月、明治政府は 各国公使に大阪開港方針を伝達しました。同年7月2日に大阪運上所 で大阪府権判事を務めていた五代友厚は各国の領事らに競売を通知 し、区画番号1~26の番号入り居留地絵図面を送付しました。7月24 日を競売日に設定していましたが、神戸居留地の競売日と重なったた めに川口居留地の競売日は7月29日に延期されました。大阪運上所 で行われた競売では各国の商社・個人が各区画を落札し、その内訳は イギリス13、アメリカ4、プロイセン4、フランス2、オランダ2、ベル ギー1でした。居留地では地券を所有する外国人が自由に地所を売買 し、区画の分区、面積変更も勝手に行われました。諸外国から川口居留 地の拡張を迫られた明治政府は明治17年(1884)に新たに27~36 番を増区し、再び競売しました。 川
▲川口運上所跡・川口電信局跡
諸外国の貿易取り締まり、関税徴収を担当する運上所は、幕末から明治初年に各開港場、開市場に設置されました。大阪の運上所では、慶応4年(1868)4月末から五代友厚らがその任にあたって大阪開港前後の諸問題を解決しました。また、運上所は 川口居留地造成のための地上げ普請請負 業者の募集や競売開催などを含む居留地関係の事務も担当しました。
▲川口居留地跡および天満宮御旅所跡 ▲木津川の流れ
天満宮御旅所跡
かつて戎島に天満宮御旅所がありました。 天神祭は鉾流神事によって毎回の御旅所を決めていましたが、1640年代後半頃に京町堀川下流に御旅所が常設されました。それから約30年後に御旅所は戎島に移転しました。明治に入るまでこの地にありましたが、川口に外人居留地ができたことから御旅所は移転を余儀なくされ、明治4年
(1871)に松島に移転しました。
 ▲松島公園遊郭後の九条島と朝鮮通信使の碑
松島
江戸時代、寺島と呼ばれた地は、樹齢約300年の松があったことにちなみ、明治に入ると松島と名を改めました。川口居留民のために、大阪府は市中の遊所を松島に集め、明治2年(1869)に松島遊郭を設けました。また、大阪府自ら客引きの目玉として、金獅子が屋根に載った白亜三層の妓楼・松鶴楼を建築しました。松島は遊郭として東の吉原と比較される程の賑わいを見せ、芝居小屋もあり、桜の名所としても有名でした。
朝鮮通信使
室町時代以後、朝鮮国王が日本に派遣した使節の1636年以降の名称。江戸時代には 12回に及んだ。一行はプサン (釜山) から対馬を経て大坂に到着し、京都から江戸へ東海道を下った。江戸城において国書・進物が献上され、将軍からは返書などが返された。しかし 1811 (文化8) 年の対馬への派遣を最後にとだえた。通信使によって朱子学をはじめとした中国や朝鮮の先進的な文化がもたらされた意義は大きい。
 
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 文:美智子   
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう